閑院宮載仁親王
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『公文録』明治十一年/宮内省之部に「載仁王」と見える。 |
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「たりのみや」の訓は、誤り。 |
伏見宮家女房(若年寄) 伊丹吉子 妙法院宮家臣從五位下伊丹尾張介藤原朝臣保祿の女子。 |
載仁親王の妃 もとコ川祥子 三條實美の二女。 明治五年(一八七二)五月二十五日、誕生。 明治二十四年(一八九一)十二月十九日、結婚。 明治二十四年(一八九一)十二月二十六日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。 明治三十七年(一九〇四)、愛國婦人會總裁となる。 明治三十九年(一九〇六)四月一日、明治三十七八年戰役從軍記章を授與される。 大正四年(一九一五)十一月十日、大禮記念章を授與される。 昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。 昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。 昭和二十二年(一九四七)三月十九日午後七時四十五分、小田原本邸(もと小田原別邸)において薨逝。七十六歳。 昭和二十二年(一九四七)三月二十六日、豐島岡墓地に葬られる。 |
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口髭の左右の先端をひねりあげ、「閑院髭」の名で有名であった。ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世の所謂「カイゼル髭」と同樣。 | |||||||||||||||||
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日C戰爭に、第一軍司令部第三師團參謀として從軍。 | |||||||||||||||||
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日露戰爭では、沙河會戰において、騎兵旅團長として、機関銃を装備した騎兵團を率いて、本溪湖を攻撃するロシア軍の側背を攻撃、ロシア軍を潰亂に陷れ、沙河會戰勝利の端緒を開いた。 | |||||||||||||||||
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明治三十五年(一九〇二)十一月十六日、載仁親王とその隨行員は、日本鐵道の雀宮驛で上野方面への列車に乘車したが、その豫告を鐵道に通告していたにもかかわらず、當該の列車には追加の一等車が増結されていなかった。既に一等車には外國人七・八人が乘っており、彼らは二等車への移乘を拒否した。そのため、鐵道の係員は、載仁親王一行に二等車への乗車を依頼し、親王はそれを承諾した。そして、二等車の乘客は三等車に移乘し、載仁親王一行は二等車に乘車し、石橋驛で下車した。これを皇室に對する不敬と見做した警察により、鐵道の係員は浦和驛で逮捕され、手錠をかけられ捕縛されて連行された。尋問の結果、不敬の事實は認められず、係員は釋放された。この事件をめぐり、『ジャパン タイムズ』 The Japan Times 紙上の投書欄において、大論争が起こった。
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關東大地震において、家屋の下敷になりながら奇跡的に救助される。
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十五銀行の破産により、閑院宮家は大被害を被り、一時は日常の生活費にさえ不足を来たした。それを聞き知った一木喜コ朗宮内大臣は、閑院宮家のために秘かに三萬圓を工面した。そのため、載仁親王は自ら宮内大臣室に赴いて禮を述べた、という。
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昭和六年(一九三一)十二月二十三日に載仁親王が參謀總長となったのは、荒木貞夫中將が陸軍大臣に任じられために激化した、陸軍内における派閥抗爭を緩和することを期待されたためであったという。昭和七年(一九三二)一月、荒木貞夫陸軍大臣の盟友たる眞崎甚三郎が參謀次長に就任し、載仁親王に代わって參謀本部を主催した。載仁親王は、荒木・眞崎ら皇道派を嫌い、昭和九年(一九三四)一月、眞崎甚三郎を荒木貞夫陸軍大臣(病氣を理由に辭任)の後任とする案に反對、昭和十年(一九三五)七月には、皇道派から離脱して統制派を形成した林銑十郎と手を組んで、眞崎甚三郎教育總監を罷免した。 | |||||||||||||||||
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二二六事件の際、博恭王[伏見宮]は、閑院宮の態度は遺憾であると昭和天皇に言上している。
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載仁親王は、戰爭推進を推し進める統制派の言いなりになり、「ロボット」とまで評された。
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下橋敬長述『維新前の宮廷生活』「一、親王家と門跡・准門跡」に、
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『皇室制度史料 皇族三』 二六八〜二七一頁 |
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三三〜三四頁 |
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『昭和新修 華族家系大成 上巻』 二七〜二八頁 |
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秦郁彦「ことひとしんのう 載仁親王」(『國史大辭典』第五巻(吉川弘文館、一九八五年二月第一版) 九二六頁) |
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