東伏見慈洽


前頁 「 邦 [邦永]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[邦英]

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邦英王 くにひで
のち 東伏見邦英 ひがしふしみ くにひで(伯爵)
東伏見慈洽 ひがしふしみ じごう
   善光寺大勸進住職のち名譽住職
   蓮院門跡門主のち名譽門主
   京都市佛教會會長
   文學博士(京都大學文學部)
 
【出自】
 
邦彦王[久邇宮(二)]の三男。
 香淳皇后(良子)、大谷智子(東本願寺裏方。もと智子女王)等の末弟。
 依仁親王[東伏見宮]の祭祀を繼承。
 
【母】
 俔子 ちかこ
 邦彦王妃
 島津忠義の七女。
 
【經歴】
明治四十三年(一九一〇)五月十六日、誕生。
『官報 號外』明治四十三年五月十六日 告示
宮内省告示第八號
五月十六日午後十一時二十分邦彦王妃殿下分娩男子誕生セラル
    明治四十三年五月十六日     宮内大臣 子爵渡邊千秋
『明治天皇紀』
邦英王
明治四十三年(一九一〇)五月二十二日、「邦英(クニヒデ)」と命名される。
『官報 號外』明治四十三年五月二十二日 告示
宮内省告示第九號
五月十六日午後十一時二十分誕生セラレタル邦彦王殿下ノ王男子名ヲ邦英(【振假名】クニヒデ)ト
命セラル
    明治四十三年五月二十二日    宮内大臣 子爵渡邊千秋
大正八年(一九一九)十月二十六日、依仁親王[東伏見宮]の繼嗣となり、御預りの形を以て、東伏見宮邸に入家。
『牧野伸顯日記』大正十三年七月十四日
午後周君樣【東伏見依仁親王妃】伺候。
常〔盤〕松賜邸に付御諒解を願ひ度廉々を申上ぐ。要するに賜邸の性質從來兎角明確ならず。後日の爲め此際附帶條件等を申上げ御諒承を願ひたるなり。殿下不相換御聰明。直に御承引遊ばさる。
邦英王御丁年の後同居差支なきやの御下問あり。急ぐ事にもあらざれば考慮致呉れとの御事なり。
學習院大學から京都帝國大學に進む。
昭和六年(一九三一)三月三十一日、臣籍降下を前に、賢所・皇靈殿・~殿を參拜、ついで朝見の儀を濟ませる。
『官報』第一二七四號 昭和六年四月一日 宮廷録事
○皇族御參拜竝朝見 邦英王殿下臣籍降下
ニ付去月三十一日午前十時三十分 賢所 
皇靈殿 ~殿拜禮同十一時朝見ヲ濟マセラ
レタリ
『牧野伸顯日記』昭和六年三月三十一日
邦英王臣籍降下報告祭に付賢所に參列す。
東伏見邦英(伯爵)
昭和六年(一九三一)四月四日、臣籍降下、「東伏見(ひがしふしみ)」の家名を賜わり、東伏見宮の祭祀を繼承。伯爵を授けられ、從四位に敍される。
『官報』昭和六年四月六日告示
『官報』第一二七七號 昭和六年四月六日 授爵、敍任及辭令
○昭和六年四月四日
授伯爵        勲一等 東伏見邦英
『官報』第一二七七號 昭和六年四月六日 授爵、敍任及辭令
○昭和六年四月四日
敍從四位     勲一等伯爵 東伏見邦英
昭和九年(一九三四)、京都帝國大學文學部國史科を卒業。
昭和十二年(一九三七)五月五日、久邇宮家にて、龜井茲常の二女 保子と結婚。媒酌は島津忠重・伊楚子。
『宣仁親王日記』昭和十二年五月七日
夜帝国ホテルにて東伏見伯【邦英】と龜井伯【茲常】令孃【保子】との結婚披露宴あり。東伏見伯ホワイトタイ、大綬(筑波樣の時フロックコートなりしに顧ミ、通禮にてゆく)。東伏見大妃いたく御よろこびなり。
・・・・・ 龜井も侍從の時に會ひしのみにて、病體の故もあり白髪多く見えたり。
 島津公【忠重】媒しゃく、松平宮相【恒雄】あいさつ、河原田内相【稼吉】乾杯に和して私【宣仁親王】も起立杯をあぐ。御降下の方として、又東伏見宮に對して、敬意を表するを可と考へたり。皇族中には齊一をかきたる方もありたり。
『しらゆき ── 島津忠重 伊楚子 追想録 ──』(東京、島津出版会、昭和五十三年(一九七八)四月) 五〇六頁
昭和十四年(一九三九)、京都帝國大學講師(昭和二十二年(一九四七)まで)。
東伏見慈洽(伯爵)
昭和二十年(一九四五)七月二十七日、得度。法名「慈洽(じごう)」。改名。
東伏見慈洽
昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(伯爵)の身位を喪失する。
昭和二十七年(一九五二)、權律師から少僧都となる。
東伏見慈洽が善光寺大勸進住職に内定した後、大學卒業者であること等が勘案されて五階級を飛ばして昇進した。
昭和二十七年(一九五二)四月二十三日、善光寺大勸進住職となり、晋山式が行われる。
天台宗則では、住職となるには權大僧正以上の有資格者であるとされていたが、東伏見慈洽が善光寺大勸進住職に内定した後の、昭和二十七年(一九五二)二月、その宗則は改訂された。
昭和二十八年(一九五三)三月、蓮院門跡となる。善光寺大勸進住職は兼帶。
昭和三十一年(一九五六)、「飛鳥時代の藝術の研究」で文學博士(京都大學)の學位を取得。その後、權大僧正に昇進。
昭和三十四年(一九五九)五月三十一日、善光寺大勸進住職を退き、善光寺大勸進名譽住職となる。
昭和五十八年(一九八三)、京都市佛教會會長となる。
平成十六年(二〇〇四)二月五日、蓮院門跡の門主を退任し、名譽門主に就任する。九十三歳。
平成二十六年(二〇一四)一月一日午前四時二十五分、慢性心不全で死去。百三歳。
 
