山階宮 晃親王


前頁 「 光 [光璘院]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[晃]

フレームなし

工事中

晃親王 あきら
 
 山階宮(一) やましなのみや
 
もと C保親王 きよやす
濟範親王
濟範
もと 勸修寺長吏
 
【幼稱】
 「
靜宮」 しづのみや
 「志津宮」 しづのみや
 
【出自】
 邦家親王[伏見宮]の一男。
 はじめ貞敬親王[伏見宮]の九男と公示されたが、明治二十二年一月九日、邦家親王[伏見宮]一男に復される。
「志津宮」(のちの晃親王)の出生を文化十三年九月に七箇月繰下げ、「能布宮」の出生を文化十三年五(イ六)月に二年繰上げたため、「志津宮」が貞敬親王の九男となり、「能布宮」が同八男となる。
 もと光格天皇(太上天皇)の養子。のち孝明天皇の猶子。
 
【生母】
 藤木壽子(のち北大路壽子)
 家女房。
 賀茂縣主辨顕[藤木]の一女。
『山科宮文書』「取調書」
 取調書
        藤木辨顯長女
           藤木久子
 祖父 從四位下左衞門尉賀茂縣主藤木尉顯
  祖母 美子前祠官從四位下播磨守賀茂縣主伊氏
   父  正四位下因幡守賀茂縣主(藤木辨顯)
   母  鎌子(從四位上肥後權守賀茂縣主西池彭俊
 右之通御坐候也
         右亡久子生家
      京都市上京區麩屋町通押小路上ル尾張町
      第三十二番戸壹號住士族
       亡辨顯長男亡有顯三男藤木育顯㊞
   明治廿二年四月廿四日
  山階宮樣
     御家扶御中
    ―――――――――
 其御宮殿下御生母之儀、伏見宮御系譜ニハ母家女房北大路壽子ヒサ  トアリヌ。本年五月之御書付御生母藤木久子トアリテ壽子久子同訓ニシテ御同人ト相聞候處、北大路氏トアルハ北大路之養女ト相成候事ニモ可有之哉。若左モ候ハヽ北大路氏官位姓名等詳細別紙ヘ御書記シ相成度候也。
   明治二十二年十一月十二日
             圖 書 寮
  山階宮
    御家扶御中
    ―――――――――
 當宮殿下御生母之儀伏見宮御系譜ト相違之旨御尋ニ付別記之通詳細申進候也。
   明治二十二年十一月
        山階宮家扶後藤廣紀㊞
  圖書寮御中

 晃親王御生母
  正四位因幡守賀茂縣主藤木辨顯ノ女ニシテ藤木壽子ヒサ  、呼名ハ金彌ト申。伏見宮ヘ勤仕中晃親王ヲ御誕生ノ後御暇ニナリ、其後北大路家ニ嫁シ候事。
 右依テ見レハ全ク藤木氏ニ相違無之候。久子ヒサ  ト當宮ヨリ相認候得トモ壽子ノ誤候條、前書御改訂相成度候也。
 
