伏見宮貞愛親王


前頁 「 貞 [貞B]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[貞愛]

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貞愛親王 さだなる
 
伏見宮(二十四)
 もと敦宮」[妙法院門跡 のち伏見殿(二十二)]
 「伏見宮第二十一代」
 
【幼稱】
 「敦宮」 たつのみや
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」は「アツ」と讀む。
 
【出自】
 邦家親王[伏見宮]の[十四]男。
 貞ヘ親王[伏見殿]の實子。
 もと孝明天皇の養子。
 
【生母】
 藤原朝臣景子 ひろこ
 のち景子[邦家親王妃]
 藤原朝臣政熈[鷹司]の十九女。邦家親王の御息所。「織君」
 文化十年(一八一三)閏十一月二十四日生。
 明治二十五年(一八九二)八月八日薨逝。
 
【嫡母】
 藤原朝臣明子
 のち明子[貞ヘ親王妃]
 藤原朝臣輔熈[鷹司]の女子。貞ヘ親王の御息所。「妙榮コ院」
 弘化二年(一八四五)七月二十七日生。
 明治十一年(一八七八)八月二十二日薨逝。
 
【經歴】
安政五年(一八五八)四月二十八日、誕生。
『伏見宮日記』安政五年四月廿八日
「敦宮」
安政五年(一八五八)五月五日、「敦宮」と幼稱が定められる。
『伏見宮日記』安政五年五月五日
「敦宮」[妙法院門跡]
萬延元年(一八六〇)六月九日、妙法院門跡を相續する。
『伏見宮日記』萬延元年六月九日
萬延元年(一八六〇)九月十五日、孝明天皇の養子となる。母儀(養母)は藤原朝臣紀子(右衞門内侍)。
『言渡』萬延元年七月廿九日
『言渡』萬延元年九月十四日
『伏見宮日記』萬延元年九月十五日
稿本孝明天皇實録』六〇六〜六〇七頁 萬延元年九月十五日「是日、妙法院敦宮ヲ御養子ト爲ラル、」
「敦宮」[伏見殿]
貞ヘ親王[伏見殿]の薨逝により、文久二年(一八六二)十月十六日、「敦宮」の伏見宮相續を出願し、許される。
『伏見宮日記』文久二年十月十六日
文久二年(一八六二)十一月二十八日、孝明天皇養子を止め、伏見宮に復歸、貞ヘ親王の實子となり、伏見宮を相續する。
『伏見宮日記』文久二年十一月廿八日
一、禁中執次鳥山三河介〓【より】御用之儀候間、今日午剋、非藏人口江參上候樣、傳奏衆被仰渡候段申越、則承知之旨及返書。剋限伊勢守罷越候。則御兩卿御面會ニ而、妙法院敦宮【のちの貞愛親王】御養子被止、其御家【伏見宮】御相續被仰出候段御達被申。則歸殿及言上之後、非藏人口江御使陸奧守を以、右御請被仰上候處、坊城殿被承候由也。
一、左之方々江御使陸奧守を以、
  妙法院敦宮御方、故宮御方【貞教親王】爲御實子御相續之義、御願之通被仰[出]、畏思召候段、御風聽被仰入候也。
 ・・・・・
『野宮定功公武御用記』文久二年十一月廿八日丙子
文久二年(一八六二)十二月二十二日、伏見宮相續の披露を行う。
『伏見宮日記』文久二年十二月廿二日
文久三年(一八六三)五月二十四日、妙榮コ院(貞ヘ親王の御息所。藤原積子)を嫡母とする。
『伏見宮日記』文久三年五月廿三日
『伏見宮日記』文久三年五月廿四日
「伏見敦宮」
文久四年(一八六四)二月十一日、祖父(實は父)邦家親王が還俗して伏見宮家督を復したため、以後、「伏見敦宮」と稱される。
『伏見宮日記』文久四年二月十一日
、御附左之趣申遣之處、返書到來也。
入道宮御方今般御還俗被仰出候ニ付、以後被稱伏見殿候。是迄伏見殿御事、以後伏見敦(【振假名】タツ)宮御方被稱候。依御心得迄申入置候。以上。
 二月十一日
『親王攝家以下家領由緒帳』慶應元年・慶應三年「伏見二品式部卿邦家親王」
一 御孫   敦宮
元治元年(一八六四)九月十日、深曾木。
『伏見宮日記』元治元年九月十日
貞愛親王
明治四年(一八七一)三月二日、親王宣下。名を「貞愛(さだなる)」と賜わる。
『伏見宮日記』明治四年三月二日
敦宮御方今日親王宣下也。
一、宮御方巳剋御參朝。昨日依召也。宮内省被仰入候處、別紙被仰出。御請被仰上、御禮被爲仰上候事。・・・・・
  伏見敦宮
  爲親王
  右宣下候事
   辛未三月二日
   太政官

