伏見宮 博恭王


前頁 「 博 [博義]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[博恭]

フレームなし

工事中

博恭王 ひろやす
 
伏見宮(二十五) ふしみのみや
 もと華頂宮(三) くわちやう/かちょうのみや
 もと愛賢王[華頂宮] なるかた
   博厚親王の薨後、華頂宮を繼承。
 
【出自】
 貞愛親王[伏見宮]の一男(庶長子)。
 
【生母】
 河野千代子
 
【經歴】
明治八年(一八七五)十月十六日、東京府麹町富士見町(東京都千代田区富士見)の伏見宮邸に於て誕生。
愛賢王
明治八年(一八七五)十月二十二日、「愛賢(ナルカタ)」と命名。
明治十二年(一八七五)五月、伏見宮邸が麹町區紀尾井町に移轉。
明治十六年(一八八三)四月四日、愛賢王の華頂宮(博厚親王の薨後、繼承者を缺いていた)相續を宮内卿が上申する。
明治十六年(一八八三)四月十三日、愛賢王の華頂宮相續が勅許される。
『公文録』明治十六年 宮内省
愛賢王[華頂宮]
明治十六年(一八八三)四月二十三日、特旨により諸王に列されて、華頂宮を相續する。
『皇親録』明治十六年
博恭王[華頂宮]
明治十六年(一八八三)六月十一日、「博恭(ヒロヤス)王」と改名する。
『公文録』明治十六年 宮内省
『華頂宮日誌』明治十六年六月十一日(『博恭王殿下を偲び奉りて』四頁所引
愛賢王御方御名稱博恭と本日御願之通被 聞食候事。
『明治天皇紀』
明治十六年(一八八三)六月十三日、芝三田臺町の華頂宮邸に移る。
『華頂宮日誌』明治十六年六月十三日(『博恭王殿下を偲び奉りて』四頁所引
博恭王御方午前十時三十分伏見宮御出門にて當御邸に御引移相成候云々。
『明治天皇紀』
明治十八年(一八八五)三月二十日、菊麿王[山階宮]と共に、海軍兵學校へ通學するよう、明治天皇より仰せ付けられる。
特に博恭王については博經親王の遺志を繼ぐようにとの思召しによった。
『明治天皇紀』
明治十九年(一八八六)四月五日、築地の海軍兵學校豫科に入る。
明治二十一年(一八八八)九月十一日、海軍兵學校の江田島移轉に伴い一旦退校、學習院に寄宿。
明治二十二年(一八八九)一月二十六日、江田島の海軍兵學校に入校。
明治二十二年(一八八九)九月十七日、ドイツ留學のため海軍兵學校を退校。
『明治天皇紀』
ドイツ人醫師ベルツの診斷によって、留學にはまだ體力が不足とされたため、出發が遲れた。
明治二十三年(一八九〇)九月十四日、ドイツ留學に向け横濱より出發。
明治二十五年(一八九二)四月八日、キールのドイツ海軍兵學校に入校。
『明治天皇紀』
明治二十六年(一八九三)三月三十日、ドイツ海軍兵學校を卒業。海軍少尉候補生となる。
『明治天皇紀』
ドイツ海軍大學校に入學する。
『明治天皇紀』
明治二十七年(一八九四)四月二十日、海軍少尉となる。
明治二十八年(一八九五)八月十五日、ドイツ海軍大學校を卒業する。
『明治天皇紀』
明治二十八年(一八九五)十月二十八日、歸國。
『明治天皇紀』
ドイツが三國干渉に加わったことに衝撃を受けたため、豫定を早めて歸國したという。
明治二十八年(一八九五)十一月三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
『明治天皇紀』
明治三十年(一八九七)十二月一日、海軍中尉となる。
明治三十年(一八九七)十二月二十七日、海軍大尉となる。
明治三十六年(一九〇三)九月二十六日、海軍少佐となる。
博恭王[伏見宮繼嗣]
邦芳王[伏見宮繼嗣]の病により、明治三十七年(一九〇四)一月十六日、華頂宮より伏見宮に復歸、伏見宮繼嗣となる。三十歳。
『官報』明治三十七年一月十六日告示「宮内省告示第五號」
今般博恭王殿下ニ博義王恭子女王兩殿下ヲ携帶シ伏見宮へ復歸仰付ラレ博忠王殿下ニ華頂宮繼承
仰付ラル
    明治三十七年一月十六日             宮内大臣子爵田中光顯
『官報』明治三十七年一月十六日告示「宮内省告示第六號」
邦芳王殿下不治ノ疾病ノ故ヲ以テ貞愛親王殿下ノ情願ヲ允シ博恭王殿下ヲ伏見宮ノ繼嗣ト定メラル
 明治三十七年一月十六日      宮内大臣 子爵田中光顯
『明治天皇紀』
その後も引續き華頂宮邸を使用する。
明治三十七〜三十八年(一九〇四〜一九〇五)、戰艦「三笠」分隊長として日露戰爭に出征し、明治三十七年(一九〇四)八月十日の黄海海戰にて負傷する。
この負傷は、敵彈によるものではなく、砲身内早発(とうはつ)によるものであったと考えられている。
『明治天皇紀』
野村實「伏見宮・山本五十六負傷の真因」(『山本五十六再考』一五九〜一七四頁)
明治三十八年(一九〇五)十一月三日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
『明治天皇紀』