【實母】
 召使「千枝」
 
【母儀】
 藤原朝臣正子
 「新大納言局」
 藤原朝臣保香[高野]の女子。
 
【經歴】
文化十三年(一八一六)二月二日、邦家親王の密子として誕生。伏見宮家來の醫師、金澤髻キ宅に預けられる。
『伏見宮日記』文化十三年九月七日
一、當二月二日御誕生被爲有候此御所御密子之若宮御方、是迄御家來金澤髻キ方御預被成置候處、此節御丈夫被爲成候付、來十日御日柄宜敷還御可被爲在旨被仰出(但御實母御召使千枝被仰出)。仍之御家中一統津田大膳亮、泉原左衞門尉申達候也。
『伏見宮日記』文化十四年二月二日
一、靜宮樣今日御誕生日初之御儀故御一統樣御祝御略式にて被爲在。御家中へも紙敷御祝酒被下之。御實母梅崎ヘ小戴被下之。同里元ヘも小戴被下之。
『伏見宮日記』文化十四年八月十三日
文化十三年(一八一六)九月七日、来たる十日に伏見宮邸へ還御することとなり、召使「千枝」を實母と定められる。
『伏見宮日記』文化十三年九月七日
「靜宮」
文化十三年(一八一六)九月十日、伏見宮邸宅に還御し、誕生の披露が行われ、「靜宮」と稱號を定められ、誕生年月日を文化十三年九月二日と定められる。
『伏見宮日記』文化十三年九月十日
一、此間被仰出有之候當二月二日御誕生被爲有候若宮、是迄御家來金澤髻キ方候爲成候處、今日依吉辰還御被爲有候也。尤御忍供(秋山將曹并泉原左衞門尉、吉田貢)、御内儀ゟ女中御迎參。御輿(御包)午剋斗還御也。
一、還御付今度相改御名シヅ被進候也。
一、右還御付御所樣御初御祝御膳紙敷御獻等被爲有候也。御膳御下御實母千枝被下候事。
・・・・・
文化十三年(一八一六)十二月二十九日、勸修寺門跡の相續が内約。
『伏見宮日記』文化十三年十二月廿九日
「靜宮」[勸修寺門跡]
文化十四年(一八一七)八月三日、勸修寺門跡を相續。二歳。
『山科忠言卿傳奏記』文化十四年六月十六日
『山科忠言卿傳奏記』文化十四年七月三日
『山科忠言卿傳奏記』文化十四年八月三日
『伏見宮日記』文化十四年八月三日
一、勧修寺御室御家來山田刑部卿參上。善繼【三木】・宗文【津田】出會之處、今日傳奏衆御招付、非藏人口罷出候處、兩傳御面謁ニ而左之御書付之趣被仰渡難有奉畏候。仍御届奉申上候旨申聞付、及言上之後、委細御承知被遊候段、申聞候。猶又善繼【三木】・宗文【津田】兩人ゟ申達。今日於非藏人傳奏衆ゟ被達候趣申述。右之段御達申之間、御門下御家來一統被申添候樣、相達候處、難有仕合奉存候段、御請奉申上候。且又御室御家來一統來五日此御殿罷出恐悦可申上候樣申聞。猶又此御方近キ御續柄之御方々爲心得申達候處、委細奉畏候段申上候上退出仕候也。
   勧修寺室先達潔宮被召返候後無住付、此度以思召兵部卿宮末男志津宮【靜宮】相續被仰出候。御養子之儀追可有御沙汰候事。
・・・・・
『勸修寺日記』文化十四年八月三日
『禁裏番衆所日記』文化十四年八月三日
兵部卿宮參入被窺御氣色(志津宮勸門相續被仰出之事被畏申)。
『伏見宮日記』文化十四年八月四日
一、山田大藏卿參上、此朶静宮樣御室御相續被仰出難有仕合奉存候。右恐悦申上。次御所樣、静宮樣御目見被仰付。從静宮樣御口祝被下之候也。
  ・・・・・
文化十四年(一八一七)八月五日、喰初、髪置。
『伏見宮日記』文化十四年八月五日
『勸修寺日記』文化十四年八月五日
