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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[邦忠A]

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邦忠親王
 
 
伏見殿(十六)
『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」には「十三代」とある。
『雲上御系譜 皇族篇』「伏見宮」一七頁「邦忠クニタヾ親王」は「十六代」と作す。
 
【幼稱】
 「阿古宮」 あこのみや
 
【法號】
 「圓定明院
『雲上御系譜 皇族篇』「邦忠親王」は「圓淨明院」と作すが、誤りであろう。
同【寳暦】九年一品同年六月准三后寳暦九年六月二日薨去二十九歳(圓淨明院)
 
【出自】
 貞建親王[伏見殿]の男子。
 櫻町院の猶子。
 
【母】
 秋子内親王
 貞建親王の室。
 東山院の一女。
 
【生母】
 「心解院」
 家女房
 賀茂縣主先子
 賀茂縣主岡本河内守C光の女子。
 源朝臣重煕[庭田]の猶子。
 天明四年八月二十日歿。七十二歳。
御系譜掛本『伏見宮系譜』「邦忠今上親王」
母家女房(庭田權大納言重煕卿猶子。實岡本氏、名先子。天明四甲辰年八月廿日卒(七十二歳)。號心解院)
『系圖纂要』伏見宮「邦忠親王」
母秋子内親王。  実母家女、信解院、岡本氏。
『雲上御系譜 皇族篇』「邦忠親王」
母秋子内親王、実家女房信解院先子(河内守賀茂縣主岡本C光女)
 
