東伏見宮 依仁親王
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伏見宮家女房(若年寄) 伊丹吉子 妙法院宮家臣從五位下伊丹尾張介藤原朝臣保祿の女子。 生母は、有栖川宮家臣鎌田政博の一女、友子(伊丹保祿の妻)。 天保八年(一八三七)六月十九日生。 嘉永五年(一八五二)、伏見宮に出仕。十六歳。 明治五年(一八七二)、邦家親王薨去後、伏見宮より退く。 大正四年(一九一五)十一月三日、死去。七十九歳。
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依仁親王[小松宮繼嗣]妃 山内豐信(とよしげ。容堂)の三女。 侯爵山内豐景(とよかげ)の叔母。 明治二年(一八六九)六月七/九日生。 明治二十五年(一八九二)七月七日、成婚。 明治二十九年(一八九六)四月三十日、病氣の故を以て離婚。 秋元興朝(あきもと おきとも。子爵)と再婚。 大正八年(一九一九)十月九日、死去。
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依仁親王[東伏見宮 もと小松宮繼嗣]妃 のち東伏見周子 岩倉具定(侯爵)の一女。 明治九年(一八七六)八月二十九日生。 明治三十一年(一八九八)二月十日、成婚。 牧野伸顯より「御聰明」と評されている。
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□ | 東伏見邦英 ひがしふしみ くにひで 邦彦王[久邇宮(二)]の三男。 伯爵 もと邦英王 のち東伏見慈洽(ひがしふしみ じごう) |
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東伏見家繼嗣には、初め、邦久王(邦彦王[久邇宮(二)]の二男。のち久邇邦久(侯爵))が入る予定であったが、病身であったため、弟の邦英王に代わった、という。 |
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明治十四年(一八八一)三月、来日中のハワイ皇帝カラカウアが定麿王と對面する。カラカウアは、定麿王を、繼嗣たる姪ヴィクトリア・カイウラニの配偶者として養子に迎えたき旨を明治天皇に申し出た。しかし、「外國皇室と婚嫁を通ずる事は、累を將來に及ぼす虞【オソレ】なきにあらず」(外務卿井上馨)として、實現に至らなかった。
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『依仁親王』(東伏見宮藏版、昭和二年(一九二七)五月) |
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『皇室制度史料 皇族三』 二七三〜二七四頁 |
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三九頁・四三頁 |
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『昭和新修 華族家系大成 上巻』 三七頁 |
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『系圖綜覽』所收『皇室系譜』「東伏見宮」 一〇九頁 |
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『東伏見宮依仁親王殿下大正七年欽命御渡歐日記』(宮内省) |
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『依仁親王同妃兩殿下英皇戴冠式御參列日記』(宮内省) |
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広岡裕児『一等国の皇族』(中央公論新社、二〇〇一年十一月) |
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