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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[利子A]

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利子女王 としこ
 
 明治天皇の即位式の
褰帳女王
 貞愛親王[伏見宮]妃
 
【幼稱】
 「穗宮」 のぶのみや
 
【出自】
 幟仁親王[有栖川宮]の四女。
 
【實母】
 藤原朝臣廣子
 幟仁親王の御息所
 
【生母】
 森則子
 家女房
 「八千」「歌町」
 從六位下森安藝守清啓(大覺寺宮諸士)の女子。
 
【經歴】
安政五年(一八五八)五月二十一日生。
文久三年(一八六三)十月二日、徳川義宜(元千代、コ成)[尾張名古屋]と婚約。
元治元年(一八六四)三月二十八日、深曾木、著袴。
慶應四年(一八六八)八月二十六日、正五位下に敍される。十一歳。
慶應四年(一八六八)八月二十七日、明治天皇の即位式において左褰帳を勤仕。
『有栖川宮御達諸願伺屆留』慶應四年八月廿七日
『皇室制度史料 皇族二』六六〜六七頁
明治五年(一八七二)四月、父 幟仁親王と共に東京へ移る。十五歳。
明治八年(一八七五)十一月二十六日、徳川義宜が病歿したため、婚約は解消される。
明治九年(一八七六)三月三十一日、貞愛親王[伏見宮]との婚姻が内約。
『伏見宮日記』明治九年三月卅一日
明治九年(一八七六)四月八日、貞愛親王[伏見宮]との縁組が勅許される。
『伏見宮日記』明治九年三月卅一日(異筆)
明治九年(一八七六)九月二日、納采。
明治九年(一八七六)十月六日、貞愛親王[伏見宮]と結婚。十九歳。
『伏見宮日記』明治九年十月六日
『明治天皇紀』
明治十三年(一八八〇)三月十八日、邦芳王を出産。
明治十四年(一八八一)十月六日、昭コ王を出産。
明治二十一年(一八八八)十一月一日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
『明治天皇紀』
大正十四年(一九二五)十一月七日、麹町紀尾井町の伏見宮邸を出て中野別邸に移る。
昭和二年(一九二七)十月二十四日薨。七十歳。
『法令全書』昭和二年十月 告示「宮内省告示第二十號(官報號外)
故貞愛親王妃利子女王殿下本日午後七時四
十五分東京府豐多摩郡中野町伏見宮別邸ニ
於テ薨去セラル
 昭和二年十月二十四日
        宮内大臣 一木喜コカ
昭和二年(一九二七)十一月二日葬儀。
『法令全書』昭和二年十月 告示「宮内省告示第二十四號」
故貞愛親王妃利子女王殿下ノ御喪儀ヲ行ハ
セラルル期日場所及墓地左ノ通定メラル
 期 日 昭和二年十一月二日
 場 所 豐島岡
 墓 所 豐島岡墓地
 昭和二年十月二十九日
        宮内大臣 一木喜コカ
 
【墓所】
 東京都文京區大塚の豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 
貞愛親王[伏見宮]
 
【子女】
 □
邦芳王
 □ 昭コ王
 
【逸事等】
明治天皇の女御選定における候補者であった。
『明治天皇紀』
晩年は精~病を患った。『幟仁親王行實』三六六頁に、
宮は御鐘愛の昭コ王不幸夭折せられしかば、その御悲嘆譬ふるにものなく、爾來、兎角憂鬱に沈み給ひしが、其の後、邦芳王亦不治の病に罹らせられたれば、御心痛のあまり腦の御病に罹り給ひ、遂に公の式には列し給はざるに至り、御一生の後半は御病苦と御悲嘆とに、お痛はしき歳月を送り給へり。
とある。
 
【文獻等】
『系圖綜覽』所收『皇室系譜』「有栖川宮」 九四頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 四七頁
新修 有栖川宮系譜』 一〇四頁
『幟仁親王行實』 三六二〜三六六頁
『系圖纂要』「有栖川宮」に不見。


 
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更新日時: 2011.11.21.
公開日時: 2011.10.21.


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