【經歴】
享保十六年(一七三一)十二月二十四日申半刻(イ二十三日)、生誕。
御系譜掛本『伏見宮系譜』「邦忠今上親王」
享保十六年十二月廿四日(申半刻)誕生。號阿古宮。
『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
享保十六年十二月廿三日生。號阿古宮。
「阿古宮」
寛保二年(一七四二)三月十四日、櫻町院(當今)の猶子となる。
『御湯殿上日記』寛保二年三月十四日
はるゝ。ふし見の宮【貞建親王】よりハかねて若宮御ゆうし【猶子】御ねかいおかれ候ゆへ、奉せうニてこなたより御返事まいる。
『御湯殿上日記』寛保二年三月十九日
はるゝ。ふし見殿【貞建親王】より阿古宮【のちの邦忠親王】ノ御かた御參内に付、壹か二しゆまいる。阿古宮ノ御かたより御太刀、馬代、白かね十兩、三しゆ二かまいる。ひめ宮ノ御かたより御まな一折まいる。こなたよりふし見殿へ御まな一折、阿古宮ノ御かたへはふたへ【羽二重】五疋、二しゆ壹かまいる。勅使四辻しゝう【侍從】なり。ひめ宮ノ御かたへ御まな一折まいる。阿古宮ノ御かた御參内。四季閧ノて御たいめん成。御こふ・あわにて御さかつき【盃】一こんまいる。御たいしゆつの時分、御末廣一本まいる。ひめ宮の御かた此度の御禮、春の御禮何かに成。御くわしはなまいる。御すゝにて御さかづきまいる。御いとまの時分、御もし二すじまいる。
『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
寛保二年三月十九日爲當今御猶子。
邦忠親王
寛保三年(一七四三)十月二十五日、親王宣下
『八槐記』寛保三年十月廿五日甲戌
リ。今日有宣下事(兵部卿貞建親王嫡男邦忠爲親王。今上【櫻町院】御猶子)。上卿今出川大納言。辨C胤【烏丸】。別當醍醐大納言。奉行基望朝臣【園】。
『ョ言卿記』寛保三年十月廿五日甲戌
今日伏見兵部卿宮【貞建親王】御息阿古宮親王宣下(邦忠)。上卿今出河大納言。辨C胤【烏丸】。勅別當醍醐大納言。奉行基望朝臣【園】。
邦忠親王[上野宮]
寛保三年(一七四三)十一月二十七日、元服。上野太守に任じられる。
『御湯殿上日記』寛保三年十一月廿六日
あこの宮ノ御かた御けんふくニ付、かうむり申いたさるゝ。上野太守と仰出さるゝ。
伏見宮本『伏見宮代々位記宣旨類』
  無品邦忠親王
從二位行權大納言源朝臣通兄宣、奉勅、件親王宜令任上野太守者。
  寛保三年十一月廿七日 大外記兼掃部頭造酒正直講中原朝臣師守
『八槐記』寛保三年十一月廿七日丙午
今日邦忠親王元服。内大臣殿加冠給云々。
延享二年(一七四五)二月七日、三品に敍される。
『伏見宮日記』延享二年二月七日
今日、上野宮【邦忠親王】三品宣下有之者也。
『八槐記』延享二年二月七日己酉
リ。此日有敍品宣下(邦忠親王敍三位)。上卿新源大納言【廣幡長忠】。少納言家長朝臣。於軒廊點位記諸印。未斜、參伏見殿賀申敍品之事。
『ョ言卿記』延享二年二月七日乙【己】酉
上野宮邦忠親王敍三品給宣下。上卿新源大納言【廣幡長忠】。少納言家長朝臣。奉行光胤朝臣【烏丸】。
『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
延享二年二月七日敍三品。
寛延二年(一七四九)九月二十六日、二品に敍され、帶劔を聽許され、隨身兵仗を賜わる。
『八槐記』寛延二年九月廿六日辛未
三品邦忠親王敍二品、聽帶劔、賜隨身兵仗宣下也。
『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
寛延二年九月二十六日敍二品。
『系圖纂要』伏見宮「邦忠親王」に、
[寛保三年]十一廿七元服。同日上野大守、三品。延享二年正七二品。寛延二年九廿六、二品、帯劔。同日賜随身兵仗。
とある。
邦忠親王[伏見殿]