一、志津宮樣今日御喰初・御髪置等御祝義被爲催候付、中御靈御社參始被爲有之候事。
文化十四年(一八一七)八月二十五日、伏見宮邸に於いて勸修寺門跡相續が披露される。
『伏見宮日記』文化十四年八月廿五日
一、今日陰陽寮(幸コ井陰陽助)勘進吉日付、靜宮御方勧修寺御門室御相續之御弘目於此御殿被爲在。御進献被進。・・・・・
『勸修寺日記』文化十四年八月廿五日
一、今日於御里伏見殿御弘御祝儀被爲在候事。
『禁裏執次詰所日記』文化十四年八月廿五日
・・・・・
一、伏見殿静宮御方勸修寺御相續御弘御祝儀。
  ・・・・・
文化十五年(一八一八)四月五日、勸修寺本坊假殿へ内々に移徙する。
『勸修寺日記』文化十五年三月十三日
『勸修寺日記』文化十五年三月廿七日
『伏見宮日記』文化十五年四月二日
『伏見宮日記』文化十五年四月三日
『伏見宮日記』文化十五年四月五日
『勸修寺日記』文化十五年四月五日
『伏見宮日記』文化十五年四月六日
「志津宮」[勸修寺門跡]
文化十五年(一八一八)四月七日、「靜宮」を(公式に)「志津宮」と改める。三歳。
『伏見宮日記』文化十五年四月七日
『伏見宮日記』文化十五年四月八日
文政元年(一八一八)五月十三日、仙洞(光格天皇)の養子となる。
『山科忠言卿傳奏記』文化十五年四月七日
『伏見宮日記』文化十五年四月七日
『勸修寺日記』文化十五年四月七日
『山科忠言卿傳奏記』文政元年五月十三日
『禁裏番衆所日記』文政元年五月十三日
『伏見宮日記』文政元年五月十三日
『勸修寺日記』文政元年五月十三日
『勸修寺日記』文政元年五月十八日
『伏見宮日記』文政元年六月五日
文政元年(一八一八)六月十日、「新大納言局」(藤原朝臣正子。藤原朝臣保香[高野]の女子)を養母とする。
『伏見宮日記』文政元年六月十日
『伏見宮日記』文政元年六月十二日
『詰所日記部類目録』文政元年六月十日
一、勸修寺志津宮新大納言局御母儀被仰出。
文政三年(一八二〇)十一月二十七日、深曾木。
『伏見宮日記』文政三年十月十六日
『伏見宮日記』文政三年十一月十一日
『伏見宮日記』文政三年十一月十二日
『伏見宮日記』文政三年十一月廿七日
『禁裏執次詰所日記』文政三年十一月廿七日
『洞中日次案』文政三年十一月廿七日
文政六年(一八二三)十月二十二日、名字を「C保(キヨヤス)」と賜わる。
『伏見宮日記』文政六年十月廿二日
一、志津宮御使ニ松宰相を以、今日冷泉大納言殿御里坊ヘ御參御名字拜領被爲在候御吹聽被仰進。・・・・・
   清保(幾與也須)
『志津宮(親王宣下、御入寺、御得度)御伺控』(勸修寺所藏)文政六年十月廿二日
C保親王[勸修寺門跡]
文政六年(一八二三)十月二十三日、親王宣下。八歳。
『禁裏執次詰所日記』文政六年十月廿三日
リ。
一、今廿三日辰刻、勸修寺志津宮親王宣下。
  上卿   日野大納言
  辨    C閑寺辨
  奉行職事 廣橋頭辨
一、巳剋過御門閉警固揚候樣表より申出。詰番を以唐御門之申達。
一、志津宮御名C保(幾與也須)
  右四ツ折ニ書付、議奏衆御渡、御附衆ヘ可相達旨ニ付書付相達。
・・・・・
一、清保親王
   勅別當 廣幡中納言
   家司  慈光寺左馬權頭
 右議奏衆御達書面御附衆被見セ。
・・・・・
『平田職寅日次記』文政六年十月廿三日
『伏見宮日記』文政六年十月廿三日
『洞中執次詰所日記』文政六年十月廿三日
