閑院宮載仁親王


前頁 「 載 [載子A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[載仁]

フレームなし

工事中

載仁親王 ことひと
 閑院宮(六) かんいん(クワンヰン)のみや
 もと
易宮」(もと三寶院門跡
『公文録』明治十一年/宮内省之部に「載仁王」と見える。
 
 參謀總長
 元帥
 陸軍大將
 大勲位功一級
 
【幼稱】
 「易宮」 たかのみや のち やすのみや
「たりのみや」の訓は、誤り。
 
【出自】
 邦家親王[伏見宮]の[十六]男。
 愛仁親王の嗣。
 孝明天皇の養子。
 
【生母】
 百々重(百重、百枝)
 伏見宮家女房(若年寄)
 伊丹吉子
 妙法院宮家臣從五位下伊丹尾張介藤原朝臣保祿の女子。
 
【經歴】
慶應元年九月二十一日丑半刻(一八六五年十一月十日午前二時)、伏見宮邸に於いて生誕。
二十一日丑半刻は二十二日午前二時に當る。
「易宮」
慶應元年(一八六五)九月二十七日(二十八日)、七夜。「易(多嘉)宮」(たかのみや)と命名される。
慶應二年(一八六六)正月二十八日、江州木部の錦織寺に預けられる。
『伏見宮日記』慶應二年正月二十七日
『伏見宮日記』慶應二年正月二十八日
『伏見宮日記』慶應二年二月朔日
慶應三年(一八六七)九月九日までに「易(弥壽)宮」(やすのみや)と訓みを改める。
「易宮」[三寶院門跡](三寶院易宮)
慶應三年(一八六七)十月九日、三寶院門跡を相續。
『伏見宮日記』慶應三年十月九日
『伏見宮日記』慶應三年十月十日
慶應三年(一八六七)十一月九日、孝明天皇の養子となる。
『伏見宮日記』慶應三年十一月七日
『長橋局日記』慶應三年十一月八日
『伏見宮日記』慶應三年十一月九日
三寶院相續の治定により、慶應三年(一八六七)十一月十六日、錦織寺から伏見宮邸に戻る。
『伏見宮日記』慶應三年十一月十六日
慶應三年(一八六七)十一月二十二日、帥典侍 藤原靜子(廣橋光成の女子)が母儀代となる。
『伏見宮日記』慶應三年十一月廿二日
『日野資宗公武御用日記』慶應三年十一月廿二日
慶應三年(一八六七)十二月七日、三寶院の里坊に於いて、門室相續及び先帝(孝明天皇)養子が披露される。
『長橋局日記』慶應三年十一月十九日
『伏見宮日記』慶應三年十一月廿一日
『伏見宮日記』慶應三年十二月七日
『押小路甫子日記』慶應三年十二月七日
慶應三年(一八六七)十二月十一日、修學のため内々に三寶院の下御殿に移る。
『伏見宮日記』慶應三年十二月十一日
『伏見宮日記』慶應三年十二月十二日
「易宮」(伏見易宮)
明治四年(一八七一)六月二十四日、五月付で「三寶院易宮」に伏見宮への復歸を命じる通達と、現米百石の給付が、伏見宮家に申し渡される。
『皇親録』總務部 明治四年
『伏見宮日記』明治四年六月廿四日
『伏見宮日記』明治四年六月廿五日
『明治天皇紀』明治四年五月是の月
明治四年(一八七一)六月二十九日、三寶院から伏見宮邸に戻る。
『伏見宮日記』明治四年六月廿九日
「易宮」(閑院易宮)
明治五年(一八七二)正月十日、閑院宮を相續。
よって、現米百石の給付は停められる。
『閑院宮日記抄』明治四年十二月十七日
『伏見宮日記』明治四年十二月十七日
『太政官日誌』明治五年 第三號 壬申正月十日 御沙汰書寫
『太政官日誌』明治五年 第三號 壬申正月十二日 御沙汰書寫
『閑院宮日記抄』明治五年正月十八日
『伏見宮日記』明治五年正月十八日
