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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[六十]
 
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□「六十宮」 むそのみや
 のち澁谷六十麿 しぶたに むそまろ
   
澁谷家ヘ しぶたに かけう/カキョウ [佛光寺第二十六世]
   C棲家ヘ きよす いへのり [伯爵]
 
【法號】
 「得C淨院」
 
【出自】
 邦家親王[伏見宮]の[十五]男。
『佛光寺系圖』には「一品伏見邦家親王第十二子」とある。
『國乃礎[正編]』下編、一三四頁には「伏見宮故一品式部卿邦家親王ノ第十四子」とある。
 
【生母】
 「百々重」
 伊丹吉子
 伏見宮家女房(若年寄)
 妙法院宮家臣從五位下伊丹尾張介藤原朝臣保祿の女子。
 
【經歴】
文久二年(一八六二)五月二十二日、生誕。
『佛光寺系圖』には「文久二年五月二十三日生」とある。
「六十宮」 むそのみや
文久二年(一八六二)五月*日、命名。
慶應二年(一八六六)六月十一日、藤原朝臣齊敬[二條]の猶子となり、第二十五世佛光寺門主眞達(ヘ應)(藤原朝臣政通[鷹司]の三男)の附弟(養子)となる。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
慶應二年六月十一日 二條齊敬ノ猶子トナリ佛光寺權僧正法印ヘ應ノ養子被仰出。
慶應二年(一八六六)六月二十四日、佛光寺門主眞達(ヘ應)の法嗣となる。
首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」151頁に、
真達は病弱のため慶應二年(一八六六)六月二十四日に伏見宮邦家親王第十五子六十宮を法嗣とし、十月四日、二十三歳の若さで入寂した。
とある。
慶應四年(一八六八)六月九日、六十宮の藤原朝臣齊敬[二條]猶子を止める。
『皇室制度史料 皇族一』、一五九〜一六二頁
慶應四年(一八六八)六月十四日、あらためて邦家親王の子として伏見宮より直接佛光寺を相續する。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
仝【慶應】四年六月十四日 更ニ一品式部卿邦家親王實子ノ侭佛光寺相續被仰出。
『皇室系圖(伏見宮)』
明治元年【慶應四年】六月十四日相續佛光寺門主。
首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」151頁に、
明治元年(一七【ママ】六八)六月、六十宮はまだ七歳であったが、伏見宮に在籍のまま佛光寺の法務を相続した。
とある。
明治五年(一九七二)三月八日、華族に列される。
『佛光寺系圖』
明治五年三月八日被列華族。
澁谷六十麿 しぶたに むそまろ
明治五年十月二十四日、姓を「澁谷(しぶたに)」と定める。
「澁谷」の家名は、佛光寺が澁谷に在ることによる。
『佛光寺の歴史と信仰』に所收の「佛光寺史略年表」に、
明治 五年(一八七二)一〇月一三日 六十麿、渋谷姓を名乗る(佛光寺系図・佛光寺年表上)。
と見える(166頁)。
明治六年(一八七三)二月五日、從五位に敍される。
『佛光寺系圖』
同【明治】六年二月五日敍從五位。
明治六年(一八七三)六月二十日、得度。十二歳。佛光寺第二十六世の法統を繼承する。
『佛光寺系圖』
同年【明治六年】六月二十日得度。同年同月繼法統。
明治七年(一八七四)五月五日、權少ヘ正に任じられる。
『佛光寺系圖』
同【明治】七年五月五日補權少ヘ正。
澁谷家ヘ しぶたに かけう/カキョウ
明治七年(一八七四)十二月二十五日、「家ヘ」と改名。
『佛光寺系圖』には「同年【明治七年】十二月七日改名家ヘ」とあり、『國乃礎[正編]』下編 一三五頁には「仝年【明治七年】十二月七日 改名家ヘ」とある。
首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」152頁には、
翌八年七月二十七日家教と改名した。
とある。
明治九年(一八七六)十一月十三日、權大ヘ正に任じられる。
『佛光寺系圖』
同【明治】九年十一月十三日補權大ヘ正。
明治十年(一八七七)十二月二十一日、倉橋顯子と結婚。
明治十二年(一八七九)八月二十日、佛光寺派管長となる。
首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」152頁に、
