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明治七年(一八七四)十二月二十五日、「家ヘ」と改名。
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『佛光寺系圖』には「同年【明治七年】十二月七日改名家ヘ」とあり、『國乃礎[正編]』下編 一三五頁には「仝年【明治七年】十二月七日 改名家ヘ」とある。
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首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」152頁には、
とある。
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明治九年(一八七六)十一月十三日、權大ヘ正に任じられる。
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明治十年(一八七七)十二月二十一日、倉橋顯子と結婚。
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明治十二年(一八七九)八月二十日、佛光寺派管長となる。
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首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」152頁に、
明治維新によって封建制支配が瓦解し、社会全般に新しい近代化の波が押しよせた。真宗教団および佛光寺も大きく体制が変革していった。明治元年、はやくも興正寺摂信の周旋によって真宗六派の融和が図られ、同二年十二月三日佛光寺に北海道の一部の開拓支配が命ぜられ、同四年に寺領の上地、同五年一月本山に執事所を置き、同九年十一月二十八日宗祖に見真大師という勅諡号が与えられ、同十二年八月二十日家教が佛光寺派管長に就任し、同十五年六月一日全国の末寺三百三十一ヶ寺を二十府県五十二部に分け、同十八年七月一日に宗制・寺法を制定するなど、新しい動きがあいついだ。その間、明治十年に御影堂を起工し、同十七年五月一日に落成遷座式を遂げた。
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とある。
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明治十三年(一八八〇)十一月二十二日、大ヘ正に任じられる。
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明治十四年(一八八一)六月四日、正五位に敍される。
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『佛光寺系圖』
同【明治】十二年八月二十日管長襲職。同【明治】十三年十一月二十二日補大ヘ正。同【明治】十四年六月四日敍正五位。
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『國乃礎[正編]』下編、一三五頁には「仝【明治】十四年六月卅一日 叙正五位」とある。
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明治十七年(一八八四)八月十一日、ヘ導職廢止により大ヘ正を停む。
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明治十七年(一八八四)九月二十日、從四位に敍される。
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明治二十年(一八八七)十二月二十六日、正四位に敍される。
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