『閑院宮日記抄』明治五年正月十九日
『伏見宮日記』明治五年正月十九日
『明治天皇紀』明治五年正月十日
明治五年(一八七二)正月二十八日、閑院宮邸に移る。
『閑院宮日記抄』明治五年正月廿六日
『伏見宮日記』明治五年正月二十六日
『伏見宮日記』明治五年正月二十七日
『閑院宮日記抄』明治五年正月廿八日
『伏見宮日記』明治五年正月二十八日
『明治天皇紀』明治五年正月十日
明治五年(一八七二)三月二日、閑院宮相續により家祿現米五百三十石を賜わる。また、孝仁親王妃 微妙覺院(吉子)は終身百石を給付される。
『閑院宮日記抄』明治三年十二月十八日
『閑院宮日記抄』明治五年三月七日
明治六年(一八七三)七月二十八日、上京區の京都第二十三區小學校に入學。
『閑院宮日記抄』明治六年七月十四日
『閑院宮日記抄』明治六年七月廿三日
『閑院宮日記抄』明治六年七月廿五日
『閑院宮日記抄』明治六年七月廿七日
『閑院宮日記抄』明治六年七月廿八日
『閑院宮日記抄』明治六年七月廿九日
明治六年(一八七三)七月三十一日、皇族の家祿が廢止され、賄料として一箇年金六千六十圓を賜わる。
『太政官日誌』明治六年 第百十五號 七月三十一日〔達書〕
『閑院宮日記抄』明治六年八月十日
『明治天皇紀』明治六年七月三十一日
佛式法會を改め、明治六年(一八七三)九月二十三日、~祭式にて閑院宮代々の秋季祭を行う。同日、位牌を廢し、~靈を安置。
『閑院宮日記抄』明治六年九月廿三日
太陽暦の採用により、明治六年(一八七三)十一月九日、誕生日を太陽暦に換算し、紀元二千五百二十五年第十一月十日と定める。
『閑院宮日記抄』明治六年十一月十五日
『皇親録』總務部 明治六年 明治六年十一月九日
明治十年(一八七七)五月八日、東京への移住を命じられる。
明治十年(一八七七)八月三十日、東京に移住。
明治十年(一八七七)十月十六日、陸軍幼年學校(陸軍士官學校幼年生徒室)に入學。
明治十一年(一八七八)八月二十二日、名を「載仁」と賜わることが内定。
「載仁(コトヒト)」「榮仁(ヨシヒト)」「温仁(ノブヒト)」のなかから「載仁」が選ばれた。
載仁親王[閑院宮]
明治十一年(一八七八)八月二十六日、名を「載仁」と賜わり、親王宣下。三品に敍される。
『公文録』明治十一年 宮内省之部
   親王宣下布達之義御屆
親王宣下之義、別紙之通及布達候條、此段御屆申進候也、
  明治十一年八月廿九日    宮内卿徳大寺實則
   太政大臣三條實美殿
    ────────────
            孝明天皇御養子
                  易宮
 右今般名ヲ載(【振假名】コト)仁ト賜候事、
            二品熾仁親王弟
                  稠宮
 右今般聖上御養子、熾仁親王ノ繼嗣ト被定、名ヲ威(【振假名】タケ)仁ト賜候事、
              載仁王(閑院宮)
              威仁王(有栖川宮)
 右本日親王宣下、三品ニ被敍候事、
右布達候事、
  明治十一年八月二十六日   宮内卿徳大寺實則
『皇族制度史料 皇族三』二六八〜二六九頁
『皇室制度史料 皇族一』二六七〜二六九頁
『皇親録』明治十一年
『明治天皇紀』
明治十三年(一八八〇)十二月、學業優等につき賜物される。
『明治天皇紀』
明治十五年(一八八二)九月、陸軍幼年學校を卒業。
明治十五年(一八八二)九月十二日、フランス留學を仰せ付けられる。
