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享保十六年(一七三一)十二月二十四日申半刻(イ二十三日)、生誕。
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御系譜掛本『伏見宮系譜』「邦忠今上親王」
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『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
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「阿古宮」
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寛保二年(一七四二)三月十四日、櫻町院(當今)の猶子となる。
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『御湯殿上日記』寛保二年三月十四日
はるゝ。ふし見の宮【貞建親王】よりハかねて若宮御ゆうし【猶子】御ねかいおかれ候ゆへ、奉せうニてこなたより御返事まいる。
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『御湯殿上日記』寛保二年三月十九日
はるゝ。ふし見殿【貞建親王】より阿古宮【のちの邦忠親王】ノ御かた御參内に付、壹か二しゆまいる。阿古宮ノ御かたより御太刀、馬代、白かね十兩、三しゆ二かまいる。ひめ宮ノ御かたより御まな一折まいる。こなたよりふし見殿へ御まな一折、阿古宮ノ御かたへはふたへ【羽二重】五疋、二しゆ壹かまいる。勅使四辻しゝう【侍從】なり。ひめ宮ノ御かたへ御まな一折まいる。阿古宮ノ御かた御參内。四季閧ノて御たいめん成。御こふ・あわにて御さかつき【盃】一こんまいる。御たいしゆつの時分、御末廣一本まいる。ひめ宮の御かた此度の御禮、春の御禮何かに成。御くわしはなまいる。御すゝにて御さかづきまいる。御いとまの時分、御もし二すじまいる。
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『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
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邦忠親王
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寛保三年(一七四三)十月二十五日、親王宣下。
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『八槐記』寛保三年十月廿五日甲戌
リ。今日有宣下事(兵部卿貞建親王嫡男邦忠爲親王。今上【櫻町院】御猶子)。上卿今出川大納言。辨C胤【烏丸】。別當醍醐大納言。奉行基望朝臣【園】。
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『ョ言卿記』寛保三年十月廿五日甲戌
今日伏見兵部卿宮【貞建親王】御息阿古宮親王宣下(邦忠)。上卿今出河大納言。辨C胤【烏丸】。勅別當醍醐大納言。奉行基望朝臣【園】。
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邦忠親王[上野宮]
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寛保三年(一七四三)十一月二十七日、元服。上野太守に任じられる。
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『御湯殿上日記』寛保三年十一月廿六日
あこの宮ノ御かた御けんふくニ付、かうむり申いたさるゝ。上野太守と仰出さるゝ。
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伏見宮本『伏見宮代々位記宣旨類』
無品邦忠親王
從二位行權大納言源朝臣通兄宣、奉勅、件親王宜令任上野太守者。
寛保三年十一月廿七日 大外記兼掃部頭造酒正直講中原朝臣師守奉
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『八槐記』寛保三年十一月廿七日丙午
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延享二年(一七四五)二月七日、三品に敍される。
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『伏見宮日記』延享二年二月七日
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『八槐記』延享二年二月七日己酉
リ。此日有敍品宣下(邦忠親王敍三位)。上卿新源大納言【廣幡長忠】。少納言家長朝臣。於軒廊點位記諸印。未斜、參伏見殿賀申敍品之事。
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『ョ言卿記』延享二年二月七日乙【己】酉
上野宮邦忠親王敍三品給宣下。上卿新源大納言【廣幡長忠】。少納言家長朝臣。奉行光胤朝臣【烏丸】。
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『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
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寛延二年(一七四九)九月二十六日、二品に敍され、帶劔を聽許され、隨身兵仗を賜わる。
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『八槐記』寛延二年九月廿六日辛未
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『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
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『系圖纂要』伏見宮「邦忠親王」に、
[寛保三年]十一ノ廿七元服。同日上野大守、三品。延享二年正ノ七二品。寛延二年九ノ廿六、二品、帯劔。同日賜随身兵仗。
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とある。
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邦忠親王[伏見殿]
