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安政五年(一八五八)四月二十八日、誕生。
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「敦宮」
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安政五年(一八五八)五月五日、「敦宮」と幼稱が定められる。
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「敦宮」[妙法院門跡]
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萬延元年(一八六〇)六月九日、妙法院門跡を相續する。
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萬延元年(一八六〇)九月十五日、孝明天皇の養子となる。母儀(養母)は藤原朝臣紀子(右衞門内侍)。
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『言渡』萬延元年七月廿九日
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『言渡』萬延元年九月十四日
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『伏見宮日記』萬延元年九月十五日
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『稿本孝明天皇實録』六〇六〜六〇七頁 萬延元年九月十五日「是日、妙法院敦宮ヲ御養子ト爲ラル、」
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「敦宮」[伏見殿]
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貞ヘ親王[伏見殿]の薨逝により、文久二年(一八六二)十月十六日、「敦宮」の伏見宮相續を出願し、許される。
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文久二年(一八六二)十一月二十八日、孝明天皇養子を止め、伏見宮に復歸、故貞ヘ親王の實子となり、伏見宮を相續する。
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『伏見宮日記』文久二年十一月廿八日
一、禁中執次鳥山三河介〓【より】御用之儀候間、今日午剋、非藏人口江參上候樣、傳奏衆被仰渡候段申越、則承知之旨及返書。剋限伊勢守罷越候。則御兩卿御面會ニ而、妙法院敦宮【のちの貞愛親王】御養子被止、其御家【伏見宮】御相續被仰出候段御達被申。則歸殿及言上之後、非藏人口江御使陸奧守を以、右御請被仰上候處、坊城殿被承候由也。
一、左之方々江御使陸奧守を以、
妙法院敦宮御方、故宮御方【貞教親王】爲御實子御相續之義、御願之通被仰[出]、畏思召候段、御風聽被仰入候也。
・・・・・
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『野宮定功公武御用記』文久二年十一月廿八日丙子
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文久二年(一八六二)十二月二十二日、伏見宮相續の披露を行う。
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文久三年(一八六三)五月二十四日、妙榮コ院(故貞ヘ親王の御息所。藤原積子)を嫡母とする。
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『伏見宮日記』文久三年五月廿三日
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『伏見宮日記』文久三年五月廿四日
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「伏見敦宮」
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文久四年(一八六四)二月十一日、祖父(實は父)邦家親王が還俗して伏見宮家督を復したため、以後、「伏見敦宮」と稱される。
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『伏見宮日記』文久四年二月十一日
一 |
、御附江左之趣申遣之處、返書到來也。
入道宮御方今般御還俗被仰出候ニ付、以後被稱伏見殿與候。是迄伏見殿御事、以後伏見敦(【振假名】タツ)宮御方與被稱候。依而御心得迄ニ申入置候。以上。
二月十一日
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『親王攝家以下家領由緒帳』慶應元年・慶應三年「伏見二品式部卿邦家親王」
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元治元年(一八六四)九月十日、深曾木。
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貞愛親王
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明治四年(一八七一)三月二日、親王宣下。名を「貞愛(さだなる)」と賜わる。
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『伏見宮日記』明治四年三月二日
敦宮御方今日親王宣下也。
一、宮御方巳剋御參朝。昨日依召也。宮内省江被仰入候處、別紙被仰出。御請被仰上、御禮被爲仰上候事。・・・・・
伏見敦宮
爲親王
右宣下候事
辛未三月二日
太政官
大鷹三折也
貞愛 佐多奈留
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明治四年(一八七一)三月七日、元服。
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明治四年(一八七一)三月八日、二品に直敍される。
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『伏見宮日記』明治四年二月十三日
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『伏見宮日記』明治四年三月八日
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『皇室制度史料 皇族二』六七〜六九頁
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貞愛親王[伏見宮]
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明治五年(一八七二)四月十日、伏見宮を再相續。
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『公文録』明治五年 皇族之部
二品親王伏見貞愛
家督被仰付候事
明治五年壬申四月十日 太政官
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明治八年(一八七五)十二月三十一日、勲一等に敍される。
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明治九年(一八七六)十月六日、利子女王(幟仁親王[有栖川宮]の四女)と結婚。
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『伏見宮日記』明治九年三月卅一日
一、宮内省江左之伺書家令持參。
今般當宮【貞愛親王】江有栖川二品宮【熾仁親王】御妹利子宮御貰受、御縁組被成度、御差支不被爲在候哉、此段奉伺候、以上、
(明治九年)三月三十一日 (伏見宮家令)藤井希璞 印
宮内卿徳大寺實則殿
「【異筆】伺之趣、御差支無之候事、
明治九年四月八日 印」
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『伏見宮日記』明治九年十月六日
今日依吉辰、貞愛親王御息所有栖川一品幟仁親王御女利(【振假名】トシ)子御方御入車、御婚禮。
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陸軍に入り、西南戰爭に出征。
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明治十九年(一八八六)十二月二十九日、大勲位に敍される。
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日C戰爭に出征。
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明治二十八年(一八九五)十一月二十日、功三級に敍される。
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日露戰爭に出征。
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明治三十七年(一九〇四)六月二十八日、陸軍大將に任じられる。
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明治三十九年(一九〇六)四月一日、功二級に敍される。
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内大臣。
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大正四年(一九一五)、元帥府に列される。
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大正十二年(一九二三)二月三日十七時、銚子に於て死亡。
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『牧野伸顯日記』大正十二年二月三日
午後六時過銚子所在伏見大宮【貞愛親王】殿下の別荘より殿下朝來急病を發せられ、午後五時手當の効能なく薨去遊ばされたる飛報あり。突然の事とて一層驚愕す。
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大正十二年(一九二三)二月四日二十時過、「御危篤の姿にて」歸京。同日「薨逝」。
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『牧野伸顯日記』大正十二年二月四日
内閣にて國葬の事に決す。
午後八時過御危篤の姿にて御歸京。
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『高松宮日記』大正十二年二月五日月曜
昨夜午後九時貞愛親王薨去(銚子【伏見宮別邸】ヨリオ還リノ時刻)ヲ發表。五日ノ宮中喪出仰。喪章ヲツク。
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大正十二年(一九二三)二月十四日、國葬。
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『高松宮日記』大正十二年二月十四日水曜 予記欄
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