前頁 「 秋 [秋光院]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[秋子]

フレームなし

工事中

秋子内親王
 
貞建親王[伏見殿]の室。
 
【稱號】
 「姫宮(イ猶宮)」
『御系譜』「秋子内親王」
・・・・・ 元祿十三年正月五日生、號姫(【傍注】猶)宮。・・・・・
 「今出川姫宮
『通兄公記』元文五年九月廿二日庚寅
今日、龜宮(先帝【中御門院】皇女。母故民部卿典侍。故實業卿【清水谷】女)令入光照院給。從今出川姫宮(兵部卿宮北方)【秋子内親王】被出立也。・・・・・
『宗城卿記』元文五年九月廿二日
光照院宮令入寺給(中御門院皇女)。爲前駈卯終剋向出立所(今出川姫宮(秋子内親王)御第)。・・・・・
【法號】
 「光顯院
『御系譜』「秋子内親王」
・・・・・ 寶暦六年三月廿九日薨(五十七歳)。号光顯院。
 
【出自】
 東山院の一女。
 
【生母】
 承秋門院幸子女王
 
【經歴】
「姫宮」
元祿十三年(一七〇〇)正月五日曉、三條邸において生誕。
『季連宿禰記』元祿十三年正月五日
今曉、女御御産平安御(皇女)。
『基量卿記』元祿十三年正月五日
今朝、女御皇女降誕由也。
『季連宿禰記』元祿十三年二月十一日
今日、女御自御産所(三條前内府亭)還御本殿。姫宮【秋子内親王】同令入内裏給。
『詰所系圖』東山院の子「秋子内親王」
・・・・・ 元祿十三年六(正)月五日生、號姫宮(猶宮)。・・・・・
六月五日生と作すは誤り。
寶永元年(一七〇四)十二月三日、深曾木。
『詰所系圖』東山院の子「秋子内親王」
・・・・・ 寶永元年十二月三日、深曾木。・・・・・
秋子内親王
寶永四年(一七〇七)五月十八日、内親王宣下。八歳。
『季連宿禰記』寶永四年五月十八日
今日、姫宮御方(御諱秋子。今上宮。御母女御准后幸子女王)爲内親王。
『禁裏番衆所日記』寶永四年五月十八日己巳
リ。巳刻秋子(第一皇女)内親王陣宣下也。上卿園大納言。辨光榮【烏丸】。勅別當新源大納言【中院通躬】。奉行職事尚房朝臣。右大臣、内大臣、左大將、九條大納言、二條大納言、中納言中將等參入(今日親王宣下之賀儀被申入之。
『輝光卿記』寶永四年五月十八日
リ。今日准后姫宮御諱秋子、内親王宣下陣儀。上卿園大納言。奉行頭辨尚房朝臣。勅別當新源大納言(通躬卿【中院】)。
C水正健『皇族考證』三五一頁所引『親王宣下記』寶永四年五月十八日
姫宮(今上宮。御名字秋子。御母女御准后【幸子女王】内親王宣下(陣儀巳一點)。
少外記平田家記録 I12『職事參仕交名覺』寶永四年五月十八日「内親王宣下」
稿本東山天皇實録』三八一頁
寶永七年(一七一〇)八月十一日、當今(中御門院)より貞建親王への入輿が仰せ出される。知行三百石を給わる。
『禁裏番衆所日記』寶永七年八月十一日甲辰
『基長卿』寶永七年八月十一日
『資堯朝臣記』寶永七年八月十二日
『百一録』寶永七年八月十日
『御系譜』「秋子内親王」
・・・・・ 寶永 ・・・・・ 七年八月十二日、貞建親王入簾定。・・・・・
『章弘宿禰記』寶永七年八月十二日
姫宮御方(新女院【幸子女王】御腹)伏見殿御婚禮之義、從關東申來也(御知行三百石被付之。・・・・・)
『八槐記』公武御用日記 寛延三年六月廿二日
(【傍】東山院皇女)姫宮【秋子内親王】 (伏見兵部卿宮【貞建親王】北方)
 宝永七年
 東山院崩御之後、三百石御一生之間被遣之。
『八槐記』公武御用日記「女院御増地一件書留」寛延三年八月九日