明治十五年(一八八二)十月十四日、フランスに留學。
明治十八年(一八八五)十月三十一日、佛國サンシール兵學校(サンシール陸軍士官學校)に入校。
明治二十年(一八八七)八月五日、佛國サンシール兵學校(サンシール陸軍士官學校)を卒業。
明治二十年(一八八七)八月十八日、陸軍騎兵少尉に任じられる。
明治二十年(一八八七)八月十九日、大勲位に敍され、菊花大綬章を賜わる。
明治二十年(一八八七)十月一日、佛國ソーミユル騎兵專門學校に入校。
明治二十年(一八八七)十月二十三日、ツール府第七輕騎兵聯隊附となる。
明治二十一年(一八八八)八月三十一日、佛國ソーミユル騎兵專門學校を卒業。
明治二十二年(一八八九)二月十一日、品位が廢止され、三品の位階を失う。
明治二十三年(一八九〇)十月三日、佛國陸軍大學校に入校。
明治二十三年(一八九〇)十一月三日、陸軍騎兵中尉に任じられる。
明治二十四年(一八九一)一月二十四日、佛國陸軍大學校を退校。
明治二十四年(一八九一)七月十四日、フランス留學より歸國。
明治二十四年(一八九一)九月十四日、士官學校生徒隊中隊附に補される。
明治二十四年(一八九一)十月十四日、本職を免じられ、士官學校大尉ヘ官心得を仰せ付けられる。
明治二十四年(一八九一)十二月七日、三條智惠子との結婚が勅許される。
明治二十四年(一八九一)十二月十九日、三條智惠子と結婚。
明治二十五年(一八九二)十一月三日、陸軍騎兵大尉に任じられ、士官學校ヘ官に補される。
明治二十六年(一八九三)七月十九日、本職を免じられ、騎兵第一大隊中隊長に補される。
明治二十七年(一八九四)八月七日、本職を免じられ、乘馬學校ヘ官に補され、大本營御用掛兼勤を仰せ付けられる。
明治二十七年(一八九四)八月二十七日、第一軍參謀部への派遣を命じられる。
明治二十七年(一八九四)八月三十日、朝鮮に差遣される。
明治二十七年(一八九四)九月九日、第一軍司令部附を仰せ付けられ、參謀本部服務を命じられる。
明治二十七年(一八九四)九月十九日、第三師團參謀部への派遣を命じられる。
明治二十八年(一八九五)五月二十五日、~戸へ凱旋。
明治二十八年(一八九五)十月十四日、騎兵第一大隊附を仰せ付けられる。
明治二十八年(一八九五)十一月三日、陸軍騎兵少佐に任じられる。
明治二十八年(一八九五)十一月二十日、功四級に敍され、金鵄勲章を授けられ、明治二十七八年戰役從軍記章を授與される。
明治二十九年(一八九六)一月十七日、「征C役軍功顯著ナルニ依リ」、特に金三千圓を賜わる。
明治二十九年(一八九六)五月十五日、騎兵第一大隊附を免じられ、騎兵第一聯隊附に補される。
明治二十九年(一八九六)八月三十日、本職を免じられ、騎兵第一聯隊長心得を仰せ付けられる。
明治三十年(一八九七)十一月三日、陸軍騎兵中佐に任じられ、騎兵第一聯隊長に補される。
明治三十一年(一八九八)九月二日、オーストリア國皇帝即位五十年祝典に參列のため差遣される。
明治三十一年(一八九八)九月十三日、オーストリア國皇帝即位五十年祝典が中止されたため、オーストリア國派遣を免じられる。
明治三十二年(一八九九)十月二十八日、本職を免じられ、參謀本部出仕を仰せ付けられる。
明治三十二年(一八九九)十一月三日、陸軍騎兵大佐に任じられる。
明治三十三年(一九〇〇)一月二十五日、參謀本部出仕を免じられ、參謀本部部員に補される。
明治三十三年(一九〇〇)一月二十七日、歐洲へ差遣される旨、御沙汰あり。