明治三十九年(一九〇六)九月二十八日、海軍中佐となる。
明治四十一年(一九〇八)一月十日、イギリス駐在のため、「御田伯爵(Count Mita)」の假名で横濱を出發。三月七日、ロンドンに到着。
『明治天皇紀』
明治四十三年(一九一〇)七月四日、イギリスより歸國。
『明治天皇紀』
明治四十三年(一九一〇)十二月一日、海軍大佐となる。
戰艦「朝日」、巡洋戰艦「伊吹」の兩艦長を務める。
大正二年(一九一三)八月三十一日、海軍少將となる。
大正三年(一九一四)八月十八日、海軍大學校長に任じられる。
大正五年(一九一六)十二月一日、海軍中將となる。
第二艦隊司令長官に任じられる。
大正十一年(一九二二)十二月一日、海軍大將となる。四十八歳。
東郷平八カと並ぶ日本海軍の二大長老の地位に立った。
博恭王[伏見宮]
大正十二年(一九二三)二月四日、父貞愛親王の薨去により、伏見宮を繼承。四十九歳。
大正十二年(一九二三)七月八日、中野の新邸(中野東別邸)に移轉。
邦芳王は中野西別邸に居住。
昭和七年(一九三二)二月二日、海軍軍令部長に任じられる。
博恭王の軍令部總長就任は、陸軍で載仁親王が參謀總長になった先例による。
『昭和天皇獨白録』「近衞の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」(七〇頁)
尚此際皇族を參謀總長【載仁親王】と軍令部總長【博恭王】にした事に付て附言する。
閑院宮【載仁親王】を參謀總長にしたのは【昭和六年十二月】、當時陸軍部内に派閥の爭が非道くなつて誰も總長に出る者がなく、閑院宮に御立を願ふ外はないと云ふ事であつたが、尚愼重を期し、西園寺の意見を徴した上で、閑院宮に參謀總長になつて戴いた譯である。
 海軍も、ロンドン會議以來内部は亂れてゐたが、既に陸軍に閑院宮の先例が出來たので、海軍の要求を容れて、伏見宮【博恭王】に軍令部總長【昭和七年二月】・・・ 
 然し、この結果は、連絡會議等に御本人は出席されず、次長のみが出席するといふ變な事になり近衞達が替へて欲しい[と]申出る樣になつたこと、且「ロボット」になつた傾向も見えたので、先づ參謀總長は杉山【元】に替つて貰ひ【昭和十五年十月】、伏見宮は病氣になられたので、その機會に替つていたゞいた【昭和十六年四月】。
昭和七年(一九三二)五月二十七日、元帥府に列され、元帥の稱號を賜わる。五十八歳。
昭和八年(一九三三)十月一日、海軍軍令部の改編に伴い、「海軍軍令部長」が「軍令部總長」と改稱される。
菊花章頚飾を授けられる。
昭和十六年(一九四一)四月九日、軍令部總長(ならびに兼職)を辭任。
昭和十七年(一九四二)四月四日、功一級金鵄勲章を授けられる。
『官報』第四五七〇號 昭和十七年四月七日 宮廷録事
○勲章親授式 本月四日午後二時勲章親授
式ヲ行ハセラレ元帥陸軍大將載仁親王元帥
海軍大將博恭王兩殿下ニ功一級金鵄勲章ヲ
元帥陸軍大將守正王殿下ニ大勲位菊花章頚
飾ヲ陸軍大章鳩彦王同稔彦王兩殿下 ・・・・・
・・・・・ ニ功一級金鵄勲章
ヲ授ケラレタリ
昭和二十年(一九四五)十二月二十八日、品川區上大崎の舊三條公爵邸(目黒御殿)に移轉。
昭和二十一年(一九四六)八月十六日午前九時三十八分、品川區上大崎の伏見宮邸にて薨去。七十二歳。
『官報』第五八七八號 昭和二十一年八月十七日 [告示]、宮内省告示第二十號
大勲位博恭王殿下本日午前九時三十八
分東京都品川區上大崎五丁目六百三十
九番地伏見宮邸ニ於テ薨去セラル
 昭和二十一年八月十六日
    宮内大臣 子爵 松平 慶民
『官報』第五八七八號 昭和二十一年八月十七日 [告示]、宮内省告示第二十一號
大勲位博恭王殿下薨去ニ付今十六日ヨ
リ十八日マテ三日間宮中喪仰出サル
 昭和二十一年八月十六日
    宮内大臣 子爵 松平 慶民
『官報』第五八七八號 昭和二十一年八月十七日 [告示]、宮内省告示第二十二號
故大勲位博恭王ノ喪儀ヲ行フ當日廢朝
仰出サル
 昭和二十一年八月十六日
    宮内大臣 子爵 松平 慶民
『宣仁親王日記』昭和二十一年八月十六日(金)上欄(『高松宮日記』第八巻、三九八頁)
博恭王薨去(〇九三八)、宮中喪三日間。
昭和二十一年(一九四六)八月二十一日、葬儀。
『官報』第五八八〇號 昭和二十一年八月二十日 告示、宮内省告示第二十三號
故博恭王ノ喪儀ヲ行ハセラルル期日場所及墓所左ノ通定メラル
 期 日 昭和二十一年八月二十一日
 場 所 豐島岡墓地
 墓 所 豐島岡墓地
  昭和二十一年八月十八日        宮内大臣 子爵 松平 慶民
『宣仁親王日記』昭和二十一年八月二十一日(水)(『高松宮日記』第八巻、三九九頁)
〇九二〇豐島岡、伏見宮【博恭王】御葬儀。御着ヲ迎ヘ、一〇〇〇葬場儀靈柩ヲ安置スル。オ輿モナク、初メテノ軍隊モオラヌお葬儀。一〇四〇退場、皈。
 
