貞行親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[貞行]

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貞行親王 さだもち
 もと貞行王
 
伏見殿(十七)
 
【稱號】
 「二宮
「籌宮」とあるのは疑問。
 稿本後櫻町天皇實録』一一二〜一一六頁 寶暦十三年十月四日に、「桃園天皇ノ第二皇子籌宮竝ニ閑院宮典仁親王ノ王子俊宮(深仁親王)ニ親王宣下アリ、名字ヲ籌宮ニ貞行、俊宮ニ守典ト賜フ、」とある。
 
【法號】
 「眞淨明院
 
【出自】
 桃園院の二男
 邦忠親王[伏見殿]の遺跡を相續。
 
【母】
 恭禮門院
 
【經歴】
寶暦十年(一七六〇)二月二十四日、生誕。
『八槐記』明和九年六月十七日辛巳
『詰所系圖』桃園院の子「皇子」(五三〜五四頁)
母恭禮門院  寶暦十年二月二十四日生。號二宮。同六月十八日、伏見宮相續。同十一年十一月二十八日髪置。同十三年十月八日、親王宣下。貞行。同十二月十五日色直。明和元年十二月廿五日、深曾木。同四年九月廿五日、准后新殿引移。同九年六月十七日、爲御違例保養、引移于伏見殿。同日、敍二品。同廿日薨(十三歳)。號眞淨明院。同七月十一日、葬于相國寺。
「二宮」
寶暦十年(一七六〇)六月十八日、伏見宮家を相續する。
『八槐記』公武御用部(『廣橋兼胤公武御用日記』)寶暦十年五月廿四日
一、去年、伏見宮【邦忠親王】相續之儀、 二宮御誕生候ハゝ御相續可被 仰出御治定候処、 □【二】宮【のちの貞行親王】御誕生候間、彌伏見宮御相續被 仰出候樣被遊[度]被 思召之旨、關東ヘ 御内慮可申達被 仰出候由、被命。尚此旨議奏江も可申置被命。葉室大納言【ョ要】ヘ申了。
『八槐記』公武御用部(『廣橋兼胤公武御用日記』)寶暦十年五月廿五日
一、兩人【柳原光綱・廣橋兼胤】出竹屋町口柵外、立還。河内守【井上利容】面謁。
  二宮御方【のちの貞行親王】伏見家御相續被 仰出度被 思召旨、關東ヘ 御内慮宜被申入事(書付渡之)。
   河内守承之。早速關東ヘ可申遣候。
『八槐記』公武御用部(『廣橋兼胤公武御用日記』)寶暦十年六月九日
一、巳剋兩人【柳原光綱・廣橋兼胤】同伴、向河内守【所司代井上利容】役宅。左之趣河州演説。書付渡之。
  二宮御方【のちの貞行親王】伏見家御相續之儀被 仰出度被 思召候 御内慮之趣、則關東申遣及言上候處、可爲 御内慮之通旨被 仰出候。此段御兩卿可相達旨、年寄共より申來候事。
 右落手、示可及言上之由。
『八槐記』公武御用部(『廣橋兼胤公武御用日記』)寶暦十年六月十七日
一、巳半剋參 内。
一、關白殿【近衞内前】被仰。二宮【のちの貞行親王】伏見家御相續之事明日可被 仰出。夫付被 仰出之趣、内々爲心得御書付賜之。且伏見宮殿上人・諸大夫・侍明日巳剋可召寄、被命(宮方其外ハ自議奏被告召由云々)。此輩可召内玄關休所。大判事【町口是知】江申付了(申渡書付在明日申達之記、仍略之)。
『八槐記』寶暦十年六月十八日辛卯
リ。二宮今日伏見家可有相續有天氣。
『八槐記』公武御用部(『廣橋兼胤公武御用日記』)寶暦十年六月十八日
一、出御于御學問所(兩人【柳原光綱・廣橋兼胤】・議奏衆兼候)。關白殿【近衞内前】被召。依仰、關白殿兩役被仰。二宮御方【のちの貞行親王】伏見家御相續今日被仰出之由、次議奏退去。・・・・・
『稙房卿記』寶暦十年六月十九日壬辰
昨日(十八日)、二宮伏見家御相續被仰出云々。
『伏見宮日記』寶暦十年六月十八日
今日巳剋、依召、若江修理大夫、小川安藝守、堀内右馬助、佐々貴大膳少進同道ニ而、禁裏御所御内玄關參上仕。名札指出候所、高屋遠江守出會。依召參上仕候旨申入。相扣罷在候處、御兩傳御列座ニ御書附を以、被仰渡之趣、左之通(則御書付寫歸ル)。
 二宮御方伏見宮御相續被仰出候事、御世話人姉小路前大納言、御肝煎園池宰相・石井左兵衞督被仰付候事、是迄御一列之宮方、蓮院宮・勸修寺宮御指圖を受、相勤候得共、自今者御世話人・御肝煎之指圖を受、猶更諸事謹嚴念入可相勤事、記録等被納條文庫、二宮御成長迄可被付勅封候事。
 是迄被付置候御一列之宮方、門・勸門之封ハ可被解候事。
