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明治八年(一八七五)一月十八日、誕生。
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博厚王
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「博厚(ヒロアツ)」と命名される。
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新立の親王家は一代皇族と定められていたため、博經親王薨後、博厚は華族に列し、華頂宮は廢絶するところであった。しかし、博經親王の「薨逝」に先立ち、明治九年(一八七六)四月十九日、熾仁親王[有栖川宮]は請願書を提出し、博經親王が維新後、海軍を強盛とすることを志して渡米、留學したが、志なかばで病に倒れて歸朝、なおも國事に盡そうとしたが、叶わずに死を目前にしているのを哀れみ、特旨を以て博經親王の嗣子博厚を皇族に列させることを請願した。明治天皇は、これを受納して、明治九年(一八七六)四月二十一日、博厚を皇族に列させた。
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『公文録』明治九年 宮内省之部
熾仁白ス。竊ニ三品親王博經ノ事蹟ヲ按ズルニ、年幼ニシテ深ク國事ニ憂慮シ、維新ノ際太政見習の爲メ日覲ノ詔ヲ奉ジ、爾來彌々其志ヲ厚クス。此ノ時ニ當テ外交倍々盛ナルヲ以テ、早ク當今第一ノ急務ハ海軍ヲ強盛ナラシムルニ在ヲ覺リ、身ヲ抛擲シ國家ニ報ゼント決シ、此ニ於テ允許ヲ得、明治庚午年米國ニ渡航シ、爾後海軍學術ヲ研究スル已ニ年アリ、不幸ニシテ一旦病患ニ罹リ、其志ヲ達スル能ハズシテ歸朝セリ。斯ニ病少シク間アルヲ以テ、更ニ風土民俗ヲ視察セント欲シ、去明治六年十月疲羸ノ身ヲ以テ親シク艱險ヲ跋渉シ、既ニ西南諸道ヲ巡視シ、將ニ東北ニ赴カントスルノ際、宿痾再發シ、沈綿幾ント三歳ニシテ今日ノ危殆ニ至ル。而シテ身病蓐ニ在リト雖ドモ、須臾モ志ヲ屈セズ、年未ダ三旬ナラズシテ將ニ鬼籍ニ入ラントス。豈ニ哀マザル可ケンヤ。伏シテ願フ、博經ノ身ヲ以テ國ニ報ズルノ忠誠ヲ愍ミ、後嗣臣籍ノ成規ニ踰ルト雖ドモ、非常ノ特旨ヲ賜リ、嗣子博厚ニ顧眷シ、若シ之ヲシテ皇族ノ列ニ在ヲ得、乃父ノ宿志ヲ紹述スルヲ得セシメバ、博經生前ノ恩惠何ゾ限リアラン。然ルトキハ他日地下ニ冥目スル而已ナラズ、又同族ノ忠誠ヲ鞭韃スルニ足ラン。依テ陳情如此。
(明治九年)四月十九日 二品有栖川熾仁
宮内卿コ大寺實則殿
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三品親王華頂博經
積年深ク國事ヲ憂慮シ、維新ノ後米國ニ渡航シ、專ラ海軍學術ヲ研究シ、以テ國家ニ報效セント鋭意從學ノ處、不幸ニシテ病痾ニ罹リ、歸朝後荏苒不癒、久シク病床ニ在リテ其素志ヲ達スルヲ得ズ。深ク憫然ニ被思召、特旨ヲ以テ嗣子博厚皇族列ニ被仰付候事。
明治九年四月廿一日
太政官
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『圖書寮記録』巻二第四章「皇族」第二「維新後皇族紀事」明治九年四月廿一日
特旨ヲ以テ三品親王華頂博經ノ嗣子博厚ヲ皇族ニ列セラル
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『明治天皇紀』
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博厚親王
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博厚王は、幼年にして病氣となったため、明治十六年(一八八三)二月十五日、特別に明治天皇の養子として親王宣下が行なわれ、三品に敍された。
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『法令全書』明治十六年二月十五日 宮内省告示第一號
博厚王(華頂宮)
聖上【明治天皇】御養子親王宣下三品ニ被敍候事
右告示候事。
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『明治天皇紀』
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實系十六世の親王宣下は空前絶後。
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明治十六年(一八八三)二月十五日、薨逝。九歳。
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『法令全書』明治十六年二月十六日 太政官告示第三號
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『明治天皇紀』
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