山階宮 晃親王
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「志津宮」(のちの晃親王)の出生を文化十三年九月に七箇月繰下げ、「能布宮」の出生を文化十三年五(イ六)月に二年繰上げたため、「志津宮」が貞敬親王の九男となり、「能布宮」が同八男となる。 |
家女房。 賀茂縣主辨顕[藤木]の一女。
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「新大納言局」 藤原朝臣保香[高野]の女子。 |
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文化十三年(一八一六)二月二日、邦家親王の密子として誕生。伏見宮家來の醫師、金澤髻キ宅に預けられる。
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文化十三年(一八一六)九月七日、来たる十日に伏見宮邸へ還御することとなり、召使「千枝」を實母と定められる。
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「靜宮」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文化十三年(一八一六)九月十日、伏見宮邸宅に還御し、誕生の披露が行われ、「靜宮」と稱號を定められ、誕生年月日を文化十三年九月二日と定められる。
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文化十三年(一八一六)十二月二十九日、勸修寺門跡の相續が内約。
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「靜宮」[勸修寺門跡] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文化十四年(一八一七)八月三日、勸修寺門跡を相續。二歳。
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文化十四年(一八一七)八月五日、喰初、髪置。
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文化十四年(一八一七)八月二十五日、伏見宮邸に於いて勸修寺門跡相續が披露される。
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文化十五年(一八一八)四月五日、勸修寺本坊假殿へ内々に移徙する。
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「志津宮」[勸修寺門跡] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文化十五年(一八一八)四月七日、「靜宮」を(公式に)「志津宮」と改める。三歳。
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文政元年(一八一八)五月十三日、仙洞(光格天皇)の養子となる。
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文政元年(一八一八)六月十日、「新大納言局」(藤原朝臣正子。藤原朝臣保香[高野]の女子)を養母とする。
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文政三年(一八二〇)十一月二十七日、深曾木。
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文政六年(一八二三)十月二十二日、名字を「C保(キヨヤス)」と賜わる。
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C保親王[勸修寺門跡] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文政六年(一八二三)十月二十三日、親王宣下。八歳。
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文政七年(一八二四)四月二十三日、勸修寺に「入寺」。
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濟範親王[勸修寺門跡] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文政七年(一八二四)五月二日、得度。法名「濟範」。九歳。
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天保八年(一八三七)十一月二十日、二品に敍される。二十二歳。
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天保九年(一八三八)十月十五日、一身阿闍梨に補される。
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天保九年(一八三八)十二月二十二日、護持僧となる。
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天保十二年(一八四一)十月八日、出奔。天保十二年(一八四一)十月十七日、妹(實は叔母)幾佐宮と共に播州姫路へ密行。
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天保十二年(一八四一)十月二十八日、歸洛。
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濟範(濟範法師) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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天保十三年(一八四二)七月二十二日、不行状の故を以て勅勘を蒙り、光格天皇養子、親王宣下、二品、勸修寺住職等を停められ、伏見宮より除籍(削系傳)、「濟範法師」と稱せられ、東寺に幽閉される。二十七歳。
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嘉永五年(一八五二)、夜間の東寺大師堂參詣を許される。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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安政三年(一八五五)正月二十日、晝間の東寺大師堂參詣を許される。
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安政五年(一八五八)五月二十二日、勸修寺室外に歸住を許される。
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濟範 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文久四年(一八六四)正月九日、謹愼を解かれ、伏見宮に復系、復飾。
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濟範[山階宮] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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文久四年(一八六四)正月十七日、山階宮の稱號を賜わる。
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文久四年(一八六四)正月二十三日、名を「晃(あきら)」と賜わる。
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晃親王[山階宮]● |
文久四年(一八六四)正月二十七日、當今(孝明天皇)の猶子となり、親王宣下。 |