明治維新によって封建制支配が瓦解し、社会全般に新しい近代化の波が押しよせた。真宗教団および佛光寺も大きく体制が変革していった。明治元年、はやくも興正寺摂信の周旋によって真宗六派の融和が図られ、同二年十二月三日佛光寺に北海道の一部の開拓支配が命ぜられ、同四年に寺領の上地、同五年一月本山に執事所を置き、同九年十一月二十八日宗祖に見真大師という勅諡号が与えられ、同十二年八月二十日家教が佛光寺派管長に就任し、同十五年六月一日全国の末寺三百三十一ヶ寺を二十府県五十二部に分け、同十八年七月一日に宗制・寺法を制定するなど、新しい動きがあいついだ。その間、明治十年に御影堂を起工し、同十七年五月一日に落成遷座式を遂げた。
とある。
明治十三年(一八八〇)十一月二十二日、大ヘ正に任じられる。
明治十四年(一八八一)六月四日、正五位に敍される。
『佛光寺系圖』
同【明治】十二年八月二十日管長襲職。同【明治】十三年十一月二十二日補大ヘ正。同【明治】十四年六月四日敍正五位。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁には「仝【明治】十四年六月卅一日 叙正五位」とある。
明治十七年(一八八四)八月十一日、ヘ導職廢止により大ヘ正を停む。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
仝【明治】十七年八月十一日 廢ヘ導職
明治十七年(一八八四)九月二十日、從四位に敍される。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
仝年【明治十七年】九月廿日 叙從四位
明治二十年(一八八七)十二月二十六日、正四位に敍される。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
仝【明治】廿年十二月廿六日 叙正四位
C棲家ヘ きよす かけう/カキョウ
明治二十一年(一八八八)六月二十八日、復飾、伏見宮に復歸すると共にあらためて臣籍降下、一家を創立、家名を「C棲(きよす)」と賜わり、伯爵を授けらる。
『官報』第壹四九九號 明治二十一年六月二十九日 授爵及辭令
 思召ヲ以テ伏見宮ヘ復歸被仰付    佛光寺住職正四位 澁谷 家ヘ
 華族ニ被列                  正四位 C棲 家ヘ
 ・・・・・(以上六月二//十八日宮内省)・・・・・
内閣記録局編『法規分類大全』第七十五巻 宮廷門 儀制門 族爵門、八〇三頁
 宮内省辭令 二十一年六月二十八日
                       正四位 C 棲 家 ヘ
華族ニ被列
 宮内省辭令 二十一年六月二十八日
                  佛光寺住職正四位 澁 谷 家 ヘ
思召ヲ以テ伏見宮ヘ復歸被仰付
『官報』第壹四九九號 明治二十一年六月二十九日 授爵及辭令
○明治二十一年六月二十八日
 授伯爵                    正四位 C棲 家ヘ
内閣記録局編『法規分類大全』第七十五巻 宮廷門 儀制門 族爵門、八三一頁
 爵記 二十一年六月二十八日
                            C 棲 家 ヘ
授伯爵
『官報』第壹四九九號 明治二十一年六月二十九日 宮廷録事
○授爵式 昨二十八日午前十時宮中ニ於テ授爵式ヲ行ハセラレタリ
○京都佛光寺住職復歸御聽許 京都佛光寺住職澁谷家ヘハ今般伏見宮ヘ復歸仰付ケラレタルニ付キ苗字ヲC棲(【振假名】キヨス)ト唱ヘ度旨本人ヨリ伺出テ昨二十八日御聽許相成リタリ
『皇室制度史料 皇族三』、三一七〜三一八頁
明治二十一年(一八八八)七月二日、東京府に本籍を定める。
内閣記録局編『法規分類大全』第七十五巻 宮廷門 儀制門 族爵門、八一七頁
 宮内省辭令 二十一年七月二日
                       正四位伯爵 C棲 家ヘ
東京府貫屬被仰付
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
仝年【明治廿一年】七月二日 東京府貫屬被仰付
C棲家ヘ きよす いへのり/イエノリ
明治二十一年(一八八八)八月九日、「家ヘ」の讀みを「いへのり」に改める。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
仝年【明治廿一年】八月九日 家ヘ(舊音讀)「イヘノリ」ト唱換願濟
明治二十三年(一八九〇)七月十日、貴族院議員に選ばれる。
『國乃礎[正編]』下編、一三五頁
仝【明治】廿三年七月十日 貴族院議員當撰
山梨、茨城、和歌山、新潟各縣知事、宮中顧問官を歴任。
大正十二年(一九二三)七月十三日、歿。
『佛光寺の歴史と信仰』に所收の「佛光寺史略年表」に、
大正 六年(一九一七)一二月二五日 家教没(第二六世、57)(佛光寺辞典)。
と見える(166頁)。
 
