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『 日本の親王 ・ 諸王 』
世 襲 宮 家 より


 伏 見 宮 
 ふしみのみや 
 總 説


 世襲宮家の一。
 江戸時代の所謂「四親王家」の一。
 明治二十二年(一八八九)の皇室典範制定まで、歴代當主は親王宣下を被った(治仁王を除く)。
 
【諱の通字】
 貞常親王以降、明治時代に至るまで、「貞□」「邦□」の雁行。華頂宮から入って伏見宮を繼承した博恭王からは「博□」。
 
【所領等】
 名字の地は、長講堂領の山城國伏見御領。
 殿邸は、伏見殿など(豐臣朝臣秀吉による伏見築城まで)。江戸時代には今出川通出町口。
 室町時代の所領は、室町院領の一部、長講堂領の一部、播磨國衙領、尾張國熱田社領など。
 江戸時代の所領は、山城國葛野・愛宕・紀伊・乙訓郡内、千二十二石餘。
 
【菩提寺】
 相國寺(貞常親王から貞教親王まで)。
 
【伏見宮家の成立】
 崇光院の一男 榮仁親王を初代とするが、家としての實質は、崇光院より始まる。
 正平の一統により退位させられた北朝の崇光院は、南朝のもとから歸洛した後、自身の一男 榮仁親王の立坊・踐祚を望み、弟 後光嚴院と對立した。結局、皇位は後光嚴院の男子 後圓融院によって繼承され、崇光院の試みは失敗した。
 應永五年(一三九八)、崇光院の崩後、持明院統嫡流が傳領した長講堂領は後小松院に沒收され、榮仁親王自身も足利義滿によって出家を強いられた。皇位への望みを絶たれた親王は、一時、經濟的にも苦境に立たされたが、直仁親王[萩原殿]の遺領(室町院領)の一部を與えられ、また、舊領の一部を還付され、主に伏見御所を居所とした。應永二十三年(一四一六)には、室町院領・播磨國衙領を永代安堵すべしとの後小松院の院宣を賜わり、ここに、世襲宮家としての伏見宮の經濟的基盤が固められた。
 
【後花園院の踐祚と、貞成親王への太上天皇尊號宣下】
 應永二十三年(一四一六)十一月、入道榮仁親王の薨逝により、その一男治仁王が伏見宮家を繼承したが、親王宣下を被むることもなく、三箇月足らずで急死、榮仁親王の二男貞成王が繼承した(應永二十四年(一四一七)二月)。
 貞成王は、應永三十二年(一四二五)に太上天皇後小松院の猶子として親王宣下を蒙った。ここに、貞成親王は、事實上の皇位繼承第一候補者となった。このことは、嗣子のない當今稱光院(後小松院の男子)の意に反していた。同年六月、稱光院と後小松院が衝突した際、稱光院を宥めようとした後小松院の要請により、貞成親王は親王宣下後三箇月足らずで出家、皇位繼承の可能性を絶たれた。
 稱光院が急死した後、正長元年(一四二八)七月、入道貞成親王の一男が後小松院の子として即位した(後花園院)。後小松院の存命中、入道貞成親王は、當今後花園院の實父であるにもかかわらず、太上天皇尊號宣下を拒まれた。これは、後花園院の繼承によっても皇統が後光嚴院流であることに變わりはない、という後小松院の意志によるものであった。
 後小松院の崩後の文安四年(一四四七)、當今後花園院の實父として入道貞成親王は念願の太上天皇尊號宣下を蒙り(後崇光院)、ここに、名實共に、皇統は崇光院流に歸した。
 
【室町時代中後期から江戸時代までの伏見宮家】
 後崇光院の二男 貞常親王の時、康正二年(一四五六)十月、後花園院により、永世、「伏見殿御所」と稱することを許された。また、貞常親王は、寶徳二年(一四五〇)の正月敍位において、從來伯王家が行なってきた王氏爵の「氏擧」を行ない、王氏の是定としての第一親王の地位を確立している ( 王氏爵表凡例 」 をも參照されたい ) 。
 室町時代末期までに、伏見宮家以外の世襲宮家は悉く斷絶するに至ったものの、伏見宮家のみは、貞常親王の子孫によって繼承され、江戸時代に至った。
 
【貞常親王流の斷絶の危機】
 承應三年(一六五四)、嗣子のない邦道親王が薨逝した後、一時、後水尾院の男子が宮家を嗣ぐことに決定したといわれるが、民間にあった貞清親王の落胤が、京都所司代による吟味の上、召し出され、伏見宮を繼承した(貞致親王)。
 伏見宮家は、寶暦九年(一七五九)、貞致親王の曾孫邦忠親王の薨逝により、當主を缺いた。この時、邦忠親王の弟の勸修寺門跡寛寶親王が還俗して宮家を相續するという案もあったが、結局、桃園院の二宮の降誕を待ち、二宮が伏見宮を相續することに決定され、寶暦十年(一七六〇)、新誕の二宮が伏見宮家を相續した(貞行親王)。ここに、貞常親王の子孫ではない伏見宮家當主が現れた。
 明和九年(一七七二)、貞行親王が薨逝したため、今度は後桃園院の三宮の降誕を待つこととなった(一宮が皇儲、二宮が京極宮を相續する豫定)。しかし、後桃園院に皇子が誕生しないまま二年が經ったため、伏見宮家はいつまでも當主を缺くことになるとして、遂に、安永三年(一七七四)、勸修寺門跡寛寶親王が還俗して宮家を相續し(邦頼親王)、再び貞常親王の子孫が伏見宮家の當主となった。
 
