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明治三十年(一八九七)十二月八日、博恭王[華頂宮]の一男として誕生。
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博義王
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明治三十年(一八九七)十二月*日、「博義(ヒロヨシ)」と命名される。
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明治三十七年(一九〇四)一月十六日、父博恭王に從い、華頂宮より伏見宮に移籍。
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『官報』明治三十七年一月十六日告示「宮内省告示第五號」
今般博恭王殿下ニ博義王恭子女王兩殿下ヲ携帶シ伏見宮へ復歸仰付ラレ博忠王殿下ニ華頂宮繼承
仰付ラル
明治三十七年一月十六日 宮内大臣子爵田中光顯
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『明治天皇紀』
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明治四十一年(一九〇八)初旬、腦膜炎に罹り、一時重態となった。
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大正六年(一九一七)十二月八日、成年式。
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『法令全書』大正六年十二月 告示 「宮内省告示第二十一號(官報 十二月十日)」
十二月八日博義王殿下成年式ヲ濟マセラル
大正六年十二月八日 宮内大臣 子爵波多野敬直
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海軍兵學校第四十五期。
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海軍中佐となる。
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昭和十二年(一九三七)九月二十五日十五時四十分、「島風」に乘艦中、黄浦江にて射撃を受けて「左手背外側に小彈片による盲貫創」を被る。
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『博恭王殿下を偲び奉りて』 三七五〜三七七頁
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『宣仁親王日記』昭和十二年九月二十六日(『高松宮日記』第二巻、六〇一頁)
一、博義王(「島風」)にて浦東側よりの迫撃砲にて微傷をうけらる。結構な出來事なり。午後、陸上にて彈片を局部痲醉にて取出されたる由なるが、その後の新聞等も輕傷として取り扱ひ、ヤタラな書き方でなく、うまく書いてあつたと思ふ。(【行間書込】「島風」がウタれたのも佐世保からチヨイと行つて土嚢陣地を見て打つて見たくなつて、アベコベにヤラレたと云ふワケだらう。新しい船はキツト打つて通るさうだ)。
これで皇族も戰死傷者の中に算へられる帖面ヅラとなり、よろし。
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昭和十三年(一九三八)三月、潰瘍性口内炎のため歸航、二十四日、芝浦着、築地海軍軍醫學校に入院。三十日退院。
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昭和十三年(一九三八)四月二十日、海軍大學校教官に轉補。
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昭和十三年(一九三八)十月十九日午前二時、紀尾井町の伏見宮邸にて薨逝(氣管支喘息の發作に伴う心臟痲痺)。四十二歳。大勲位、功三級。海軍大佐に昇進する。
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『博恭王殿下を偲び奉りて』 三七九〜三八〇頁
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井上成美伝記刊行会編集『井上成美』(東京都新宿区、井上成美伝記刊行会、昭和五十七年(一九八二)十月)資二九九〜三一三頁所收「井上と海上自衛隊幹部学校長との座談記録」(座談日、昭和四十五年十月二十日。場所、横須賀市長井 井上邸。座談者、海上自衛隊初代幹部学校長 中山定義(54期)および座談当時の同校長 石塚栄(63期))資三〇六〜三〇七頁
・・・・・ 宮様というのは非常に素直に育っておられて、いわゆる宮家のお付きのいうことをやっていればいい。また、お付きはお付きでもって、自分の受け持ちの宮様とか皇子様とか、そういう人の気にさわることをいえば首になるから、気にさわらんようにばっかりやっているんです。
伏見宮博義王殿下〔45期〕はね、お付き武官が殺したようなものです。不眠症になられたんです。お付きが催眠薬かなんか、おすすめしてね。ああいうものはだんだんエスカレートしていくから、二服できかない、三服できかない、四服も五服も飲むようになった、それを「はい、はい」といって、お付きのやつが飲ませた結果、催眠薬中毒になって、きかなくなったんです。そういうふうで、宮様というのはお気の毒なものなんだ。だから博義王なんか、もう少し生きられるはずなのに若くてなくなられてお気の毒だ。・・・・・
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昭和十三年(一九三八)十月二十日、発喪。
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『官報 號外』昭和十三年十月十九日、宮内省告示第二十七號
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昭和十三年(一九三八)十月二十六日、葬儀。
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『官報』昭和十三年十月二十一日、宮内省告示第三十號
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