『勸修寺日記』文政六年十月廿三日
『志津宮御方親王宣下、御入寺、御得度御伺等御治定被仰出等之留』(勸修寺所藏)文政六年十月廿三日
稿本仁孝天皇實録』四三〇〜四三一頁 文政六年十月二十三日、「伏見宮邦家親王ノ王子志津宮ニ親王宣下アリ、名字ヲC保ト賜フ、」
文政七年(一八二四)四月二十三日、勸修寺に「入寺」。
『禁裏執次詰所日記』文政七年四月十三日
『禁裏執次詰所日記』文政七年四月十八日
『禁裏執次詰所日記』文政七年四月二十三日
『伏見宮日記』文政七年四月廿三日
『洞中日次案』文政七年四月廿三日
『洞中執次詰所日記』文政七年四月廿三日
『橋本實久日記』文政七年四月廿三日
『桂宮日記』文政七年四月廿三日
『勸修寺日記』文政七年四月廿四日
濟範親王[勸修寺門跡]
文政七年(一八二四)五月二日、得度。法名「濟範」。九歳。
『勸修寺日記』文政七年四月十三日
『志津宮御得度御日記』(勸修寺所藏)文政七年五月二日
『勸修寺日記』文政七年五月二日
『禁裏執次詰所日記』文政七年五月二日
『洞中執次詰所日記』文政七年五月二日
天保八年(一八三七)十一月二十日、二品に敍される。二十二歳。
少外記平田家記録 H206-4
天保九年(一八三八)十月十五日、一身阿闍梨に補される。
少外記平田家記録 H206-5
天保九年(一八三八)十二月二十二日、護持僧となる。
少外記平田家記録 H206-5
天保十二年(一八四一)十月八日、出奔。天保十二年(一八四一)十月十七日、妹(實は叔母)幾佐宮と共に播州姫路へ密行。
『勸修寺日記』天保十二年十月九日
一、昨八日初夜頃御門主様御出走。御供(周防守、縫殿介)今朝卯下剋御宿直(修理)當番(出羽介)内々届出ル。
  右西國御出走一条委細有別記。
『勸修寺日記』天保十二年十月廿三日
少外記平田家記録 K61-85 『平田家日次記』天保十二年十月廿九日
『山階宮三代』上「晃親王」天保十二年十月八日には「初夜、近習二人を召し連れ、無断にて西国へ向け出走せられた」とあるのみ。
天保十二年(一八四一)十月二十八日、歸洛。
『勸修寺日記』天保十二年十月廿八日
濟範(濟範法師)
天保十三年(一八四二)七月二十二日、不行状の故を以て勅勘を蒙り、光格天皇養子、親王宣下、二品、勸修寺住職等を停められ、伏見宮より除籍(削系傳)、「濟範法師」と稱せられ、東寺に幽閉される。二十七歳。
『外樣言渡』天保十三年七月廿二日
勸修寺宮昨年十月他國ヘ密行、殊實妹幾佐宮同伴無頼之所行候。其上諒闇中、實父重服中、重々不愼不行状候間、雖可被處嚴科、以格別御憐愍、被止親王宣旨・二品位記等、自今戒師海寶僧正生涯之間被預之、於東寺寺中嚴重籠居被仰付候事。
『孝明天皇紀』安政三年正月二十日
少外記平田家記録 K61-85 『平田家日次記』天保十三年七月廿三日
勸修寺宮昨年十月他國
密行、殊實妹幾佐宮同伴、
無等之不行状有之候ニ付
被止親王
宣旨・二品位記等、於東寺
々中篭居被仰付。・・・・・
・・・・・
天保十三年七月廿二日 
勸修寺宮
昨年十月他國密行、
殊實妹幾佐宮同伴、無
類之所行候。其上諒闇中、
實父重服中、重々不愼
不行状候間、雖可被處
嚴科、以格別
御憐愍、被止親王
宣旨・二品位記等、自
今戒師海寶僧正
生涯之間被預之、於
東寺々中嚴重
篭居被
仰付候事。

