●「敍位」のうち、六位の官人(または無位の者)を從五位下(または外從五位下)に敍すことを「敍爵」という。「氏爵(うじのしゃく)」とは、王氏 ・ 源氏 ・ 藤氏(藤原氏) ・ 橘氏等の諸氏族の出身者が、正月敍位 ・ 天皇即位敍位 ・ 大嘗會敍位 ・ 朔旦冬至敍位において敍爵されること。 ●「王氏」とは、本來は、「皇親」のうちで王號を稱するものを意味し、「諸王」とも稱された。 天長九年(八三二)十二月十五日以降、原則として、「諸王」には、天皇の孫(孫王、二世王)、曾孫(三世王)、玄孫(四世王)が含まれた。 天皇の五世孫(曾孫の孫)は、「皇親」には含まれないが、王號を稱することができるものとされた。 ● 王氏爵(おうししゃく)では、原則として、三世王は、蔭位により無位から從五位下に直敍された。 四世王は、蔭位により六位に初敍された後に王氏爵にあずかり、從五位下に敍された。 ● 源氏賜姓の盛行、ならびに、平安時代後期より殆どの親王が佛門に入るようになったことから、諸王の人數は減少を來たすようになり、伊勢奉幣使 ( 「伊勢使王表凡例」を參照されたい ) を勤仕すべき王大夫(五位以上の諸王)の人數にも事缺くという状況が生じた。 ここに、王號を稱すことはできたものの「皇親」には含まれなかった五世王や、本來ならば王號を稱することができない六世以下の諸王の末裔までもが、王氏爵にあずかるようになったものと思われる。 かれらは擬制的に「四世無位」として從五位下に直敍されたものと推定される。 このようにして、かれらは、代々、王號を世襲するようになっていった。 ここに、「王氏」とは、天皇の子孫にして王號を稱する者たちの集團を指す用語へと轉化した。 ● かれら(王氏)は、各天皇の子孫ごとに「〜御後」と稱される一まとまりの集団をつくった。 この「〜御後」という集団が、王氏爵にあずかる順番 ── これを「巡」という ── の基準となった。 なお、源氏爵の場合も王氏爵と同様に「〜御後」が基準となる。藤氏爵の場合は 「北家」 「南家」 「式家」 「京家」 が基準となる。
● 氏爵にあずかる者を推擧する ── これを氏擧(うじのきょ)という ── のは、諸氏族の氏長者(うじのちょうじゃ)または是定(ぜじょう。氏長者の代行)である。王氏爵の「氏擧」は、王氏長者としての第一親王によって行なわれた。 ● しかし、平安時代後期より殆どの親王が佛門に入るようになり、「氏擧」を行なうべき親王がいなくなるという状況が生じると、諸王の自薦により王氏爵が行なわれた。その後、諸王中の長者が是定(ぜじょう)として「氏擧」を行なうようになり、花山院の後裔である顯廣王とその子孫(伯王家)が實質的な王氏長者として「氏擧」を行なった。 ● 鎌倉時代末期、世襲の宮家が成立して、出家しない親王が現れるようになっても、依然として伯王家が「氏擧」を行なった。しかし、室町時代中期、貞常親王[伏見殿]が、寶徳二年(一四五〇)正月敍位において「氏擧」を行ない、伯王家の是定としての權能は失われた ( 「 伏見宮総説 」 をも參照されたい ) 。但し、文明八年(一四七七)正月六日の敍位においては、伯三位資益王が王氏爵の申文を進めている。 ● 王氏爵に關わる研究としては、
また、T.竹中樣より、王氏爵に關する多くの情報を御提供いただいた。記して謝意を表したい。 ● 若干、誤りがあろうかと思われるが、順次、訂正していきたい。 ● 未讀の史料が多いので、新情報が得られ次第、内容を増補する豫定である。
更新日時 : 2009.06.23. 公開日時 : 1999.05.11. |