東伏見宮 依仁親王


前頁 「 依 [依子A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[依仁]

フレームなし

工事中

依仁親王 よりひと
 
 東伏見宮 ひがしふしみのみや
 もと小松宮繼嗣
もと 定麿王山階宮繼嗣 のち小松宮繼嗣] さだまろ
依仁王
【幼稱】
 「
定宮」 さだのみや
 
【出自】
 邦家親王[伏見宮]の[十七]男。
 明治天皇の養子。
 晃親王[山階宮]の養嗣子、のち彰仁親王[小松宮]の養嗣子(離)。
 
【生母】
 百々重(百重、百枝)
 伏見宮家女房(若年寄)
 伊丹吉子
 妙法院宮家臣從五位下伊丹尾張介藤原朝臣保祿の女子。
 生母は、有栖川宮家臣鎌田政博の一女、友子(伊丹保祿の妻)。
 天保八年(一八三七)六月十九日生。
 嘉永五年(一八五二)、伏見宮に出仕。十六歳。
 明治五年(一八七二)、邦家親王薨去後、伏見宮より退く。
 大正四年(一九一五)十一月三日、死去。七十九歳。
『依仁親王』(東伏見宮蔵版、昭和二年(一九二七)五月) 二〜三頁
 
【經歴】
慶応三年(一八六七)九月十九日生。
定宮
「定(佐太)」と命名。
慶応四年(一八六八)二月十一日、圓満院門跡相續の内約が成る。しかし、大政奉還後の皇族還俗の状況下、圓滿院相續は沙汰止みとなった。
定麿王
(明治二年(一八六九)二月二十二日、「定麿」と命名)。
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「東伏見宮」一〇九頁
明治二年二月二十二日名定麿。
明治二年(一八六九)二月二十四日、晃親王[山階宮]の養嗣子となる。三歳。
明治四年(一八七一)九月十六日、山階宮邸へ移る。
明治五年(一八七二)三月、晃親王[山階宮]と共に東京に移住する。
明治十年(一八七七)三月一日、海軍兵學校に入校。十一歳。
定麿王[山階宮繼嗣]
明治十四年(一八八一)二月五日、特旨を以て、晃親王[山階宮]繼嗣として「二代目皇族」に列される。
明治十七年(一八八四)四月二十七日、イギリス留學のため出發。
定麿王[小松宮繼嗣]
明治十八年(一八八五)十二月二日、勅旨を以て、山階宮繼嗣を止められ、彰仁親王[小松宮]の繼嗣となる。
依仁王[小松宮繼嗣]
明治十九年(一八八六)五月一日、名を「依仁」と賜わる。
依仁親王[小松宮繼嗣]
明治十九年(一八八六)五月一日、明治天皇の養子となり、親王宣下。三品に敍される。
『官報』明治十九年五月三日 宮廷録事
『皇親録』明治十九年
親王宣下の最後の例。
明治二十年(一八八七)七月、イギリスよりフランスへ移る。
明治二十一年(一八八八)十月四日、ブレスト海軍兵學校に入校。
明治二十三年(一八九〇)七月二十六日、ブレスト海軍兵學校を卒業。
明治二十三年(一八九〇)八月十四日、海軍少尉に任じられ、引續きフランス國留學を命じられる。
明治二十五年(一八九二)二月二十三日、歸國、東京に到着する。
明治二十六年(一八九三)八月四日、訪欧のため横濱より出港。
  1893.08.15. バンクーバー着
  1893.09.09. ワシントンにてクリーブランド大統領と会見。
  1893.09.27. ニューヨーク出港。
  1893.10.04. ロンドン着。
  1894.02.23. サンクトペテルブルグにてロシア皇帝に謁見。
  1894.03.04. イスタンブルにてトルコ皇帝に謁見。
  1894.04.01. ウィーン発。
  1894.04.06. ヴェネツィア着。
明治二十七年(一八九四)九月二十六日、横濱に歸着。
依仁親王[東伏見宮]
明治三十六年(一九〇三)一月三十一日、彰仁親王[小松宮]繼嗣を止められ、「東伏見宮」の稱號を賜わり、一家を創立する。
大正七年(一九一八)七月二日、海軍大將に進み、軍事參議官に任じられる。
大正十一年(一九二二)六月二十五日二十三時二十五分、死亡。五十六歳。
『牧野伸顯日記』大正十二年六月二十五日
大正十一年(一九二二)六月二十六日「危篤」。
大正十一年(一九二二)六月二十七日、元帥府に列せられる。
大正十一年(一九二二)六月二十七日午後十一時二十五分「薨去」。
 
