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明治八年(一八七五)十月十六日、東京府麹町富士見町(東京都千代田区富士見)の伏見宮邸に於て誕生。
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愛賢王
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明治八年(一八七五)十月二十二日、「愛賢(ナルカタ)」と命名。
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明治十二年(一八七五)五月、伏見宮邸が麹町區紀尾井町に移轉。
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明治十六年(一八八三)四月四日、愛賢王の華頂宮(博厚親王の薨後、繼承者を缺いていた)相續を宮内卿が上申する。
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明治十六年(一八八三)四月十三日、愛賢王の華頂宮相續が勅許される。
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愛賢王[華頂宮]
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明治十六年(一八八三)四月二十三日、特旨により諸王に列されて、華頂宮を相續する。
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博恭王[華頂宮]
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明治十六年(一八八三)六月十一日、「博恭(ヒロヤス)王」と改名する。
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『公文録』明治十六年 宮内省
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『華頂宮日誌』明治十六年六月十一日(『博恭王殿下を偲び奉りて』四頁所引)
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『明治天皇紀』
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明治十六年(一八八三)六月十三日、芝三田臺町の華頂宮邸に移る。
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『華頂宮日誌』明治十六年六月十三日(『博恭王殿下を偲び奉りて』四頁所引)
博恭王御方午前十時三十分伏見宮御出門にて當御邸に御引移相成候云々。
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『明治天皇紀』
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明治十八年(一八八五)三月二十日、菊麿王[山階宮]と共に、海軍兵學校へ通學するよう、明治天皇より仰せ付けられる。
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特に博恭王については博經親王の遺志を繼ぐようにとの思召しによった。
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『明治天皇紀』
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明治十九年(一八八六)四月五日、築地の海軍兵學校豫科に入る。
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明治二十一年(一八八八)九月十一日、海軍兵學校の江田島移轉に伴い一旦退校、學習院に寄宿。
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明治二十二年(一八八九)一月二十六日、江田島の海軍兵學校に入校。
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明治二十二年(一八八九)九月十七日、ドイツ留學のため海軍兵學校を退校。
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『明治天皇紀』
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ドイツ人醫師ベルツの診斷によって、留學にはまだ體力が不足とされたため、出發が遲れた。
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明治二十三年(一八九〇)九月十四日、ドイツ留學に向け横濱より出發。
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明治二十五年(一八九二)四月八日、キールのドイツ海軍兵學校に入校。
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明治二十六年(一八九三)三月三十日、ドイツ海軍兵學校を卒業。海軍少尉候補生となる。
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ドイツ海軍大學校に入學する。
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明治二十七年(一八九四)四月二十日、海軍少尉となる。
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明治二十八年(一八九五)八月十五日、ドイツ海軍大學校を卒業する。
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明治二十八年(一八九五)十月二十八日、歸國。
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『明治天皇紀』
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ドイツが三國干渉に加わったことに衝撃を受けたため、豫定を早めて歸國したという。
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明治二十八年(一八九五)十一月三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
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明治三十年(一八九七)十二月一日、海軍中尉となる。
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明治三十年(一八九七)十二月二十七日、海軍大尉となる。
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明治三十六年(一九〇三)九月二十六日、海軍少佐となる。
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博恭王[伏見宮繼嗣]
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邦芳王[伏見宮繼嗣]の病により、明治三十七年(一九〇四)一月十六日、華頂宮より伏見宮に復歸、伏見宮繼嗣となる。三十歳。
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『官報』明治三十七年一月十六日告示「宮内省告示第五號」
今般博恭王殿下ニ博義王恭子女王兩殿下ヲ携帶シ伏見宮へ復歸仰付ラレ博忠王殿下ニ華頂宮繼承
仰付ラル
明治三十七年一月十六日 宮内大臣子爵田中光顯
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『官報』明治三十七年一月十六日告示「宮内省告示第六號」
邦芳王殿下不治ノ疾病ノ故ヲ以テ貞愛親王殿下ノ情願ヲ允シ博恭王殿下ヲ伏見宮ノ繼嗣ト定メラル
明治三十七年一月十六日 宮内大臣 子爵田中光顯
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『明治天皇紀』
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その後も引續き華頂宮邸を使用する。
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明治三十七〜三十八年(一九〇四〜一九〇五)、戰艦「三笠」分隊長として日露戰爭に出征し、明治三十七年(一九〇四)八月十日の黄海海戰にて負傷する。