濟範
被止 光格天皇御養子
候事

別紙二通之赴從議
奏衆被申渡候旨、爲
心得從貫首被示候
間、催諸司中令觸候。
同役史生下司等者
從上首可被相違候

  ・・・・・
 天保十三年七月廿二日 
嘉永五年(一八五二)、夜間の東寺大師堂參詣を許される。
安政三年(一八五五)正月二十日、晝間の東寺大師堂參詣を許される。
『聰長卿記』安政三年正月十五日
『聰長卿記』安政三年正月十九日
『聰長卿記』安政三年正月廿日
安政五年(一八五八)五月二十二日、勸修寺室外に歸住を許される。
『孝明天皇紀』二ノ八六二〜八六三頁
國事多難となるに及び、源朝臣慶喜[徳川(一橋)]らが還俗を奏請した。
濟範
文久四年(一八六四)正月九日、謹愼を解かれ、伏見宮に復系、復飾。
『孝明天皇紀』五ノ五〜一二頁
『野宮定功公武御用記』文久四年正月九日辛亥
一、濟範法師(元勸修寺宮)去天保 【十二】年不如法之議有之、被止光格天皇御養子、被除親王、蟄居被仰出。以來深謹愼。且賢才之聞有之間、還俗被仰付、可預國事之樣、舊臘以來一橋【慶喜】・春嶽・肥後守・伊與守・嶋津三郎等頻申行。叡慮雖不安、難被黙止之間、昨今以評議御決定被仰出。
    (【傍注】元勸修寺)濟範
 多年謹愼、且今度一橋中納言已下段々建言之次第モ有之。誠難被黙止之間、以格別之思召、御咎被勅免、伏見家江復系・還俗被仰出候事。
『議奏言渡』文久四年正月九日
濟範勅免之旨、殿下傳宣。・・・・・
    元勸修寺濟範
 多年謹愼、且今度一橋中納言【慶喜】已下段々建言之次第モ有之、誠難被黙止之間、以格別之思召、御咎被勅免、伏見家江復系・還俗被仰出候事。
・・・・・
『通熈公記』文久四年正月九日、
一、元勸修寺濟範勅免之事。
一、伏見宮復系之事。
一、濟範還俗之事。
濟範[山階宮]
文久四年(一八六四)正月十七日、山階宮の稱號を賜わる。
『野宮定功公武御用記』文久四年正月十七日己未
一、元勸修寺濟範還俗ニ付、稱號被稱「山階」度旨、昨日坊官申來。今日殿下申入。仍伺給之處、如伺被仰出之旨命給。・・・・・
『通熈公記』文久四年正月十七日
一、濟範自今被稱山階宮候事。
『議奏言渡』文久四年正月十七日
一、元勸修寺濟範、自今被稱山階宮候旨、關白殿傳宣。六條殿御奉。
文久四年(一八六四)正月二十三日、名を「晃(あきら)」と賜わる。
『長橋局記』文久四年正月廿三日
晃親王[山階宮]
文久四年(一八六四)正月二十七日、當今(孝明天皇)の猶子となり、親王宣下。
『野宮定功公武御用記』文久四年正月廿七日己巳
山階宮、今日(巳刻)親王宣下(消息)也。・・・・・
『孝明天皇紀』巻百七十六 元治元年正月九日辛亥
文久四年(一八六四)正月二十八日、元服。常陸大守・國事御用掛に任じられる。四十七歳。
『議奏言渡』文久四年正月廿八日
山階宮御參、被伺天氣。今日元服任官(常陸太守)宣下。且昨日御猶子親王宣下御冠拜領。
『伏見宮日記』文久四年正月廿八日
一、山階宮、今日御元服也(於閑院殿)。加冠近衛内府殿之由。其外參仕之堂上數員之由也。・・・・・
  常陸大守アキラ親王ト申上候由也。
『公卿補任』文久四年正月十七日(五ノ五五二頁下)に、「同日任官(晃親王。常陸大守)宣下(消息)。」とあるが、これは内定であろう。
慶應二年(一八六六)十月二十七日、二十二卿列參建言に坐し、慶應三年三月二十九日まで國事御用掛を免ぜられ謹愼に處せらる。
二十二卿列參建言は、源朝臣具視[岩倉]の構想に從い、源朝臣重徳[大原]と藤原朝臣經之[中御門]が指導者となり、晃親王[山階宮]と藤原朝臣實愛[正親町三條]が援助した。朝彦親王[賀陽宮]と二條關白藤原朝臣齊敬を追って、朝廷における征夷大將軍源朝臣慶喜[徳川]の影響力を排除することを目的とするが、失敗に終わる。
慶應三年(一八六七)十二月九日、王政復古の大號令に際し、議定に任じられる。二品に敍される。
慶應四年(一八六八)正月十七日、外國事務總督に補せらる。
慶應四年(一八六八)二月二十日、外國事務局督に補せらる。
慶應四年(一八六八)三月二日、治部卿を兼任。
慶應四年(一八六八)閏四月二十一日、官制改正により、議定職、外國事務局督を免ぜられる。
明治三年(一八七〇)十二月十日、太政官布告明治三年第七十號(追録)により、新立親王家は一代皇族と定められる。
『太政官日誌』明治三年第七十號(追録)/十二月十日
明治十四年(一八八一)一月十九日/二月五日、二代皇族に列せられる。
『公文録』明治十四年/太政官、明治十四年一月十九日(『皇室制度史料 皇族一』九八頁。『皇室制度史料 皇族四』二二〇頁
明治十四年一月十九日
二品勲一等嘉彰親王、世襲皇族ニ列セラレ并二品勲一等晃親王二代目皇族ニ被列候件。
    二品勲一等嘉彰親王
 特旨ヲ以テ自今世襲皇族ニ被列候事。
    二品勲一等晃親王
 特旨ヲ以テ二代目皇族ニ被列候事。
  二月五日
明治二十二年(一八八九)一月九日、貞敬親王九男から、實系邦家親王一男に復される。
明治三十一年(一八九八)二月十七日薨。八十三歳。
 