【墓所】
 東京都文京區大塚の豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 經子 つねこ
 博恭王妃
 徳川慶喜の九女。
 明治十五年(一八八二)九月二十三日、誕生。
 明治三十年(一八九七)一月九日、博恭王[華頂宮]と成婚。
 明治三十七年(一九〇四)一月十五日、博恭王と共に伏見宮に移籍。
 明治三十九年(一九〇六)、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
 昭和十四年(一九三九)八月十八日薨逝。五十八歳。
 ※『博恭王殿下を偲び奉りて』 五〇三〜五二〇頁 「博恭王妃經子殿下」
 
【子女】
 □
博義王 [伏見宮繼嗣]
 ○ 恭子女王 のち淺野恭子、淺野寧子
 □ 博忠王 [華頂宮]
 □ 博信王  のち華頂博信
 ○ 敦子女王 のち清棲敦子
 ○ 知子女王[朝融王妃]
 □ 博英王  のち伏見博英
 
【孫(博義王の子女)】
 ○
光子女王 のち伏見光子、尾崎光子
 □ 博明王 [伏見宮]  のち伏見博明
 ○ 令子女王
 ○ 章子女王 のち伏見章子、草刈章子
 
工事中 【逸事等】
その容貎から「長面君」の異名があった。
ロンドン條約當時、博恭王は昭和天皇に拜謁する希望を持っていたが、昭和天皇によって忌避された。
『木戸幸一日記』昭和八年九月六日
・・・・・ 宮内大臣に右の件御尋ありしことを報告したが、其際河井元侍從次長よりロンドン條約關係の消息につき左の如き話ありたりとのことであった。
  ロンドン條約
 一、ロンドン條約當時伏見宮【博恭王】拜謁の御希望ありたるが、陛下は此際會はぬ方が宜しからんとの御考へにて、次長御使として參殿し御留申上たることあり。其際殿下は大に御怒になり、右は内大臣に御下問ありしかと御尋ねありしとのことなり。
昭和九年(一九三四)七月十一日、博恭王は參内して、「海軍々籍にある皇族の一人として」、來るべき軍縮會議について意見を奏上、覺書を捧呈している。これに對し、昭和天皇は、不快の念を抱いている。
『木戸幸一日記』昭和九年七月十三日
・・・・・ 内大臣の談話要領左の如し。
  昨日、侍從長來訪、其の際の話に、一昨日、伏見軍令部總長の宮【博恭王】御參内、拜謁あり。
  伏見宮は海軍々籍にある皇族の一人として、來るべき軍縮會議に對する方針につき意見を奏上せられ、且つ覺書を捧呈せらる。
  陛下【昭和天皇】は、皇族が個人として如斯ことを奏上せらるるは御維新當時は或は有之しならんも、憲法發布後如斯ことはあるまじきことと思ふ、責任あるものの奏上なれば處置し得るも、如斯文書の處置は如何にすべきや、と侍從長へ御下問あり。侍從長は、只見たとの仰せにて殿下に御返却相成が宜しからんと思ふとのことにて、其相談に來られた。自分もそれに贊成して置いたが、尚、昨夜考ふるに、或は之は何れ政府が案を具して裁可を乞ふものなれば、それを待って意見を定むべし云々のことを御附加になりては如何との御話あり。・・・・・
 九時半、侍從長と面談、右の趣を傳へ、相談の結果、只見たとのみの御言葉にて御返しになるを至當と認め、其旨決定す。
當初は對米開戰に反對していたが、後、開戰を積極的に主張するようになった。
『木戸幸一日記』昭和十六年十月十日
午前十時出勤。武官長より伏見宮【博恭王】拜謁の際の御意見云々につき話を聽く。
 十時二十分より十一時二十分迄、拜謁す。其の際、過日伏見宮と御會見の際、對米問題につき殿下【博恭王】は極めて急進論を御進言ありし趣にて、[※昭和天皇は]痛く御失望被遊樣拜したり。
『昭和天皇獨白録』「近衞の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」(六六〜六七頁)
十月の初伏見宮【博恭王】が來られて意見を述べられた。即近衞、及川【古志カ】、永野【修身】、豐田【貞次カ。外相】、杉山【元】、東條の六人を並べて戰爭可否論をさせ、若し和戰兩論が半々であつたらば、戰爭論に決定してくれとの事であつた。私【昭和天皇】は之には大藏大臣【小倉正恒】を參加せしむべきだと云つて不贊成を表明した。高松宮も砲術學校に居た爲、若い者にたき付けられ戰爭論者の一人であつた。・・・・・ 皇族その他にも戰爭論多く、平和論は少くて苦しかつた。
 東久邇宮【稔彦王】、梨本宮【守正王】、賀陽宮【恒憲王】は平和論だつた、表面には出さなかつた。
海軍將官會議議員、議定官を務めた。
次の各團體の總裁を務めた。
 帝國水難救濟會
 日本海員掖濟會
 水交社
 大日本水産會
 日本産業協會
 義勇財團海防義會
 社團法人癌研究會
 財團法人斯文會
 海軍協會
 
工事中 【二・二六事件における博恭王】
二・二六事件直後の昭和十一年(一九三六)二月二十六日午前、軍事參議官眞崎甚三カ陸軍大將は陸相官邸にて川島陸軍大臣と叛亂將校らと會った後、午前十時頃、伏見宮邸に赴き、加藤寛治海軍大將(後備役)と面談し、軍令部總長博恭王に報告した。博恭王は眞崎・加藤を伴い参内した。博恭王は昭和天皇に謁見し、意見を言上したが、昭和天皇は不興であった。

岡田貞寛『父と私の二・二六事件』(講談社、一九八九年二月)236〜241頁 「伏見宮参内」236頁
伏見宮が拝謁を終った時点で、海軍の叛乱軍に対する態度がきまったと言ってよいと思う。
岡田貞寛『父と私の二・二六事件』(講談社、一九八九年二月)236〜241頁 「伏見宮参内」240頁
天皇の叛乱軍に対する毅然たる姿勢に接した伏見宮は、この時点で宮自身の姿勢を百八十度転換したと推察される。
二月二十八日午後二時半から、宮中の西二の間で開かれた皇族の會議に先立ち、博恭王は、小田原で病氣靜養中の參謀總長載仁親王元帥の上京を、本庄侍從武官長に強く説示した。會議において、博恭王は、海軍を代表して、叛亂軍を速やかに討伐すべき旨を強く主張した。