明治三十三年(一九〇〇)二月十六日、歐洲へ出發。
明治三十三年(一九〇〇)九月七日、歐洲より歸國。
明治三十四年(一九〇一)十一月三日、陸軍少將に任じられ、騎兵第二旅團長に補される。
明治三十六年(一九〇三)、日本赤十字社總裁となる。
明治三十七年(一九〇四)八月十七日、日露戰爭に出征。
明治三十七年(一九〇四)十一月三日、陸軍中將に任じられる。
明治三十八年(一九〇五)四月二十五日、凱旋。
明治三十八年(一九〇五)十二月十九日、參謀本部附を仰せ付けられる。
明治三十九年(一九〇六)二月三日、第一師團長に補され、參謀本部附を免じられる。
明治三十九年(一九〇六)四月一日、「明治三十七八年戰役」の功により、功二級に敍され、金鵄勲章を授けられ、年金千圓を賜わり、明治三十七八年戰役從軍記章を授與される。
明治四十四年(一九一一)九月六日、近衞師團長に補される。
大正元年(一九一二)十一月二十七日、陸軍大將に任じられ、軍事參議官に補される。四十七歳。
大正四年(一九一五)十一月七日、「大正三四年戰役」の功により、金杯一組を賜わり、大正三四年戰役從軍記章を授與される。
大正四年(一九一五)十一月十日、大禮記念章を授與される。
大正五年(一九一六)八月十五日、ロシア國へ差遣される旨、御沙汰あり。
大正五年(一九一六)九月十一日、ロシア國へ出發。
大正五年(一九一六)十月十五日、ロシア國より歸國。
大正八年(一九一九)十二月十三日、元帥府に列され、特に元帥の稱號を賜わる。五十四歳。
大正十年(一九二一)三月三日、皇太子裕仁親王に隨從し、歐洲へ出發。
大正十年(一九二一)九月三日、歐洲より歸國。
大正十年(一九二一)九月二十四日、皇太子裕仁親王の歐洲訪問に隨從して盡力した功により、菊花章頸飾を授けられる。
大正十二年(一九二三)五月三日、明治~宮造營局總裁を仰せ付けられる。
『官報』第三二二六號 大正十二年五月四日 敍任及辭令「大正十二年五月三日」
            大勲位功二級 載仁親王
明治~宮造營局總裁被仰付
大正十二年(一九二三)十月二十七日、議定官に補される。
『官報』第三三五七號 大正十二年十月三十日 敍任及辭令「大正十二年十月二十九日」
昭和元年(一九二六)十二月二十五日、大喪使總裁を仰せ付けられる。
昭和二年(一九二七)十二月三十日、大禮使總裁を仰せ付けられる。
昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。
昭和六年(一九三一)十二月二十三日、參謀總長に補される。六十六歳。
『官報』第一四九七號 昭和六年十二月二十四日 敍任及辭令「昭和六年十二月二十三日」
 元帥陸軍大將大勲位功二級載仁親王
補參謀總長
昭和六年(一九三一)十二月二十四日、帝都復興記念章(昭和五年十二月五日付)を授與される。
『官報』第一四九九號 昭和六年十二月二十八日 敍任及辭令「昭和六年十二月二十四日」
昭和九年(一九三四)四月二十九日、「昭和六年乃至九年事變」の功により、金杯一組ならびに五千三百三十圓を賜わり、昭和六年乃至九年事變從軍記章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)四月二十九日、支那事變における功により、功一級に敍され、金鵄勲章を授けられ、金一万三千圓を下賜され、支那事變從軍記章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)十月三日、參謀總長を免じられる。