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文久四年(一八六四)正月二十八日、元服。常陸大守・國事御用掛に任じられる。四十七歳。 |
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慶應二年(一八六六)十月二十七日、二十二卿列參建言に坐し、慶應三年三月二十九日まで國事御用掛を免ぜられ謹愼に處せらる。 |
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慶應三年(一八六七)十二月九日、王政復古の大號令に際し、議定に任じられる。二品に敍される。 | ● |
慶應四年(一八六八)正月十七日、外國事務總督に補せらる。 | ● |
慶應四年(一八六八)二月二十日、外國事務局督に補せらる。 | ● |
慶應四年(一八六八)三月二日、治部卿を兼任。 | ● |
慶應四年(一八六八)閏四月二十一日、官制改正により、議定職、外國事務局督を免ぜられる。 | ● |
明治三年(一八七〇)十二月十日、太政官布告明治三年第七十號(追録)により、新立親王家は一代皇族と定められる。 |
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明治十四年(一八八一)一月十九日/二月五日、二代皇族に列せられる。 |
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明治二十二年(一八八九)一月九日、貞敬親王九男から、實系邦家親王一男に復される。 | ● |
明治三十一年(一八九八)二月十七日薨。八十三歳。 | |
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勸修寺慈尊院にて謹愼しつつ、國内情勢・海外事情に對する見識を深め、早くから開國説を持っていたという。
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尊王攘夷派の圧力に屈した幕府が期限付き攘夷断行を決した文久三年(一八六三)六月二十九日、濟範は、非常衣體を作らしめて有事に備えさせた。濟範の攘夷策を伺うために鹿兒島藩士高崎佐太郎(正風)等が濟範のもとを訪れた際、濟範は「勸修寺内の離れたる一室に御住居にて、非常に御零落の御有樣で」あり、高崎佐太郎は「實に落涙いたしました」。高崎佐太郎によると、「さて、御話しを承はるに果して攘夷の策といふものを七十ヶ條も書いて居らつしやる、何處其處に關門を置くとか何處を防がねばならないとか云ふやうな譯で、ほぼ西洋の事情にも通じて御座つて色々繪圖など示されましてコツチは吃驚りしました。・・・・・ 何分他の御公家樣とは違つて、武張つた風で床の間には足輕の着さうな破れ鎧を飾つてあつて、厩には痩馬が一匹飼つてあるといふ有樣であつた。夫れから是は何になさると御尋ねしたら、朝廷に事あらば佐野源左衛門をやる積りであるといふやうなことであった」、という(『史談會速記録』第五十五輯所載「男爵高崎正風君國事に盡力せられし事實」)。かくて、濟範の氣概と卓抜した見識を知った松平春嶽(慶永)・島津三郎(久光)・伊達宗城が、近衛關白忠熈を説き、ここに濟範は再び世に出ることとなった。
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佐久間象山は、元治元年(一八六四)七月十一日、晃親王邸に向かう途上、三條木屋町筋において暗殺された。
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西洋事情に通じていた。
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濟範の還俗後の處遇をめぐっては、文久三年十二月二十九日の朝議において、伏見宮を相續して親王宣下をする案、親王宣下はするが伏見宮は相續しない案、臣籍に列して四位より逐次昇進させる案、が出た。
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慶應二年二月十七日付、千種自觀(有文)が岩倉友山(具視)に宛てた書信に、以下のようにある。即ち、千種自觀は、孝明天皇からの書信の内容を源朝臣有容[六條]から傳えられたが、その大要として、晃親王の還俗という重大事を孝明天皇の不承知もかまわずに、尹宮(朝彦親王)が強行したこと、山階宮を還俗させてはみたものの時局に對する認識がなく、全く役に立たないという不評判であったので、中川宮が實兄を強いて還俗させた、という我侭を指摘しつつも、宮の言葉に從うより他ないことを嘆いている、と(※長文連『皇位への野望』、二九四〜二九五頁)。これは、孝明天皇の精神論的攘夷思想に對して晃親王が反對の立場を固守していたため、このように言われたものであろう。 | ||||
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明治時代に皇族は悉く軍人となったが、晃親王は辭して軍人とならず、文官皇族として通した。 |
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慶應元年(一八六五)九月八日、晃親王は、島津久光への書簡において、從子(實は弟)の純仁親王(仁和寺宮。後の小松宮彰仁親王)を還俗させて養子とする希望を傳えた。 |
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明治元年(一八六八)十月九日、晃親王は、從子(實は弟)の六十宮(後のC棲家ヘ)を養子として家名を相續させようとして願書を提出するが、六十宮は既に仏光寺門跡の相續が治定されており、これを取り止める。 |
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明治元年(一八六八)十月十四日、更めて定宮を養子と為さんとし、願書を提出。明治二年(一八六九)二月二十四日、定宮(定麿王)が山階宮の養嗣子となった。 |
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『山階宮實録』(明治以後皇族實録)一〜二七『晃親王實録』(宮内公文書館、識別番号 77605〜77631) |
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『山階宮三代 上』(山階會(和田軍一)編集。山階會、昭和五十七年(一九八二)二月) |
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『孝明天皇紀』巻六十五 安政三年正月二十日戊寅(二ノ五三四〜五三六頁) |
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『孝明天皇紀』巻百七十六 元治元年正月九日辛亥(五ノ五〜一二頁) |
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『皇室制度史料 皇族三』三九二〜三九三頁 |
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『皇室制度史料 皇族四』二〇〇〜二〇一頁 |
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羽倉敬尚「隠れたる茶道復興の功者山階宮晃(【振假名】アキラ)親王」(『知音』八七、昭和三十八年(一九六三)六月) |
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羽倉敬尚「公家とお茶と」(『知音』八五、昭和三十八年(一九六三)一月) |
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深澤光佐子『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』(京都、宮帯出版社、二〇一五年九月) http://www.miyaobi.com/publishing/products/detail.php?product_id=847 |
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