この負傷は、敵彈によるものではなく、砲身内早発(とうはつ)によるものであったと考えられている。
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『明治天皇紀』
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野村實「伏見宮・山本五十六負傷の真因」(『山本五十六再考』一五九〜一七四頁)
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明治三十八年(一九〇五)十一月三日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
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明治三十九年(一九〇六)九月二十八日、海軍中佐となる。
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明治四十一年(一九〇八)一月十日、イギリス駐在のため、「御田伯爵(Count Mita)」の假名で横濱を出發。三月七日、ロンドンに到着。
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明治四十三年(一九一〇)七月四日、イギリスより歸國。
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明治四十三年(一九一〇)十二月一日、海軍大佐となる。
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戰艦「朝日」、巡洋戰艦「伊吹」の兩艦長を務める。
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大正二年(一九一三)八月三十一日、海軍少將となる。
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大正三年(一九一四)八月十八日、海軍大學校長に任じられる。
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大正五年(一九一六)十二月一日、海軍中將となる。
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第二艦隊司令長官に任じられる。
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大正十一年(一九二二)十二月一日、海軍大將となる。四十八歳。
東郷平八カと並ぶ日本海軍の二大長老の地位に立った。
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博恭王[伏見宮]
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大正十二年(一九二三)二月四日、父貞愛親王の薨去により、伏見宮を繼承。四十九歳。
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大正十二年(一九二三)七月八日、中野の新邸(中野東別邸)に移轉。
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昭和七年(一九三二)二月二日、海軍軍令部長に任じられる。
博恭王の軍令部總長就任は、陸軍で載仁親王が參謀總長になった先例による。
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『昭和天皇獨白録』「近衞の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」(七〇頁)
尚此際皇族を參謀總長【載仁親王】と軍令部總長【博恭王】にした事に付て附言する。
閑院宮【載仁親王】を參謀總長にしたのは【昭和六年十二月】、當時陸軍部内に派閥の爭が非道くなつて誰も總長に出る者がなく、閑院宮に御立を願ふ外はないと云ふ事であつたが、尚愼重を期し、西園寺の意見を徴した上で、閑院宮に參謀總長になつて戴いた譯である。
海軍も、ロンドン會議以來内部は亂れてゐたが、既に陸軍に閑院宮の先例が出來たので、海軍の要求を容れて、伏見宮【博恭王】に軍令部總長【昭和七年二月】・・・
然し、この結果は、連絡會議等に御本人は出席されず、次長のみが出席するといふ變な事になり近衞達が替へて欲しい[と]申出る樣になつたこと、且「ロボット」になつた傾向も見えたので、先づ參謀總長は杉山【元】に替つて貰ひ【昭和十五年十月】、伏見宮は病氣になられたので、その機會に替つていたゞいた【昭和十六年四月】。
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昭和七年(一九三二)五月二十七日、元帥府に列され、元帥の稱號を賜わる。五十八歳。
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昭和八年(一九三三)十月一日、海軍軍令部の改編に伴い、「海軍軍令部長」が「軍令部總長」と改稱される。
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菊花章頚飾を授けられる。
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昭和十六年(一九四一)四月九日、軍令部總長(ならびに兼職)を辭任。
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昭和十七年(一九四二)四月四日、功一級金鵄勲章を授けられる。
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『官報』第四五七〇號 昭和十七年四月七日 宮廷録事
○勲章親授式 本月四日午後二時勲章親授
式ヲ行ハセラレ元帥陸軍大將載仁親王元帥
海軍大將博恭王兩殿下ニ功一級金鵄勲章ヲ
元帥陸軍大將守正王殿下ニ大勲位菊花章頚
飾ヲ陸軍大章鳩彦王同稔彦王兩殿下 ・・・・・
・・・・・ ニ功一級金鵄勲章
ヲ授ケラレタリ
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昭和二十年(一九四五)十二月二十八日、品川區上大崎の舊三條公爵邸(目黒御殿)に移轉。
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昭和二十一年(一九四六)八月十六日午前九時三十八分、品川區上大崎の伏見宮邸にて薨去。七十二歳。
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『官報』第五八七八號 昭和二十一年八月十七日 [告示]、宮内省告示第二十號
大勲位博恭王殿下本日午前九時三十八
分東京都品川區上大崎五丁目六百三十
九番地伏見宮邸ニ於テ薨去セラル
昭和二十一年八月十六日
宮内大臣 子爵 松平 慶民
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『官報』第五八七八號 昭和二十一年八月十七日 [告示]、宮内省告示第二十一號
大勲位博恭王殿下薨去ニ付今十六日ヨ
リ十八日マテ三日間宮中喪仰出サル
昭和二十一年八月十六日
宮内大臣 子爵 松平 慶民
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『官報』第五八七八號 昭和二十一年八月十七日 [告示]、宮内省告示第二十二號
故大勲位博恭王ノ喪儀ヲ行フ當日廢朝
仰出サル
昭和二十一年八月十六日
宮内大臣 子爵 松平 慶民
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『宣仁親王日記』昭和二十一年八月十六日(金)上欄(『高松宮日記』第八巻、三九八頁)
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昭和二十一年(一九四六)八月二十一日、葬儀。
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『官報』第五八八〇號 昭和二十一年八月二十日 告示、宮内省告示第二十三號
故博恭王ノ喪儀ヲ行ハセラルル期日場所及墓所左ノ通定メラル
期 日 昭和二十一年八月二十一日
場 所 豐島岡墓地
墓 所 豐島岡墓地
昭和二十一年八月十八日 宮内大臣 子爵 松平 慶民
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『宣仁親王日記』昭和二十一年八月二十一日(水)(『高松宮日記』第八巻、三九九頁)
〇九二〇豐島岡、伏見宮【博恭王】御葬儀。御着ヲ迎ヘ、一〇〇〇葬場儀靈柩ヲ安置スル。オ輿モナク、初メテノ軍隊モオラヌお葬儀。一〇四〇退場、皈。
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