昭和十七年(一九四二)四月四日、功一級金鵄勲章を授けられる。
『官報』第四五七〇號 昭和十七年四月七日 宮廷録事
○勲章親授式 本月四日午後二時勲章親授
式ヲ行ハセラレ元帥陸軍大將載仁親王元帥
海軍大將博恭王兩殿下ニ功一級金鵄勲章ヲ
元帥陸軍大將守正王殿下ニ大勲位菊花章頚
飾ヲ陸軍大章鳩彦王同稔彦王兩殿下 ・・・・・
・・・・・ ニ功一級金鵄勲章
ヲ授ケラレタリ
昭和十九年(一九四四)一月十五日、宮中杖(鳩杖)を許される。
昭和二十年(一九四五)五月二十日、小田原別邸において薨逝。八十一歳。
『宣仁親王日記』昭和二十年四月十九日(木)(『高松宮日記』八ノ七二〜七三頁)
二〇〇〇、三笠宮(春仁王ヨリ元帥樣【載仁親王】萬一ノ場合火葬ニシタイトノ話アリシコト、春仁王カラ直接オ話シノ連絡アリシモ千葉ニテ今夜間ニ合ハズ)。私ノ考ヘトシテ火葬ハ好マシクナイ。御葬儀マデノ間ノ空襲等ノ懸念等ハ小田原デオマツリナサツテ自動車デ直グニオ墓ニユケバヨイデハナイカト話ス。御殿場ニモ伺フトノコトナリキ。
『宣仁親王日記』昭和二十年五月十九日(土)上欄(『高松宮日記』八ノ八五頁)
夜半電話アリ、閑院宮【載仁親王】二二四〇急ニ御容態變化アリ、御危篤トノコトナリ。
『宣仁親王日記』昭和二十年五月二十日(日)上欄(『高松宮日記』八ノ八六頁)
〇四一〇閑院樣【載仁親王】薨去ノ旨通知アリ。小田原ニハ餘リ行クノヲ春仁樣御好ミデナイ樣ナノデ、私ハ獨リデ午後行ツテ來ヨウト思ツタガ、三笠宮ハ陸軍デモアリ御世話ニモナツタカトモ考ヘ、ユクナラ代リニユク樣ニ尋ネサシタラ、行クトノコトデ私ハ止メタ。お姉樣モ御殿場ヨリ行ラツシヤルトノコトナリ。
昭和二十年(一九四五)五月二十五日國葬と發表されたが、二十四日から二十五日にかけての東京大空襲のため、延期。
昭和二十年(一九四五)五月二十八日、豐島岡墓地に假埋葬される。
『官報』第五五一〇號 昭和二十年五月二十九日 宮廷録事「勅使皇后宮使竝皇太后宮使」
              元帥陸
軍大將大勲位功一級載仁親王殿下薨去
ニ付昨二十八日午前九時勅使トシテ侍
從公爵コ大寺實厚ヲ閑院宮小田原別邸
ヘ差遣サレ左ノ誄ヲ宣讀セシメラレ幣
帛、~饌、榊ヲ賜ヒ訖テ玉串ヲ供セシ
メラレ同九時十分皇后宮使トシテ皇后
宮事務官小倉庫次ヲ差遣サレ幣帛、榊
ヲ賜ヒ玉串ヲ供セシメラレ同九時十五
分皇太后宮使トシテ皇太后宮事務官伯
爵C閑寺良貞ヲ差遣サレ幣帛、榊ヲ賜
ヒ玉串ヲ供セシメラレタリ
   誄
 維城ノ親ヲ以テ籍ヲ陸軍ニ繋ケ恪謹
 公ニ奉シ恩威下ニ臨ム兩度征討ノ軍
 ニ從ヒ智勇ヲ行陣ノ閭j奮ヒ多年統
 帥ノ府ニ在リテ籌策ヲ帷幄ノ中ニ運
 ラス恆ニ心ヲ啓沃ニ存シ又力ヲ善鄰
 ニ效ス機務ノ餘民業ヲ勸メテ公uヲ
 開キ仁愛ヲ博メテ生靈ヲ濟フ洵ニ是
 レ宗室ノ耆宿ニシテ實ニ邦家ノ棟梁
 タリ遽ニ溘逝ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘ
 ム茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ齎ラシ臨ミ
 弔セシム
故載仁親王靈代安置ノ儀ニ付昨二十八
日午前十時勅使トシテ侍從公爵コ大寺
實厚ヲ皇后宮使トシテ皇后宮事務官小
倉庫次ヲ皇太后宮使トシテ皇太后宮事
務官伯爵C閑寺良貞ヲ閑院宮小田原別
邸ヘ差遣サレ各玉串ヲ供セシメラレタ

