華頂博信
|
|
|
博恭王妃 徳川慶喜の九女。 |
● |
明治三十八年(一九〇五)五月二十二日、誕生。
| ||||
博信王 | |||||
● |
「博信(ヒロノブ)」と命名される。 | ||||
● |
明治天皇より、海軍軍人となるべき聖旨を賜わる。 | ||||
● |
大正十三年(一九二四)三月三十一日、兄博忠王の葬儀において、喪主を務めた。これは、博信王が華頂宮の祭祀の繼承者となったためである。
| ||||
華頂博信(侯爵) | |||||
● |
大正十五年(一九二六)十二月七日、臣籍降下。「華頂(クワチヤウ/かちょう)」の家名を賜わり、華頂宮の祭祀を繼承。侯爵を授けられる。
| ||||
● |
大正十五年(一九二六)十二月十三日、華子女王(載仁親王[閑院宮]の五女)と結婚。 | ||||
● |
海軍大佐となる。 | ||||
● |
昭和二十一年(一九四六)四月十二日、貴族院議員を辭職する。
| ||||
華頂博信 | |||||
● |
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(伯爵)の身位を喪失する。 | ||||
● |
昭和二十六年(一九五一)八月七日、華頂華子と離婚。所謂「華頂事件」。 | ||||
● |
昭和二十八年(一九五三)秋、ルース早川壽美と再婚。 | ||||
● |
昭和三十年(一九五五)、アメリカ合衆國ロサンゼルスへ渡り、UCLA(カリフォルニア大學ロサンゼルス分校)ヘ授となり、社會心理學をヘえた。專門では、生物學の細胞遺傳を研究。 | ||||
● |
晩年、アメリカ合衆國籍を取得する。 | ||||
● |
昭和四十五年(一九七〇)十月二十五日、歿。六十五歳。 |
載仁親王[閑院宮]の五女。 もと華子女王 |
華頂博信・華子の一男。 |
いちじ伏見博孝(伯爵) 華頂博信・華子の二男。 昭和七年(一九三二)七月三十一日、誕生。 昭和十八年(一九四三)八月二十五日、[故]伏見博英の養嗣子となる。 昭和十八年(一九四三)十月一日、伯爵を襲爵。 昭和二十六年(一九五一)三月、伏見家より離籍。 平成三年(一九九一)二月十七日、歿。 ※『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 四五六頁 |
華頂博信・華子の一女。 |
華頂博信の二女。母は壽美子 |
● |
海軍兵學校では、宣仁親王[高松宮]、萩麿王(のち鹿島萩麿)との交流があり、『宣仁親王日記』に記載がある。 |
● |
『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 四二三頁 |
● |
『昭和新修 華族家系大成 上巻』 三八九頁 |
● |
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』 一一八〜一二一頁 |
● |
河原敏明『美智子さまと皇族たち』 二一五〜二一七頁 |
● |
「日本の名家『旧宮家はいま』4」伏見家(『週刊読売』一九八八年六月五日) 一五五〜一五六頁 |
| |||
| |||
|