【墓所】
 京都府京都市下京區今熊野町字山ノ内(京都市東山区泉涌寺山内町)
 
工事中 【逸事等】
勸修寺慈尊院にて謹愼しつつ、國内情勢・海外事情に對する見識を深め、早くから開國説を持っていたという。
勝海舟『氷川C話』
山階宮は、實に卓識なお方で、世間が攘夷説で騒いでいたころから、既に開國説をもっておられた。當時開國の意味がほんとうにわかっていたのは、宮方では山階宮、公家では堤中納言【ママ】のみであった。
尊王攘夷派の圧力に屈した幕府が期限付き攘夷断行を決した文久三年(一八六三)六月二十九日、濟範は、非常衣體を作らしめて有事に備えさせた。濟範の攘夷策を伺うために鹿兒島藩士高崎佐太郎(正風)等が濟範のもとを訪れた際、濟範は「勸修寺内の離れたる一室に御住居にて、非常に御零落の御有樣で」あり、高崎佐太郎は「實に落涙いたしました」。高崎佐太郎によると、「さて、御話しを承はるに果して攘夷の策といふものを七十ヶ條も書いて居らつしやる、何處其處に關門を置くとか何處を防がねばならないとか云ふやうな譯で、ほぼ西洋の事情にも通じて御座つて色々繪圖など示されましてコツチは吃驚りしました。・・・・・ 何分他の御公家樣とは違つて、武張つた風で床の間には足輕の着さうな破れ鎧を飾つてあつて、厩には痩馬が一匹飼つてあるといふ有樣であつた。夫れから是は何になさると御尋ねしたら、朝廷に事あらば佐野源左衛門をやる積りであるといふやうなことであった」、という(『史談會速記録』第五十五輯所載「男爵高崎正風君國事に盡力せられし事實」)。かくて、濟範の氣概と卓抜した見識を知った松平春嶽(慶永)・島津三郎(久光)・伊達宗城が、近衛關白忠熈を説き、ここに濟範は再び世に出ることとなった。
高崎正風應答談話「男爵高崎正風君國事に盡力せられし事實附十二節」(史談會『史談速記録』第五十五輯、明治卅年五月、十四〜二十九頁)
『山階宮三代』上、一二九〜一三一頁。
佐久間象山は、元治元年(一八六四)七月十一日、晃親王邸に向かう途上、三條木屋町筋において暗殺された。
山階芳麿「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 文化人 20』所収)二七〇頁には、晃親王と會ったその歸途に暗殺されたと述べられている。
西洋事情に通じていた。
新訂 海舟座談』「C話のしらべ」明治三十一年二月十六日(一一一〜一一二頁)
西京の宮様がお死になすったかしら。昨日、人が来たとき、高崎【正風】はどうしたと言ったら、何んだか、急いで西京へ行ったと言うから、大方あの山階の宮がおワルイのだろうと思ったよ。モウ、イケナイのかしら。・・・・・ モウ八十の上で、あの方が一番のお年だ。たいそう字を善くお書きなすって、大きな一字を書いたのを貰ってあったが、どうしたかしら。ワシが外国の事を調べて置いた、色々書いたものが、八十巻もあったが、アノ宮様は、開けた方だから、コウいうものを見せたいと、高崎【正風】が言って、お貸し申したら、西京の火事で、皆ンナ焼かれてしまって、実に弱ったよ。コチラで写させるから、宜しいと言って、そのまま取られたものだからネ。・・・・・
濟範の還俗後の處遇をめぐっては、文久三年十二月二十九日の朝議において、伏見宮を相續して親王宣下をする案、親王宣下はするが伏見宮は相續しない案、臣籍に列して四位より逐次昇進させる案、が出た。
『續再夢紀事』文久三年十二月晦日、(『孝明天皇紀』五ノ一二頁)
中根靫負を中川宮に參候せしめらる。・・・・・ 宮に拜謁して御内實を伺ひしに、『近衛は伏見家相續の上親王宣下然るへしと申立。二條は親王宣下は然るへし伏見家相續は然るへからすと申立。正親町三條は伏見家相續親王宣下とも不同意にて四品より逐次昇進然るへしと申立。此方は人臣の位階に敍せられ逐次昇進然るへしと申しヽ事なるか、攝家の人臣敍位を嫌ふは皇族にて人臣に下さるれは大臣に昇進するも妨けなけれは將來自家の規模に關せん事を思ひてなるへし』云々仰られき(樞密備忘)。
慶應二年二月十七日付、千種自觀(有文)が岩倉友山(具視)に宛てた書信に、以下のようにある。即ち、千種自觀は、孝明天皇からの書信の内容を源朝臣有容[六條]から傳えられたが、その大要として、晃親王の還俗という重大事を孝明天皇の不承知もかまわずに、尹宮(朝彦親王)が強行したこと、山階宮を還俗させてはみたものの時局に對する認識がなく、全く役に立たないという不評判であったので、中川宮が實兄を強いて還俗させた、という我侭を指摘しつつも、宮の言葉に從うより他ないことを嘆いている、と(※長文連『皇位への野望』、二九四〜二九五頁)。これは、孝明天皇の精神論的攘夷思想に對して晃親王が反對の立場を固守していたため、このように言われたものであろう。
明治時代に皇族は悉く軍人となったが、晃親王は辭して軍人とならず、文官皇族として通した。
 