昭和二十年(一九四五)六月十八日、國葬。
『官報』第五五二七號 昭和二十年六月十八日 告示「宮内省告示第十二號」
故元帥陸軍大將大勲位功一級載仁親王
喪儀ヲ行フ期日、場所及墓所ハ左ノ如

 一 喪儀ヲ行フ期日 六月十八日
 一 場     所 豐島岡墓地
 一 墓     所 豐島岡墓地
 昭和二十年六月十七日
   宮内大臣    石渡荘太郎
   内閣總理大臣男爵鈴木貫太郎
『宣仁親王日記』昭和二十年六月十八日(月)(『高松宮日記』八ノ一〇三頁)
『官報』第五五二九號 昭和二十年六月二十日 宮廷録事「御斂葬濟」
      故載仁親王御斂葬本月十
八日午前十時三十分滯リナク濟マセラ
レタリ
 
【配偶】
 智惠子
 載仁親王の妃
 もとコ川祥子
 三條實美の二女。
 明治五年(一八七二)五月二十五日、誕生。
 明治二十四年(一八九一)十二月十九日、結婚。
 明治二十四年(一八九一)十二月二十六日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
 明治三十七年(一九〇四)、愛國婦人會總裁となる。
 明治三十九年(一九〇六)四月一日、明治三十七八年戰役從軍記章を授與される。
 大正四年(一九一五)十一月十日、大禮記念章を授與される。
 昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。
 昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
 昭和二十二年(一九四七)三月十九日午後七時四十五分、小田原本邸(もと小田原別邸)において薨逝。七十六歳。
 昭和二十二年(一九四七)三月二十六日、豐島岡墓地に葬られる。
 
【子女】
 □
篤仁王
 ○ 恭子女王 のち安藤恭子
 ○ 茂子女王 のちK田茂子
 ○ 季子女王
 □ 春仁王  のち閑院春仁、閑院純仁
 ○ 寛子女王
 ○ 華子女王 のち華頂華子 竹村華子 戸田華子
 
