華頂博信


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[博信]

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博信王 ひろのぶ
 のち華頂博信 かちょう(クワチヤウ)ひろのぶ(侯爵)
   ※ 華頂宮の祭祀を繼承。
 
【出自】
 
博恭王[伏見宮]の三男。
 
【母】
 經子
 博恭王妃
 徳川慶喜の九女。
 
【經歴】
明治三十八年(一九〇五)五月二十二日、誕生。
『明治天皇紀』
博信王
「博信(ヒロノブ)」と命名される。
明治天皇より、海軍軍人となるべき聖旨を賜わる。
大正十三年(一九二四)三月三十一日、兄博忠王の葬儀において、喪主を務めた。これは、博信王が華頂宮の祭祀の繼承者となったためである。
『官報』第三四七四號 大正十三年三月二十六日 宮廷録事
◎御沙汰 故博忠王葬儀ニ付博信王殿下ヘ喪主被仰付候旨
一昨二十四日御沙汰アラセラレタリ
華頂博信(侯爵)
大正十五年(一九二六)十二月七日、臣籍降下。「華頂(クワチヤウ/かちょう)」の家名を賜わり、華頂宮の祭祀を繼承。侯爵を授けられる。
『官報』 大正十五年十二月八日 告示 宮内省告示第三十號
華頂宮は、博信王の兄である博忠王の薨逝(大正十三年三月二十四日)によって廢絶した。
大正十五年(一九二六)十二月十三日、華子女王(載仁親王[閑院宮]の五女)と結婚。
海軍大佐となる。
昭和二十一年(一九四六)四月十二日、貴族院議員を辭職する。
『官報』第五七九五號 昭和二十一年五月十三日 帝國議會 ○貴族院議員辭職
      四月十二日貴族院議員正
三位勲一等侯爵華頂博信、・・・・・
・・・・・ ノ辭職御允裁
アラセラレタリ
華頂博信
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(伯爵)の身位を喪失する。
昭和二十六年(一九五一)八月七日、華頂華子と離婚。所謂「華頂事件」
昭和二十八年(一九五三)秋、ルース早川壽美と再婚。
昭和三十年(一九五五)、アメリカ合衆國ロサンゼルスへ渡り、UCLA(カリフォルニア大學ロサンゼルス分校)ヘ授となり、社會心理學をヘえた。專門では、生物學の細胞遺傳を研究。
晩年、アメリカ合衆國籍を取得する。
昭和四十五年(一九七〇)十月二十五日、歿。六十五歳。
 
【墓所】
 アメリカ合衆國ロサンゼルスのローズヒルのメモリアルパーク
 
【配偶】
 華頂華子 かちょう(クワチヤウ) はなこ
 載仁親王[閑院宮]の五女。
 もと華子女王
 華頂壽美子 かちょう すみこ
 
【子女】
 華頂博道 ひろみち
 華頂博信・華子の一男。
 華頂博孝(いちじ伏見博孝) ひろたか
 いちじ伏見博孝(伯爵)
 華頂博信・華子の二男。
 昭和七年(一九三二)七月三十一日、誕生。
 昭和十八年(一九四三)八月二十五日、[故]伏見博英の養嗣子となる。
 昭和十八年(一九四三)十月一日、伯爵を襲爵。
 昭和二十六年(一九五一)三月、伏見家より離籍。
 平成三年(一九九一)二月十七日、歿。
 ※『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 四五六頁
 華頂治子 のち松岡治子 はるこ
 華頂博信・華子の一女。
 華頂幸子 さちこ
 華頂博信の二女。母は壽美子
 
【逸事等】
海軍兵學校では、宣仁親王[高松宮]、萩麿王(のち鹿島萩麿)との交流があり、『宣仁親王日記』に記載がある。
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 四二三頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 三八九頁
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』 一一八〜一二一頁
河原敏明『美智子さまと皇族たち』 二一五〜二一七頁
「日本の名家『旧宮家はいま』4」伏見家(『週刊読売』一九八八年六月五日) 一五五〜一五六頁


 
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公開日時: 2013.01.11.

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