三月一日、昭和天皇に拜謁して、叛亂軍を徹底的に撃滅しなかったことが遺憾であること、載仁親王[閑院宮]の態度が遺憾であること等、海軍の意見を言上した。
『木戸幸一日記』昭和十一年三月一日(日)
伏見宮【博恭王】參内、拜謁せらる。大要左の意味の御意見を言上せられ由しなり。
 一、叛亂軍を徹底的に撃滅せざりしは遺憾なり。
 一、閑院宮の御態度は遺憾なり。
 一、荒木、眞崎等を出さず、中正なる者により肅軍せざれば海軍は迷惑なり。
 
工事中 【東條英機内閣打倒計畫における博恭王】
昭和十九年(一九四四)六月二十六日、東條英機内閣を批判する海軍の意見を代表し、昭和天皇に拜謁。
『入江相政日記』昭和十九年六月二十六日(月)
十時高松宮御參、御對面。十一時博恭王御對面。いよ々々事態の容易ならざるを思はせる。誠に深憂に堪へない。
  東條英機内閣打倒を企圖した海軍大將岡田啓介や宣仁親王[高松宮]らは、海軍大臣兼軍令部總長嶋田繁太カの海軍大臣更迭により目的を果たそうとし、嶋田繁太カの後ろ楯であった博恭王をして、嶋田の海軍大臣辭任を勸告させた。しかし、博恭王は説得に失敗した。
この頃、東條英樹の側近、後宮淳參謀次長、富永恭次陸軍次官、佐藤賢了陸軍省軍務局長らの間で、和平派として岡田啓介海軍大將、米内光政海軍大將、博恭王を軟禁しようとの計画があったという。
『昭和天皇獨白録』「東條と云ふ人物」(九一頁)
高松宮も嶋田を止めた方が良いと云つて來る。又伏見宮【博恭王】も岡田大將と連絡して海軍を代表して嶋田に對し大臣を止める樣に忠言すると云つて居られたが、或時その報告に來られて嶋田が軍令部總長に轉じ、大臣には米内を持つてくる案を嶋田にすゝめるとの事であつた。
 この時私【昭和天皇】は伏見宮に對し、二つの條件を云つた。即この人事の爲に、東條内閣を倒す事は困るといふ事、私の意見で嶋田を止めさせる事は困るといふ事である。處が嶋田は伏見宮の勸告を拒絶した。伏見宮が勸告に成功しなかつた譯は、この案は元來岡田案で、伏見宮は附け燒刃であつた爲、嶋田を説得する丈けの力がなかつた爲であらう。
『近衞文麿日記』昭和十九年七月二日午後五時より同七時過まで、「目白別邸において岡田啓介大將と會見」(『近衛日記』二六〜二八頁)
大將はまず今日までの經過を語る。いわく。
 最初、軍令部長【軍令部總長】を兼ねた時、島田【嶋田繁太カ】の信望がたりないところへ大臣と兩方兼ねるのでは部内が納まらない。そこで米内【光政】を現役にして島田の相談相手にしてはどうかと考え、伏見元帥宮殿下の御同意を得て島田に話したところ、島田は「米内の後輩永野【修身】が元帥になっているのだから、今さら、米内を現役にすることは出來ない」という理由で斷った。その後、u々島田に對する物論ごうごうたるものがあるので、部長だけは殘し、大臣の方は更迭したらよかろうと考え、此の時は伏見宮だけでなく、高松宮の御同意を得、それから反對派をまとめる必要上、末次【信正】にも話しちょうどサイパンの戰爭最中であったが、私【岡田啓介】が此の事を島田に言ったら島田は「目下重要作戰計畫中だから、しばらく待ってくれ」と斷った。それからサイパンが一段落して伏見宮【博恭王】が親しく海軍大臣邸宅に島田を訪問せられ、私と同樣のことを言われたところ、島田は、