【逸事等】
口髭の左右の先端をひねりあげ、「閑院髭」の名で有名であった。ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世の所謂「カイゼル髭」と同樣。
日C戰爭に、第一軍司令部第三師團參謀として從軍。
日露戰爭では、沙河會戰において、騎兵旅團長として、機関銃を装備した騎兵團を率いて、本溪湖を攻撃するロシア軍の側背を攻撃、ロシア軍を潰亂に陷れ、沙河會戰勝利の端緒を開いた。
明治三十五年(一九〇二)十一月十六日、載仁親王とその隨行員は、日本鐵道の雀宮驛で上野方面への列車に乘車したが、その豫告を鐵道に通告していたにもかかわらず、當該の列車には追加の一等車が増結されていなかった。既に一等車には外國人七・八人が乘っており、彼らは二等車への移乘を拒否した。そのため、鐵道の係員は、載仁親王一行に二等車への乗車を依頼し、親王はそれを承諾した。そして、二等車の乘客は三等車に移乘し、載仁親王一行は二等車に乘車し、石橋驛で下車した。これを皇室に對する不敬と見做した警察により、鐵道の係員は浦和驛で逮捕され、手錠をかけられ捕縛されて連行された。尋問の結果、不敬の事實は認められず、係員は釋放された。この事件をめぐり、『ジャパン タイムズ』 The Japan Times 紙上の投書欄において、大論争が起こった。
ジャパンタイムズ編『日本人にひと言 ジャパンタイムズ八十年の投書欄から』(東京都港区芝浦、ジャパン タイムズ、昭和五十五年(一九八〇)七月)10〜24頁「2 閑院宮事件──権利か好意か」
 今を去る八十年前、後年陸軍元帥となり、参謀総長を務められた閑院宮載仁親王が、関東地方を旅行の際、手違いで一等車には外国人乗客が乗っていたため、やむを得ず二等車に乗る、という事件があった。これに巻き込まれた鉄道係員は同日不敬のとがをもって「手錠をかけられ、縄をうって引き立てられた」というのである。
 この事件の発端となった、外国人が皇族のために一等車から移ることを拒否した、という件につき、一日本人がこれは諸外国では普通のことなのか、と投書で疑問を投げかけたところ、賛否をめぐり大議論が起こった。高位の人と一般人の関係についての、国による考え方の違いが出ていて興味深いし、英国の植民地だったインドの一市民からの痛烈な投書は特に出色である。
 約一ヶ月後に、警察は謝罪をして一件落着したが、ジャパンタイムズは、ミニ社説で「吾人は皇室、皇族を尊崇する念においては人後に落つるものではないが、この気持ちは真の敬愛の心から出づべきもので、盲目的尊皇心は滑稽に堕するものである」と論じている。
關東大地震において、家屋の下敷になりながら奇跡的に救助される。
『牧野伸顯日記』大正十二年九月五日
閑院宮【載仁親王】伺候。委曲御遭難【關東大震災】の事情を承はる。御無事なりしは眞に奇蹟と申す外なし。廣子【寛子】子女王殿下御最後【最期】は御痛はしき限りなり。
十五銀行の破産により、閑院宮家は大被害を被り、一時は日常の生活費にさえ不足を来たした。それを聞き知った一木喜コ朗宮内大臣は、閑院宮家のために秘かに三萬圓を工面した。そのため、載仁親王は自ら宮内大臣室に赴いて禮を述べた、という。
藤樫準二『千代田城 宮廷記者四十年の記録』(光文社。昭和三十三年(一九五八)十一月)一七六〜一七七頁
昭和六年(一九三一)十二月二十三日に載仁親王が參謀總長となったのは、荒木貞夫中將が陸軍大臣に任じられために激化した、陸軍内における派閥抗爭を緩和することを期待されたためであったという。昭和七年(一九三二)一月、荒木貞夫陸軍大臣の盟友たる眞崎甚三郎が參謀次長に就任し、載仁親王に代わって參謀本部を主催した。載仁親王は、荒木・眞崎ら皇道派を嫌い、昭和九年(一九三四)一月、眞崎甚三郎を荒木貞夫陸軍大臣(病氣を理由に辭任)の後任とする案に反對、昭和十年(一九三五)七月には、皇道派から離脱して統制派を形成した林銑十郎と手を組んで、眞崎甚三郎教育總監を罷免した。
二二六事件の際、博恭王[伏見宮]は、閑院宮の態度は遺憾であると昭和天皇に言上している。
『木戸幸一日記』昭和十一年三月一日
載仁親王は、戰爭推進を推し進める統制派の言いなりになり、「ロボット」とまで評された。
『昭和天皇獨白録』「近衛の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
『昭和天皇獨白録』「上海事件(昭和七年)」
『昭和天皇獨白録』「支那事變と三國同盟(昭和十二年)」
『牧野伸顯日記』昭和十年六月七日
犬養横死の直後首相官邸に皆々會同の節、森恪は芳澤【謙吉。前外相】に向ひて云ふに、滿州國の獨立には犬養は反對を唱へ、軍部の期待を圧抑する爲には、最後の手段としては總長の宮【載仁親王】の御諒解を得たる上聖上陛下に其意見を上奏し、御勅語の御降下を御願ひして軍仁等を押ゆる積りなりと洩らしたる事ありたりと。
『牧野伸顯日記』昭和十年六月十八日
『入江相政日記』昭和十二年六月九日(水)
樞密院の拜謁。昨日の閣僚御陪食の後のお茶の時閑院宮【載仁親王】が何か陸軍の情勢につき申上げられた由、それが相當重大なことで非常に陛下【昭和天皇】の御氣にさはつた由、從つて今週土曜の御相伴の時にはニユース以外にはお目に懸けない方がよいかも知れぬとの事。
『入江相政日記』昭和五十八年十二月二十八日(水)
拜謁。この間の中川融さんの浩宮【徳仁親王】の御近況の奏上の時、秩父宮、寛仁などオツクスフオードの教育はみんな失敗だつたが、浩宮の場合そんなことがないやうにとの仰せのうち、寛さんのはよく分るが、秩父宮のはどういふことかといふ質問につきうかゞつてくれとの官長の話によりうかゞう。つまり不十分だつたのと、秩父宮の性質にもよるが載仁親王を「ダラ幹」といひ、軍の當時の勢に乘つたことなどとの仰せだつた。官長に報告、市野さんに函書を渡してゐる時、又お召、さつきの御追加。三時までゐろとのことで遲くなり、眼鏡は止め。
 
【備考】
下橋敬長『維新前の宮廷生活』「一、親王家と門跡・准門跡」に、
閑院宮を御相續の載仁親王も邦家親王の御子で、いったん江州木部村真宗錦織寺住職とならせられ、それより三寶院にお入りになりましたが、得度いたされないうちに御維新となり、御取戻しとなつたのです。
とある。
下橋敬長『幕末の宮廷』(羽倉敬尚注。平凡社東洋文庫)二三二頁。
 
【文獻等】

『皇室制度史料 皇族三』 二六八〜二七一頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三三〜三四頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 二七〜二八頁
秦郁彦「ことひとしんのう 載仁親王」(『國史大辭典』第五巻(吉川弘文館、一九八五年二月第一版) 九二六頁)


 
次頁 「 載 [載明]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 さ 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


公開日時: 2015.02.12.

Copyright: Ahmadjan 2015.2 - All rights reserved.