稿本桃園天皇實録』八七三〜八七四頁 寶暦十年六月十八日、「去二月、誕生ノ皇子(二宮)ニ伏見宮相續アルベキ旨、仰セ出サル、」
『八槐記』公武御用部(『廣橋兼胤公武御用日記』)寶暦十年八月十五日
一、巳剋兩人【柳原光綱・廣橋兼胤】同伴、爲暇乞向河内守【所司代井上利容】役宅。面謁。此序河内守申聞。
  今度伏見家二宮【のちの貞行親王】就御相續、故伏見殿【邦忠親王】旧領無相違被進旨、老中奉書を以申來之由、即側地守方之奉書渡之。 兩人示可令沙汰之由、奉書預。
  ・・・・・
一、午斜參 内(候御當座)。
一、二宮【のちの貞行親王】伏見家旧領無相違進上之事老中奉書、附姉小路前大納言【公文】言上。今日伏見宮ヘ申達。且河内守迄御挨拶可申遣哉伺之。事々伺之通被仰出了。
・・・・・
一、伏見宮家來相招。織田兵庫允【信友】非藏人口來。予【廣橋兼胤】出逢。伏見宮御旧領無相違關東より被進之段申來。仍申入候由申入了。
寶暦十一年(一七六一)十一月二十八日、髪置。
貞行親王
寶暦十三年(一七六三)十月四日、親王宣下。四歳。
『御櫻町院宸記』寶暦十三年「宮かたしん王せん下に付候ての事共」
『八槐記』寶暦十三年十月四日丁亥
『知音卿記』寶暦十三年十月四日
『ョ言卿記』寶暦十三年十月四日丁亥
『御湯殿上日記』寶暦十三年十月四日
稿本後櫻町天皇實録』一一二〜一一六頁 寶暦十三年十月四日、「桃園天皇ノ第二皇子籌宮竝ニ閑院宮典仁親王ノ王子俊宮(深仁親王)ニ親王宣下アリ、名字ヲ籌宮ニ貞行、俊宮ニ守典ト賜フ、」
『御系譜』・『紹運録』は八日と作す。
寶暦十三年(一七六三)十二月十五日、色直。
明和元年(一七六四)十二月二十五日、深曾木。
明和四年(一七六七)九月二十五日、准后【恭禮門院】の新殿に移る。
明和九年(一七七二)六月十七日、「御違例」につき「保養」のため伏見殿に移る。同日、二品に敍される。
『八槐記』明和九年六月十七日辛巳
『仙洞女房日記』明和九年六月十七日
御本社え御代參有。二の宮御かた【貞行親王】すぐれまいらせられ候はず候ゆへ、内侍所え御すゞまいる。御くま二の宮御かたへまいる。伏見家え御引移り、ことのほかすぐれまいらせられ候はず候ゆへにて、二品せん下御しうぎに御太刀馬代、御まな一はこまいる。ふしみ家え御引移につき、取次御使にまいる。
明和九年(一七七二)六月二十日未刻、薨逝。十三歳。薨奏あり。
『紀光卿記』明和九年六月二十日甲申
陰雨交。今日(【傍】伏見)二品貞行親王(童體。桃園院第二皇子。母恭禮門院(門院御同座也))薨(十四才)。日來兩眼令盲給、蓋叡敏尤甚。人々奉惜。・・・・・
自今日三箇日被仰廢朝。恭禮門院五ヶ日御愼云々。
『八槐記』明和九年六月廿日甲申
參内。奏貞行親王今日未剋薨去之事、自今日三ヶ日廢朝、洞中三ヶ日、新女院五ヶ日有御愼。
『定リ卿記』明和九年六月廿日乙【甲】申
リ。入夜伏見宮【貞行親王】薨去。自今日到廿二日三箇日廢朝之由、廻状到來。仙洞三ヶ日、新女院五ヶ日、御愼云々。家公御許所被觸也。
『御湯殿上日記』明和九年六月二十日
二の宮御方【貞行親王】御やうじやう【養生】かないまいらせられず、ひつじの刻にかうきよ【薨去】成よく【由】、伏見宮より御とゞけ出候て、おもてより申入られ、今日より三日はいてう【廢朝】の御事申わたす。新女院御かた【恭禮門院】へ、おもて向文にて御み舞御仰まいる。大すけ殿はじめよりも御機嫌伺。仙洞御かた【後櫻町院】へ、おくよりの文にて御見舞御仰まいる。女中よりわ、おもて向ちらしにて御機げん伺也。
『仙洞女房日記』明和九年六月廿日
二の宮御かた【貞行親王】ひつじの刻にがうきよ【薨去】成候由申入られ、こなた三ヶ日御つゝしみ仰出され、三中間へも申わたし候。
『院中番衆所日記』明和九年六月廿日甲申(『稿本後櫻町天皇實録』八四一頁)
リ。午後陰。晩來及夜雨。今日未刻伏見宮【貞行親王】薨。自今日至明後廿二日三箇日、洞中御愼。
稿本後桃園天皇實録』三二八〜三二九頁 明和九年六月二十日、「伏見宮貞行親王、薨ズ、仍ツテ是日ヨリ三箇日間ノ廢朝仰セ出サル、」
稿本後櫻町天皇實録』八四一頁 明和九年六月二十日、「伏見宮貞行親王ノ薨去ニ依リ、是日ヨリ三箇日間ノ御愼アラセラル、」
明和九年(一七七二)七月十一日、相國寺に葬られる。
 