   大鷹三折也
   貞愛 佐多奈留
明治四年(一八七一)三月七日、元服。
明治四年(一八七一)三月八日、二品に直敍される。
『伏見宮日記』明治四年二月十三日
『伏見宮日記』明治四年三月八日
『皇室制度史料 皇族二』六七〜六九頁
貞愛親王[伏見宮]
明治五年(一八七二)四月十日、伏見宮を再相續。
『公文録』明治五年 皇族之部
              二品親王伏見貞愛
家督被仰付候事
  明治五年壬申四月十日 太政官
明治八年(一八七五)十二月三十一日、勲一等に敍される。
明治九年(一八七六)十月六日、利子女王(幟仁親王[有栖川宮]の四女)と結婚。
『伏見宮日記』明治九年三月卅一日
一、宮内省江左之伺書家令持參。
  今般當宮【貞愛親王】江有栖川二品宮【熾仁親王】御妹利子宮御貰受、御縁組被成度、御差支不被爲在候哉、此段奉伺候、以上、
    (明治九年)三月三十一日           (伏見宮家令)藤井希璞 印
    宮内卿徳大寺實則殿
  「【異筆】伺之趣、御差支無之候事、
    明治九年四月八日 印」
『伏見宮日記』明治九年十月六日
今日依吉辰、貞愛親王御息所有栖川一品幟仁親王御女利(【振假名】トシ)子御方御入車、御婚禮。
陸軍に入り、西南戰爭に出征。
明治十九年(一八八六)十二月二十九日、大勲位に敍される。
日C戰爭に出征。
明治二十八年(一八九五)十一月二十日、功三級に敍される。
日露戰爭に出征。
明治三十七年(一九〇四)六月二十八日、陸軍大將に任じられる。
明治三十九年(一九〇六)四月一日、功二級に敍される。
内大臣。
大正四年(一九一五)、元帥府に列される。
大正十二年(一九二三)二月三日十七時、銚子に於て死亡。
『牧野伸顯日記』大正十二年二月三日
午後六時過銚子所在伏見大宮【貞愛親王】殿下の別荘より殿下朝來急病を發せられ、午後五時手當の効能なく薨去遊ばされたる飛報あり。突然の事とて一層驚愕す。
大正十二年(一九二三)二月四日二十時過、「御危篤の姿にて」歸京。同日「薨逝」。
『牧野伸顯日記』大正十二年二月四日
内閣にて國葬の事に決す。
午後八時過御危篤の姿にて御歸京。
『高松宮日記』大正十二年二月五日月曜
昨夜午後九時貞愛親王薨去(銚子【伏見宮別邸】ヨリオ還リノ時刻)ヲ發表。五日ノ宮中喪出仰。喪章ヲツク。
大正十二年(一九二三)二月十四日、國葬。
『高松宮日記』大正十二年二月十四日水曜 予記欄
貞愛親王國葬。
・・・・・
 
【配偶】
 
利子女王 としこ
 貞愛親王妃
 幟仁親王[有栖川宮]の四女。
 
【子女】
 □
愛賢王
  のち博恭王[華頂宮(三)のち伏見宮(二五)]
 □ 邦芳王[伏見宮繼嗣]
 □ 昭コ王
 ○ 禎子女王 のち山内禎子
 
【逸事等】  
【文獻等】
『皇室制度史料 皇族一』一二〇頁
『皇室制度史料 皇族三』二六五〜二六六頁
『皇室制度史料 皇族四』一〇五〜一〇八頁、二一〇〜二一一頁
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」九十七頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』四四〜四八頁



 
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更新日時: 2013.03.02.
公開日時: 2012.08.26.


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