東山院皇女
 姫宮【秋子内親王】 伏見兵部卿宮【貞建親王】北方
  宝永七年、 東山院 崩御之後、三百石 御一生之間被進之。
享保四年(一七一九)二月一日、婚禮。二十歳。
『重直卿記』享保四年二月朔日
今夜酉刻、女院姫宮伏見殿御入輿御婚禮也。
『御系譜』「秋子内親王」
・・・・・ 享保四年正月廿六日入簾、二月一日入輿于伏見殿。・・・・・
寛保三年(一七四三)正月二十八日、二品に敍される。四十四歳。
『通兄公記』寛保三年正月廿二日丁丑
神璽筥覆破損(後奈良院御宇被搦云々)、因覆搦來月上旬可被改事、榮子内親王(靈元院女二宮。敬信院入道關白【二條綱平】北方)、秋子内親王(東山院女一宮。兵部卿宮【貞建親王】北方)等來廿八日可有叙品宣下事、來廿七八日之比地下受領之儀可有御沙汰事等、内々可存知之旨、被仰下。
『通兄公記』寛保三年正月廿八日癸未
今日榮子内親王(靈元院女二宮。敬信院入道關白【二條綱平】北方)叙二品。上卿權大納言(公福【三條西】)。奉行職事基望朝臣【園】。秋子内親王(東山院女一宮。兵部卿宮【貞建親王】北方)叙二品。上卿三条大納言(利季)。奉行職事ョ要朝臣【葉室】(各消息宣下)。
寶暦六年(一七五六)三月二十八日、死亡。
『憲臺記』寶暦六年三月廿九日
寶暦六年(一七五六)三月二十九日「薨逝」(發喪)。五十七歳。
『憲臺記』寶暦六年三月廿九日
故伏見宮一品兵部卿貞建親王北方【秋子内親王】(東山院皇女。號姫宮。御年五十七)薨(實昨日也)而不薨奏。來月御~事後可被披露云云。
『通兄公記』寶暦六年三月廿九日丁酉
兵部卿宮之母宮【秋子内親王】今日薨云々
寶暦六年(一七五六)四月十三日、薨奏。
『通兄公記』寶暦六年四月十三日庚戌
依兵部卿宮母宮(二品秋子内親王。東山院皇女)薨去、自今日至明後日三ヶ日廢朝云々
『八槐記』寶暦六年四月十三日庚戌
參内。入夜奏秋子内親王(東山院皇女。兵部卿貞建親王室)去月廿九日薨去之由(依賀茂祭奏聞延、及今日)。自今日三个日廢朝、下御簾。
『御湯殿上日記』寶暦六年四月十三日
三月廿九日姫宮ノ御かた【秋子内親王】かうきよ【薨去】の書つけ御おもてより酉刻すぎニひろう【披露】有り。こよひより三日のはいてう【廢朝】仰出され、御おもてへも仰出さるゝ。三中間へも申わたす。
『ョ言卿記』寶暦六年四月十三日庚戌
兵部卿宮【貞建親王】簾中秋子内親王去月廿九日薨去、今日言上。自今日三箇日廢朝。
『二條殿日次記』寶暦六年四月十三日
去月廿九日、伏見宮故兵部卿宮【貞建親王】簾中姫宮【秋子内親王】薨去之由、兵部卿宮【邦忠親王】より被屆候處、・・・・・
 
【墓所】
 京都府京都市左京區相國寺門前町相國寺内伏見宮墓地
 
【子女】
五百宮
猷子女王
康宮
豐子女王
邦忠親王
 實は家女房心解院(岡本氏)の所生。
 
【文獻等】
C水正健『皇族考證』第伍卷、三五一〜三五二頁。
稿本桃園天皇實録』六五二頁 寶暦六年四月十三日、「秋子内親王(東山天皇皇女)ノ薨由ヲ奏ス、仍ツテ是日ヨリ三箇日間ノ廢朝アリ、」


 
次頁 「 秋 [秋枝]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 し 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


更新日時: 2010.02.21.
公開日時: 2007.04.01.

Copyright: Ahmadjan 2007.4 - All rights reserved.