【配偶】
 澁谷滿子 のちC棲滿子 みつこ
 倉橋泰顯の一女。顯子、滿姫。
 萬延二年(一八六一)正月十四日生。
 明治十年(一八七七)十二月二十一日、澁谷家ヘと結婚。
『佛光寺系圖』
妻滿姫稱顯子。從三位倉橋泰顯長女。萬延二年正月十四日生。明治十年十二月二十一日娶。
 明治二十一年(一八八八)六月二十八日、夫に從い澁谷家より離籍、C棲家に入籍。
 大正六年(一九一七)十二月二十五日、歿。
 
【子女】
 澁谷鴾ヘ しぶたに りゆうけう/リュウキョウ
 澁谷家ヘの一男。第二十八世佛光寺門主。眞空。
 明治十八年(一八八五)一月五日生。
 明治二十一年(一八八八)七月九日、澁谷家の家督を相續するが、幼少のため、佛光寺の法統は祖母 眞意(微妙定院。第二十五世眞達の室)が管長となり繼承する。
首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」152頁に、
・・・・・ 教団組織の近代化が進み、かつ堂舎の再興が図られる途上であったが、家教は同【明治】二十一年六月二十八日伏見宮に復帰することとなった。そのとき家教の長子隆教(のち真空)は四歳であり、七月九日に家督を相続したが、第二十七世の法統は十月に第二十五世真達の室真意尼が継ぎ、管長となった。真意尼は夫真達が慶応二年に亡くなったさい帰敬式をあげ、明治五年に落飾して微妙定院と称していたもので、継職当時三十九歳であった。真意尼は孫にあたる隆教を養育しつつ、法務を守ったのである。
とある。
『國乃礎[正編]』下編、五六八頁には、
仝年【明治廿一年】九月九日 相續被仰付
とある。
 明治二十九年(一八九六)六月 日、男爵を授けられる。
 明治三十八年(一九〇五)一月十四日、眞意尼の佛光寺管長退職により、佛光寺第二十八世を繼承、管長に就任する。
 昭和十年(一九三五)三月一日、從三位に敍される。
『官報』第二四五〇號 昭和十年三月六日 敍任及辭令
○昭和十年三月一日
         正四位男爵 澁谷 鴾ヘ
敍從三位
 昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(男爵)の身位を喪失する。
 昭和二十二年(一九四七)六月、宗ヘ法人令にもとづく新宗制を實施、管長を廢止し門主と改める。
首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」153頁
 昭和二十三年(一九四八)二月一日、佛光寺門主より退き、眞照(澁谷有ヘ)が佛光寺を繼承。。
 昭和三十七年(一九六二)二月二十一日、歿。七十八歳。「快樂音院」
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 七二七〜七二八頁
『佛光寺の歴史と信仰』
『國乃礎[正編]』下編 五六七〜五六八頁
 
【養女】
 C棲文子 のち澁谷文子 ふみこ
 倉橋泰驍フ養女。實は青木行方の女子。
 C棲家ヘの三女となる。
 明治四十二年(一九〇九)九月生。
 のち、澁谷鴾ヘの戸籍に入籍。
 昭和七年(一九三二)十二月歿。
昭和新修 華族家系大成 上巻』、四九一頁・六七五頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』、五五三〜五五四頁
 
【C棲家の繼承者】
 C棲幸保 きよす ゆきやす
 C棲家ヘの養子。伯爵。
 眞田幸民(信濃松代藩主。伯爵)の三男。
 妻 敦子は博恭王[伏見宮]の二女。
 敦子女王の配偶を見よ。
 
【逸事等】
明治元年(一八六八)十月九日、晃親王[山階宮]が六十宮を養子にしようと願書を提出するが、六十宮は既に佛光寺相續が治定されていたため、取り止めとなった。
「C棲(キヨス)」の家名は、今出川口の伏見宮邸の別稱「C棲殿」による。伏見宮邸内には「瓢箪形の池あり、C泉滾滾として常に湧出し、其口元をC洲と呼べるが爲め、邸をC洲又はC棲殿と稱へた」という(『依仁親王』二頁)。
 
【備考】
『下橋敬長談話筆記』准門跡「佛光寺」に、
寺領は六石八斗、寺は佛光寺高倉にあります。
眞佛上人から眞達まで二十三代になります。眞達といふ方は、名をヘ應と申しまして、伏見宮邦家親王の御子で、二條左大臣齊信公の猶子として、佛光寺を相續せられましたが、維新後子鴾ヘに跡を相續させ、自分は還俗してC棲(【振假名】キヨス)といふ一家を立て、伯爵を授けられました。そして佛光寺門跡の家は、澁谷(【振假名】シブタニ)と稱して、男爵を授けられました。
とあるが、家ヘと先代ヘ應との事實關係に混亂がある。
平井誠二「『下橋敬長談話筆記』─ 翻刻と解題 ─(一)」(『大倉山論集』第四十六輯、平成十二年九月) 341頁。

【澁谷家の略系圖】
 
【C棲家の略系圖】
 
【文獻等】
『佛光寺系圖』(新編真宗全書刊行会編『新編 真宗全書』史伝編七(京都、思文閣、一九七六年七月)所収)、六〇七頁
『皇室制度史料 皇族一』 一五九〜一六二頁
『皇室制度史料 皇族三』 三一七〜三一八頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 五二九、七二七〜七二八頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 四九一、六七五頁
『國乃礎[正編]』下編 一三四〜一三五頁
首藤善樹「佛光寺の歴史──戦国〜近代──」(『佛光寺の歴史と信仰』(京都、思文閣出版、一九八九年三月)139〜153頁)より、「四 教団の近代化」(151〜153頁)


 
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更新日時: 2008.05.09.
公開日時: 2007.11.02.


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