【墓所】
 京都府京都市左京區相國寺門前町相國寺内伏見宮墓地
 
【繼承者】
 □
邦ョ親王
 
【二宮(貞行親王)の伏見宮家繼承】
伏見宮家は、寶暦九年(一七五九)、邦忠親王の薨逝により、當主を缺いた。この時、邦忠親王の弟の勸修寺門跡寛寶親王が還俗して宮家を相續するという案もあったが、結局、桃園院の二宮の降誕を待ち、二宮が伏見宮を相續することに決定され、寶暦十年(一七六〇)、新誕の二宮が伏見宮家を相續した(貞行親王)。ここに、貞常親王の子孫でない伏見宮家當主が誕生した。
 ※「邦ョ親王」を見よ。
 
【貞行親王の眼疾】
明和二年(一七六五)以來、兩目が盲目であった。
明和三年(一七六六)十月二十二日、貞行親王の眼疾治癒のために加持祈祷を行った尾張國馬嶋明眼院法印權大僧都圓海は、特に効驗がなかったにもかかわらず、明眼院を「配下」とする輪王寺宮への配慮のためか、効ありとして權僧正に任じられた。
『八槐記』明和三年十月廿二日己未
尾州馬嶋明眼院法印權大僧都圓海(四十三歳)推宣下任權僧正。去年已來貞行親王(桃園院第二宮。伏見殿相續。當時在准后御廬)御眼疾、諸醫申難治之由、依爲輪王寺宮【公啓親王】配下、被差登調進御藥。雖未御全快、有御順快、近日暫可賜歸國之假。去八月廿七日以來數日滯京。有叡感、光爲勸賞、有推任權僧正。
明眼院舊號藏南坊。後光嚴院御宇、延文之比、中興開山C眼僧都、或夜蒙藥師如來之靈夢、眼科奇方之書一卷感得之。爾來師資相傳業眼科治療。明正院御宇寛永九年、上皇(後水尾院)第三宮依御眼疾、召藏南坊圓慶。有勅、侍玉座、邇獻鍼術・藥術。不日有御平癒。叡感不斜、賜「明眼院」之號。師資、現住之僧稱「明眼院」、附弟稱「藏南坊」。
『八槐記』明和三年十月廿八日乙丑
參内。明眼院權僧正參上。於C凉殿拜天顔。
『紀光卿記』明和三年十月廿八日乙丑
僧侶參内。内々有御對面、如例。件僧之中、有(【傍】尾張國)明眼院權僧正圓海者(元權大僧都。去廿二日權僧正被推任。被召寄賞云々)。今度被召令上京了。是眼病加持得妙術由、依有其聞也。頃日被召參准后御所(北御所)。申伏見宮(貞行親王。先帝二宮。御童形。令座此御所給也)御加持。自先年御兩眼不明故也。又令調進御藥云々。此序、儲皇親王【英仁親王】同申御加持(儲皇親王同御座准后御方也。又同有御眼疾。但右御目也)由、所傳聞也。尤此事密儀云々。而其後御眼疾同事更無其驗云々。
稿本後櫻町天皇實録』四三一〜四三二頁 明和三年十月二十二日、「尾張國馬嶋明眼院法印權大僧都圓海ヲ權僧正ニ任ズ、貞行親王ノ眼疾治癒ノ功ニ依リテナリ、」
今西祐一郎「明眼院および道勝親王について」(京都大学文学部国語学国文学研究室編『六条葵上物語 明眼院蔵』(京都大学国語国文資料叢書六。京都、臨川書店、昭和五十三年(一九七八)三月)一二三〜一三二頁、今西祐一郎「解説」一)
後桃園院の眼疾」をも見よ。
 
【逸事等】
拔群に叡敏で、その早逝は人々に惜しまれたという。
『紀光卿記』明和九年六月二十日甲申
 
【文獻等】
 ●『皇室制度史料 皇族三』 二一四〜二一五頁
 ●『皇室制度史料 皇族四』 九一〜九三頁


 
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更新日時: 2012.04.23.
公開日時: 2007.09.11.


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