寶暦四年(一七五四)七月二十二日、父 貞建親王が薨逝し、その後、伏見宮の家督を相續する。
寶暦五年(一七五五)三月七日、兵部卿に轉任。
『伏見宮日記』寶暦五年三月七日
一、 禁裏奏者所御使(薩摩守)、女房奉書を以、兵部卿御申之儀被仰入。其文如左。
伏見殿より申ことく、兵部卿闕にておハしまし候ゆへ、御しよまう【所望】おはしまし候。此より御心得候て、よく々々御ひろう申入候由、心得候て申入候。めて度かしく。
                           〓【より】
 誰にてもの御局へまいらせ候。
右中高貳枚重、ちらし。
右返奉書到來。如左。
文のやうひろう申入まいらせ候。兵部卿けつにておはしまし候ゆへ御所もうのよし、すなハちひろう申入まいらせ候へハ、勅許おハしまし候半よし、心得候て申され候。このよし御申入られ候。めて度かしく。
                           〓【より】
御返事
 誰にてもの御局へまいらせ候。
『通兄公記』寶暦五年三月七日辛巳
上野太守邦忠親王任兵部卿云々。
寶暦六年(一七五六)春、家督相續御禮のため江戸に下向する。
『伏見宮日記』寶暦五年六月十日
『伏見宮日記』寶暦五年七月十五日
一、 柳原殿〓【より】使を以、御用之儀候間、御家來壹人被差出候樣ニ與申來。仍登被差出候處、左之通之書付被相達。・・・・・
伏見殿【邦忠親王】今般繼目ニ付、如先例、爲御禮、明春關東參向被有之度由、段々御由緒有之。當伏見殿未御對顔無之候付、旁參向之儀被相願候由ニ而、書付例書先達被遣之。被仰聞候趣關東申遣候處、御願之通、明春參向被有之候樣可申達旨、從年寄共申越候。右之段御申達被成候樣と存候事。
『伏見宮日記』寶暦六年二月十二日
一、辰半剋、御機嫌能御發輿也。
『伏見宮日記』寶暦六年三月十二日
寶暦九年(一七五九)五月二十四日、病の危急により、一品に敍され、牛車宣旨を賜わる。
『ョ言卿記』寶暦九年五月廿四日癸卯
兵部卿宮邦忠親王依病重、一品・乘牛車出入宮中之事宣下(消息)。上卿源大納言【庭田重煕】。奉行職事韶房朝臣。右之旨自當番被示了。
『紀光卿記』明和七年六月廿二日丁卯
リ。以消息下口宣於飛鳥井大納言(雅重)。實者任便昨夕下之了。
 明和七年六月廿二日 宣旨
  上總太守公仁親王
   宜聽乘牛車出入宮中。
    藏人頭左大辨藤原紀光(奉)
・・・・・
今度義、以寶暦九年五月廿四日一品兵部卿邦忠親王牛車宣下(消息)例(于時上卿庭田大納言(重煕)、奉行頭右大辨韶房朝臣)所令沙汰也(韶房朝臣口宣云。一品邦忠親王宜聽乘牛車出入宮中)。
寶暦九年(一七五九)五月二十七日までに死亡。
『伏見宮日記』寶暦九年五月廿七日
寶暦九年(一七五九)六月二日午刻、「薨逝」。二十九歳。同日、薨奏。
『八槐記』寶暦九年六月二日辛亥
兵部卿邦忠親王、今日午刻薨去之由、家司訴申(去月廿四日依疾危急、被望請敍一品聽牛車)。入夜參内、奏之。自今日三个日輟朝。丹波ョ亮下御簾。
『御湯殿上日記』寶暦九年六月二日
伏見宮【邦忠親王】御所勞御大せつにて御やうたい書出ル。御やうじやうかない不申候ニ付、こうきよ【薨去】のよし申入られ、こよひより三日のはいてう【廢朝】也。
『稙房卿記』寶暦九年六月二日辛亥
伏見兵部卿宮【邦忠親王】薨。依之自今日至明後四日三ヶ日廢朝被仰出。
稿本桃園天皇實録』八二四〜八二五頁 寶暦九年六月二日、「是日、伏見宮邦忠親王ノ薨由ヲ奏ス、仍ツテ是日ヨリ三箇日間ノ廢朝アリ、」
『詰所系圖』伏見殿「邦忠親王」
同【寳暦九年】七(六)月二日薨(二十九歳)。號圓定明院。
『雲上御系譜 皇族篇』「邦忠親王」に、
同【寳暦】九年一品同年六月准三后寳暦九年六月二日薨去二十九歳(圓淨明院)
とある。
寶暦九年(一七五九)六月二十二日、相國寺に葬られる。
『系圖纂要』伏見宮「邦忠親王」
[寳暦九年]六二薨(廿九)。同廿二葬相國寺。
号円定明院。
 