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寶暦四年(一七五四)七月二十二日、父 貞建親王が薨逝し、その後、伏見宮の家督を相續する。
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寶暦五年(一七五五)三月七日、兵部卿に轉任。
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『伏見宮日記』寶暦五年三月七日
一、 |
禁裏奏者所江御使(薩摩守)、女房奉書を以、兵部卿御申之儀被仰入。其文如左。
伏見殿より申ことく、兵部卿闕にておハしまし候ゆへ、御しよまう【所望】おはしまし候。此より御心得候て、よく々々御ひろう申入候由、心得候て申入候。めて度かしく。
〓【より】
誰にてもの御局へまいらせ候。
右中高貳枚重、ちらし。
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右返奉書到來。如左。
文のやうひろう申入まいらせ候。兵部卿けつにておはしまし候ゆへ御所もうのよし、すなハちひろう申入まいらせ候へハ、勅許おハしまし候半よし、心得候て申され候。このよし御申入られ候。めて度かしく。
〓【より】
御返事
誰にてもの御局へまいらせ候。
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『通兄公記』寶暦五年三月七日辛巳
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寶暦六年(一七五六)春、家督相續御禮のため江戸に下向する。
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『伏見宮日記』寶暦五年六月十日
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『伏見宮日記』寶暦五年七月十五日
一、 |
柳原殿〓【より】使を以、御用之儀候間、御家來壹人被差出候樣ニ與申來。仍登被差出候處、左之通之書付被相達。・・・・・
伏見殿【邦忠親王】今般繼目ニ付、如先例、爲御禮、明春關東江參向被有之度由、段々御由緒茂有之。當伏見殿未御對顔茂無之候ニ付、旁參向之儀被相願候由ニ而、書付例書先達而被遣之。被仰聞候趣關東江申遣候處、御願之通、明春參向被有之候樣可申達旨、從年寄共申越候。右之段御申達被成候樣ニと存候事。
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『伏見宮日記』寶暦六年二月十二日
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『伏見宮日記』寶暦六年三月十二日
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寶暦九年(一七五九)五月二十四日、病の危急により、一品に敍され、牛車宣旨を賜わる。
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『ョ言卿記』寶暦九年五月廿四日癸卯
兵部卿宮邦忠親王依病重、一品・乘牛車出入宮中之事宣下(消息)。上卿源大納言【庭田重煕】。奉行職事韶房朝臣。右之旨自當番被示了。
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『紀光卿記』明和七年六月廿二日丁卯
リ。以消息下口宣於飛鳥井大納言(雅重)。實者任便昨夕下之了。
明和七年六月廿二日 宣旨
上總太守公仁親王
宜聽乘牛車出入宮中。
藏人頭左大辨藤原紀光(奉)
・・・・・
今度義、以寶暦九年五月廿四日一品兵部卿邦忠親王牛車宣下(消息)例(于時上卿庭田大納言(重煕)、奉行頭右大辨韶房朝臣)所令沙汰也(韶房朝臣口宣云。一品邦忠親王宜聽乘牛車出入宮中)。
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寶暦九年(一七五九)五月二十七日までに死亡。
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寶暦九年(一七五九)六月二日午刻、「薨逝」。二十九歳。同日、薨奏。
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『八槐記』寶暦九年六月二日辛亥
兵部卿邦忠親王、今日午刻薨去之由、家司訴申(去月廿四日依疾危急、被望請敍一品聽牛車)。入夜參内、奏之。自今日三个日輟朝。丹波ョ亮下御簾。
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『御湯殿上日記』寶暦九年六月二日
伏見宮【邦忠親王】御所勞御大せつにて御やうたい書出ル。御やうじやうかない不申候ニ付、こうきよ【薨去】のよし申入られ、こよひより三日のはいてう【廢朝】也。
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『稙房卿記』寶暦九年六月二日辛亥
伏見兵部卿宮【邦忠親王】薨。依之自今日至明後四日三ヶ日廢朝被仰出。
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『稿本桃園天皇實録』八二四〜八二五頁 寶暦九年六月二日、「是日、伏見宮邦忠親王ノ薨由ヲ奏ス、仍ツテ是日ヨリ三箇日間ノ廢朝アリ、」
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『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
同【寳暦九年】七(六イ)月二日薨(二十九歳)。號圓定明院。
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『雲上御系譜 皇族篇』「邦忠親王」に、
同【寳暦】九年一品同年六月准三后寳暦九年六月二日薨去二十九歳(圓淨明院)
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とある。
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寶暦九年(一七五九)六月二十二日、相國寺に葬られる。
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『系圖纂要』伏見宮「邦忠親王」
[寳暦九年]六ノ二薨(廿九)。同廿二葬相國寺。
号円定明院。
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