自分がやめると東條がやめる。東條がやめるということになると政治上の重大事件となる。殿下もそういうことにお動きになると政爭の渦中にお入りになることになる。
 とお答えしたそうだ。そこで私は殿下をもってしても駄目だから二十六日(六月)自身東條を訪問したところ、・・・・・
『細川護貞日記』昭和十九年六月二十九日(『細川日記』二五三頁)
殿下【宣仁親王[高松宮]】より「島田と云ふ人は、どうしてあんなに頑張るのだらう。先日から岡田大將【啓介】、鈴木大將【貫太カ】らと相談し、兎も角海相か軍令部總長か何れか一方にしようとして、伏見元帥宮【博恭王】より言つて頂いたのだが、島田は、『私が辭めれば東條も辭めます。現に政界には、海軍を使つて東條内閣を打倒せんとする陰謀があります。殿下は夫れに加担遊ばされますか』と威し奉つた爲、あの老殿下はビツクリして、熱海へ行つてしまはれた」と仰せあり。
〔研究余録〕野村実「東条内閣の皇族軟禁計画の真偽」(『日本歴史』第五九四号、一九九七年十一月、九一〜九二頁)
東條英機内閣倒閣後の皇族内閣計畫において、稔彦王[東久邇宮]は、博恭王を總理大臣とする案を近衞文麿に語っている。
『近衞文麿日記』昭和十九年七月八日午後(『近衛日記』五四〜五五頁)
・・・・・ なお、内府【木戸幸一】が最後の場合「高松宮殿下【宣仁親王】より殿下【稔彦王】が御適任なり」と話しいたりと言上せしに殿下【稔彦王】は、
  伏見元帥宮【博恭王】はどうだろう
 との御言葉。予【近衞文麿】は「伏見宮殿下は御老年なれば、矢張り殿下をおいて他に御適任なし」と申上げ置きたり。
昭和十九年(一九四四)七月、東條英機内閣の倒閣をめざす宣仁親王が、「統帥權の確立」という名目で、東條英機首相の參謀總長兼任の罷免を要求して上奏したが、その本來の意図とは別に、博恭王を陸海兩軍總統帥にするという案が生じた。
『近衞文麿日記』昭和十九年七月十五日夜「中川良長男來訪」(『近衛日記』七六〜七七頁)
中川男は賀陽宮殿下のお使として來れるなり。以下、賀陽宮殿下の御言葉。
 來る十七日、朝香【鳩彦王】、東久邇【稔彦王】兩宮殿下、軍事參議官の資格で統帥部の強化に就て上奏せられることになっている。その主たる内容は、伏見元帥宮殿下【博恭王】を陸海兩軍の統帥となさせられんことを願うというにある。(註、前記三殿下【宣仁親王・稔彦王・鳩彦王】上奏の事【統帥權の確立。即ち、東條英機首相の參謀總長兼任の罷免】が、かく發展したるものとみゆ)
 陛下【昭和天皇】は、此の頃、神經衰弱の御氣味で、往々、非常に昂奮遊ばされる。高松宮殿下が何か御熱心に上奏されると「無責任の皇族の話は聽かぬ」と仰せられたりする。自分【恒憲王】もこういうことでは、 陛下を御輔翼し奉る譯に行かないから皇族を拜辭しようと思ったが、東久邇宮殿下に慰留された云々。
『近衞文麿日記』昭和十九年七月十六日午後二時「岡田啓助大將來訪」(『近衛日記』七八頁)
なお、伏見宮殿下【博恭王】の陸海總統帥案は如何と問いしに大將【岡田啓助】は、
  此の事はチラと耳にしたが、陸軍の策謀と思う。伏見宮殿下と島田【嶋田繁太カ】との、從來の關係を利用して、海軍を抑えようとするものだ。海軍としては困る。
 という話。
 