【江戸時代後期における伏見宮家】
 邦頼親王の一男 嘉禰宮(のちの貞敬親王)は、安永八年(一七七九)十月、後桃園院の崩御後、後櫻町院と藤原朝臣内前[近衛]によって皇位繼承者として立てられようとしたが、關白藤原朝臣尚實[九條]の議により、典仁親王の六男にして聖護院門跡附弟の祐宮が皇位を嗣ぐこととなった(光格天皇)といわれる。
 邦家親王の時、天保十二年(一八四一)、邦家親王の弟(實は一男)である勸修寺門跡濟範親王が、妹 幾佐宮と共に密行するという事件が發生、翌天保十三年(一八四二)、邦家親王は、「身持不宜、家事向萬端不取締」を以て落飾・隱居させられ(禪樂親王)、家督は邦家親王の一男(實は六男)睦宮(貞教親王)が嗣いだ。
 貞教親王が嗣子なくして薨逝すると、禪樂親王の「末男」で妙法院門跡の敦宮(のちの貞愛親王)が、貞教親王の實子として宮家を繼承した。その後、濟範が赦免され還俗して晃親王[山階宮]となると、文久四年(一八六四)二月、禪樂親王も還俗し(邦家親王)、伏見宮を再繼承した。
 
【近代における伏見宮家】
 明治五年(一八七二)四月、邦家親王の隱居により、貞愛親王(もと敦宮)が家督を再繼承した。貞愛親王は、陸軍大將・元帥として、陸軍において重きをなした。
 貞愛親王の嫡子 邦芳王は、病のため伏見宮繼嗣を廢された。代わって、貞愛親王の庶長子で、華頂宮を繼承していた博恭王が、伏見宮に復歸、伏見宮繼嗣となった。かくて、貞愛親王の薨後、博恭王が伏見宮を繼承した。
 博恭王は、海軍大將・元帥・軍令部總長として、長らく海軍の最長老であった。また、博恭王の男子四人は皆 海軍に入った。かくて、伏見宮家は海軍の宮家として知られている。但し、伏見宮と海軍との關係は、華頂宮を繼承した博恭王が、華頂宮初代の博經親王の遺志を嗣いで海軍に入ったことに始まるものである。
 昭和二十一年(一九四六)八月、博恭王の薨逝後、嫡孫 博明王が家督を相續したが、昭和二十二年(一九四七)十月に皇籍身分を離脱し、伏見氏を稱した。
 
【備考】
『下橋敬長談話筆記』四親王家「伏見宮」に、
一般には伏見宮と申上げますが、維新前まで伏見宮の方では、宮の字を御用ゐにならずに、伏見殿とばかり御書きになりまして、御所へでも、攝家へでも、皆伏見殿で御使が參りました。伏見宮の家來の申分では、朝廷も當御殿も同じであるから、宮ではない、殿であるといふのです。これは、つまり後花園院天皇が伏見宮貞成(【振假名】サダフサ)親王(後崇光院太上天皇)の御子で、皇統を御繼ぎになり、御代々が其の御血統であらせられるといふ所から、かやうに申すのです。併し殿と稱するのは御當主だけで、王子達は皆宮と稱して居ました。
御初代の榮仁親王は有栖川においで遊ばしたので有栖川殿と申上げましたが、二代の貞成(【振假名】サダフサ)親王から伏見殿と稱せられました。
とある。
平井誠二「『下橋敬長談話筆記』─ 翻刻と解題 ─(一)」(『大倉山論集』第四十六輯、平成十二年九月)、三二二頁。
 
【分家】
 清棲[伯爵]家 「六十宮」を見よ。
 華頂[侯爵]家  博信王を見よ。
 伏見[伯爵]家  博英王を見よ。

 
【逸事】
應永八年(一四〇一)、伏見殿の燒亡により、日記等、數多くの傳來の書物が燒失した。
大河内富士子によると、伏見宮家では、「昔京都の頃、餅つきの残り火から火事になって御所の一部が焼けて以来」、歳の暮れの餅つきは行なわれなくなった、という。
遠藤幸威『聞き書き徳川慶喜残照』(朝日新聞社。一九八二年九月)、一一六頁。
 
【文獻等】
『皇室制度史料 皇族三』、四七〜五七頁
『皇室制度史料 皇族四』、四七〜一一〇頁、二四七〜二四九頁、二五二〜二九〇頁
『系圖綜覽』所收『詰所系圖』「伏見殿」、六九〜七八頁
飯田忠彦『野史』巻三十一「皇族列傳」第三「榮仁親王」
『系圖綜覽』所收『皇室系譜』「伏見宮」、九五〜九八頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』、四四〜四八頁
昭和新修華族家系大成 上巻』、三八〜四二頁
武部敏夫「ふしみのみやけ 伏見宮家」(『國史大辭典』第十二巻(吉川弘文館、一九九一年六月第一版)、一六二〜一六三頁
松薗斉『日記の家 ──中世国家の記録組織──』(吉川弘文館、平成九年(一九九七)八月)、第七章「持明院統天皇家の分裂」(一七八〜二〇一頁


  
伏 見 殿 ( 伏 見 宮 ) 歴 代 一 覽



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更新日時 : 2005.11.04.
公開日時 : 1999.08.25.

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