華子女王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[華子]

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華子女王 はなこ
のち 華頂華子 かちょう(クワチヤウ)はなこ
竹村華子 たけむら はなこ
戸田華子 とだ はなこ
 
【出自】
 
載仁親王[閑院宮]の五女。
 
【母】
 智惠子
 載仁親王妃
 三條實美の二女。
 
【經歴】
明治四十二年(一九〇九)六月三十日、誕生。
『明治天皇紀』
華子女王
「華子(ハナコ)」と命名される。
華頂華子
大正十五年(一九二六)十二月十三日、華頂博信(もと博信王)に降嫁
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族の身位を喪失する。
竹村華子
昭和二十六年(一九五一)八月七日、華頂博信と離婚。所謂「華頂事件」。竹村姓の戸籍を編成する。
戸田華子
戸田豐太郎と再婚。
平成十五年(二〇〇三)五月十日、肺炎で死去。九十三歳。
 
【配偶】
 華頂博信
 博恭王[伏見宮]三男。侯爵。
 もと博信王
 戸田豐太郎
 昭和五年(一九三〇)、コ川慶喜の四男 コ川厚の女子で典型的な「輕井澤族」と言われたコ川喜和子と結婚。
 昭和二十五年(一九五〇)夏、喜和子と離婚。
 竹村華子と結婚。
 昭和六十年(一九八五)歿。
 
【子女】
 華頂博道 ひろみち
 華頂博孝(いちじ伏見博孝) ひろたか 
 華頂治子 のち松岡治子 はるこ
 
【逸事等】
 
【所謂「華頂事件」】
昭和二十六年(一九四六)八月七日の華頂博信・華子の離婚は、當初、「性格の相違」によるものと報じられた。
『毎日新聞』昭和二六年八月九日「華頂博信氏(元伏見宮)が離婚」
しかし、華子の兄、閑院春仁が、手記と談話により、離婚の原因を明らかにした。
『毎日新聞』昭和二六年八月二一日「華頂氏夫妻離婚の眞相」
ここに、華頂博信も「必要の最小限度、事情を明かにすべきだと決意」し、手記を發表した。
『毎日新聞』昭和二六年八月二二日「私は離婚せざるを得ない」
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三三頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 四二三頁
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、昭和五十年(一九七五)四月) 一一八〜一二一頁
河原敏明『美智子さまと皇族たち』(講談社、平成四年(一九九二)十月) 二一五〜二一七頁


 
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公開日時: 2013.01.25.

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