工事中 【文獻等】
『博恭王殿下を偲び奉りて』(東京都品川區大崎、御傳記編纂會、昭和二十三年(一九四八)七月)
『皇室制度史料 皇族四』 二二三〜二二四頁、二三七頁
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「伏見宮」九十八頁
井原ョ明『増補皇室事典』(東京、冨山房、昭和十三年(一九三八)六月初版、昭和十七年四月再版)三四六頁)
野村實「ひろやすおう 博恭王」(『國史大辭典』第十一巻(東京、吉川弘文館、一九九〇年九月第一版)一一〇五頁)
野村實『山本五十六再考』(中公文庫)(東京、中央公論社、一九九六年四月。初出、野村實『天皇・伏見宮と日本海軍』(文藝春秋、一九八八年二月)を改題)
〔研究余録〕野村實「東条内閣の皇族軟禁計画の真偽」(『日本歴史』第五九四号(平成九年(一九九七)十一月) 九一〜九二頁)
吉田俊雄『四人の軍令部総長』(東京、文藝春秋、一九八八年八月)序章 軍令部総長と軍令部 「伏見宮博恭王」(九〜二二頁)
生出寿『帝国海軍 軍令部総長の失敗 天皇に背いた伏見宮元帥』(東京、徳間書店、一九八七年三月)

浅見雅男『伏見宮 もうひとつの天皇家』(東京、講談社、二〇一二年十月)


 
次頁 「 博 [博經]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 は 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


公開日時: 2013.01.01.

Copyright: Ahmadjan 2013.1 - All rights reserved.