【山階宮晃親王の後繼者選定】
慶應元年(一八六五)九月八日、晃親王は、島津久光への書簡において、從子(實は弟)の純仁親王(仁和寺宮。後の小松宮彰仁親王)を還俗させて養子とする希望を傳えた。
明治元年(一八六八)十月九日、晃親王は、從子(實は弟)の六十宮(後のC棲家ヘ)を養子として家名を相續させようとして願書を提出するが、六十宮は既に仏光寺門跡の相續が治定されており、これを取り止める。
明治元年(一八六八)十月十四日、更めて定宮を養子と為さんとし、願書を提出。明治二年(一八六九)二月二十四日、定宮(定麿王)が山階宮の養嗣子となった。
 
【子女】
 □
菊麿王[梨本宮のち山階宮]
 
【養子】
 □
定麿王[山階宮繼嗣](離。のち依仁親王[東伏見宮])
 
【文獻等】
『山階宮實録』(明治以後皇族實録)一〜二七『晃親王實録』(宮内公文書館、識別番号 77605〜77631)
『山階宮三代 上』(山階會(和田軍一)編集。山階會、昭和五十七年(一九八二)二月)
『孝明天皇紀』巻六十五 安政三年正月二十日戊寅(二ノ五三四〜五三六頁)
『孝明天皇紀』巻百七十六 元治元年正月九日辛亥(五ノ五〜一二頁)
『皇室制度史料 皇族三』三九二〜三九三頁
『皇室制度史料 皇族四』二〇〇〜二〇一頁
羽倉敬尚「隠れたる茶道復興の功者山階宮晃(【振假名】アキラ)親王」(『知音』八七、昭和三十八年(一九六三)六月)
羽倉敬尚「公家とお茶と」(『知音』八五、昭和三十八年(一九六三)一月)
深澤光佐子『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』(京都、宮帯出版社、二〇一五年九月)
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更新日時: 2022.01.02.
公開日時: 2008.09.08.


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