【墓所】
 東京都文京區大塚の豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 八重子 やえこ
 依仁親王[小松宮繼嗣]妃
 山内豐信(とよしげ。容堂)の三女。
 侯爵山内豐景(とよかげ)の叔母。
 明治二年(一八六九)六月七/九日生。
 明治二十五年(一八九二)七月七日、成婚。
 明治二十九年(一八九六)四月三十日、病氣の故を以て離婚。
 秋元興朝(あきもと おきとも。子爵)と再婚。
 大正八年(一九一九)十月九日、死去。
平成新修 旧華族家系大成 下巻』 七六六頁
 周子 かねこ
 依仁親王[東伏見宮 もと小松宮繼嗣]妃
 のち東伏見周子
 岩倉具定(侯爵)の一女。
 明治九年(一八七六)八月二十九日生。
 明治三十一年(一八九八)二月十日、成婚。
 牧野伸顯より「御聰明」と評されている。
『牧野伸顯日記』大正十三年七月十四日
 昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇族の身分を離れ、「東伏見」を姓とする。
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示 「宮内府告示第十七号」
 昭和三十年(一九五五)三月四日、死去。七十八歳。
 
【子女】
 なし
 
【祭祀繼承者】
東伏見邦英 ひがしふしみ くにひで
 邦彦王[久邇宮(二)]の三男。
 伯爵
 もと邦英王
 のち東伏見慈洽(ひがしふしみ じごう
 
【逸事等】
東伏見家繼嗣には、初め、邦久王(邦彦王[久邇宮(二)]の二男。のち久邇邦久(侯爵))が入る予定であったが、病身であったため、弟の邦英王に代わった、という。
 
工事中【ハワイ皇室との婚姻の問題】
明治十四年(一八八一)三月、来日中のハワイ皇帝カラカウアが定麿王と對面する。カラカウアは、定麿王を、繼嗣たる姪ヴィクトリア・カイウラニの配偶者として養子に迎えたき旨を明治天皇に申し出た。しかし、「外國皇室と婚嫁を通ずる事は、累を將來に及ぼす虞【オソレ】なきにあらず」(外務卿井上馨)として、實現に至らなかった。
「長崎省吾談話速記」(宮内廳書陵部所藏)
川上寿代「ハワイ王室縁組問題」(『日本史史話3 近代・現代』(山川出版社、一九九四年)所收)
川上寿代〔新刊紹介〕「荒俣宏・樋口あや子共訳『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』」(『史學雜誌』第百四編第十一号、一九九五年十一月
 
【文獻等】
『依仁親王』(東伏見宮藏版、昭和二年(一九二七)五月)
『皇室制度史料 皇族三』 二七三〜二七四頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三九頁・四三頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 三七頁
『系圖綜覽』所收『皇室系譜』「東伏見宮」 一〇九頁
『東伏見宮依仁親王殿下大正七年欽命御渡歐日記』(宮内省)
『依仁親王同妃兩殿下英皇戴冠式御參列日記』(宮内省)
広岡裕児『一等国の皇族』(中央公論新社、二〇〇一年十一月)



 
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更新日時: 2012.10.29.
公開日時: 2008.09.28.


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