【伏見宮相續に關する邦忠親王の遺言】
死去の直前、男子のなかった邦忠親王は、「崇光院このかた嫡流ニて、かく別【格別】のわけもおはしまし候まゝ、系ミやく【系脈】斷せつ【斷絶】なくさうそく【相續】いたし候やう」に、「崇光院已來實子連續之間、不斷絶系統相續之事」「後崇光院道欽之述作椿葉記之趣意」を願い、伏見宮の繼承者は貞常親王の系統から選ばれるよう、口上の趣を以て、傳奏を經ず、直接、内儀へ申し入れた。
『伏見宮日記』寶暦九年五月廿五日
一、 禁裏奏者所御使(左京少進)を以、左之通御文被差出候也。・・・・・
【頭書】「・・・・・」
邦忠事、さき比より所勞付、いろ々々保養いたし候へとも、此節に至りたん々々さしおもり、なか々々本ふく成かたき體御さ候。それつき、當家の義【儀】は崇光院このかた嫡流て、かく別のわけもおはしまし候まゝ、系ミやく斷せつなくさうそく【相續】いたし候やう願そんし候。此由御聽にたつしまいらせ候て、何とそ右願の通りけい統相立候樣に仰を蒙りたくそんし候。左候へは元祖の御本意にもかなひ申へく、邦忠くわん望【願望】これにすくへからす候。此よし御心得候てよろしく御沙汰たのミ入まいらせ候。めてたくかしく。
 なを々々よろしくたのミ入まいらせ候。めてたくかしく。
  勾當内侍とのへまいる。    くに忠
わけて申入候。かやうの義【儀】、外々の家よりハ、てん奏【傳奏】へ申入られ候やうもうけ給り候へとも、こなた家すし【家筋】ハ、むかしより何事よらす御内儀へ申入候事、しろしめされ候通り御さ候。もつとも所勞日々さしおもり候へは、はゝかりをかへり見す申入まいらせ候。わたくしなる申事なから、何とそ右願の通りすミやかに仰を蒙りたく、ひとへこひねかふ所御さ候まゝ、此たん御くわけ候て、いか程も々々よろしく御沙汰ョ入まいらせ候。かしく。
  勾當内侍とのへまいる。    くに忠〓【より】
但勾當内侍此節故障。侍從内侍補勤之由候得共、表懸候事故、右之通勾當内侍宛て被差出也。
右御内儀〓【より】御答、口上之趣御文之通被仰上候得者、御返事ハ無御座旨被仰出候間、其通相心得可申上由、左京少進承之罷歸者也。
【頭書】「此御願御直書之事、於御家御先格無之、併依格別之譯如此。敢御後代之例格不可致歟。尤此後御同列方御格式をも承有候處、有栖川正仁親王、八條殿ニも御系統斷絶之砌、御直書御願ハ無之。女房奉書ニて被願候由、惣而不依何事御直書申事ハ無之者也。」
『伏見宮日記』寶暦九年五月廿七日
一、 御老中高家左之通奉書被差出。貳通一箱入。高家宛ニ而遣ス。丸屋六日切江戸而仕立飛脚申付也。
伏見殿御儀、從先頃御所勞候所、此節甚被及大切候。就夫伏見殿御家之儀者崇光院御嫡流御連綿不易、各【格】別之譯被有之候事候得者、今度御系統無斷絶相續被有之候樣、偏願思召候條、何分可然御沙汰被爲ョ入候。恐惶謹言。
  五月廿七日          (若江修理大夫)登長
 堀田相模守殿
 酒井左衞門尉殿
 松平右近將監殿
 西尾隱岐守殿        以上
 松平右京大夫殿
『八槐記』寶暦九年六月二日辛亥
邦忠親王無息男、相續之事、去月廿五日附書於勾當内侍被請天裁。其趣、『崇光院已來實子連續之間、不斷絶系統相續之事被冀申云々(家系無比類之由、含後崇光院道欽之述作『椿葉記』之趣意、於心底被望申云々)』。被仰合關白(内)、右大臣(尚)、前關白(道)、内大臣(輔【鷹司輔平】)等、雖爲希有之儀、有古今邂逅之例之間、入道寛寶親王(勸修寺。邦忠親王之弟)還俗可有相續歟、又當今【桃園院】二宮待降誕可有相續歟。此兩條不一決。被問大樹之所存。因之未無勅裁(親王之子爲養子之儀無其例云々)。
邦忠親王「薨逝」後の伏見宮繼承の状況については、「邦ョ親王」を見よ。
 
【墓所】
 京都府京都市左京區相國寺門前町相國寺内伏見宮墓地
 
【繼承者】
貞行親王
桃園院の二男。
 
【文獻等】
『皇室制度史料 皇族一』 二三二頁
『皇室制度史料 皇族二』 一二一頁
『皇室制度史料 皇族三』 五五〜五六頁
『皇室制度史料 皇族四』 八三〜九〇頁
稿本櫻町天皇實録』 六二九頁、七四四頁
『系圖綜覽』所收『詰所系圖』伏見殿、七四頁「(十三代)邦忠親王」
『系圖纂要』神皇六 支別 伏見宮、「邦忠親王」
  『雲上御系譜 皇族篇』伏見宮、一七頁「(十六代邦忠クニタヾ親王」


 
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更新日時: 2010.03.16.
公開日時: 2007.02.22.


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