【配偶】
 東伏見保子 ひがしふしみ やすこ
 龜井茲常の二女。
 大正七年(一九一八)五月十二日生。
 平成二十一年(二〇〇九)九月二十九日死去。九十一歳。
 
【子女】
 東伏見具仁子のち西川邦子 くにこ
 東伏見邦英の一女
 東伏見韶俶 ひがしふしみ あきよし
 東伏見邦英の一男
 東伏見慈晃 ひがしふしみ じこう
 もと東伏見守俶 ひがしふしみ もりよし
 東伏見邦英の二男
 平成六年(一九九四)、蓮院門跡の執事長に就任。
 平成十三年(二〇〇一)、蓮院門跡の副住職に就任。
「お家断絶もある「皇籍離脱」男系男子リスト 女性宮家で脚光!「愛子さま」ご結婚相手にも急浮上!」(『週刊新潮』第五十六巻第四十八号 通巻二八二一号、二〇一一年十二月八日) 28頁
・・・・・ 京都の蓮院。この由緒ある寺の門主、東伏見慈晃(【振假名】じこう)氏(69)の2歳になる孫も男系の血筋を引く男児なのである。
 ・・・・・ 慈晃氏はこの慈洽氏の次男。父親から門主を継いだわけだ。さらに彼の息子の光晋氏が蓮院の執事長として控えている。
「孫はしっかりしていて、気立ての良い子で、すでに言葉も話せます」
 と言うのは慈晃氏。
「うちにも男子の孫は一人しかいない。皇室の男系の血を守るために、うちの孫を婿に入れるなんてことは現実的に考えづらい。息子の光普を門主にした後は、孫を門主として寺を継がせるよう、育てたいと考えていますから」
 東伏見睿俶 ひがしふしみ としよし
 東伏見慈洽の三男
 
【逸事等】

ピアノに堪能であった。その演奏の録音は、CD『ロームミュージックファンデーションSPレコード復刻CD集 日本SP名盤復刻選集U』(原盤SP、日本ポリドール1201〜3)に收録されている、F.J.ハイドンのピアノ協奏曲 ニ長調 作品21番 Hob.XVIII-11(1784年)── 日本人の演奏による最初の、かつ、戰前唯一の、協奏曲全楽章録音 ── で聽くことができる。そのCDの解説26〜27頁に、次のように記されている。
本セットCD2に収録されたハイドン作のピアノ協奏曲ニ長調は、CD1の続きといってよい近衛秀麿指揮による新交響楽団初期の録音の一例であるが、コンチェルトを全楽章通して録音した我が国最初のレコードである。・・・・・ このハイドンは戦前の日本人の演奏した唯一の協奏曲全曲盤という意味からも貴重な記録である。指揮者とソリストが共に華族というコンビであるが、近衛家が藤原氏嫡流の公卿の家柄であるのに対し、ピアノを弾いている東伏見邦英(伯爵)(1910〜)は、宮家の出身(久邇宮邦彦王の第三王子)である。明治43(1910)年に生まれ、昭和6(1931)年4月に宮家の祭祀を司る家柄として臣籍に降下し、東伏見家を起こし伯爵になった。後に東伏見慈洽を名乗り、古美術にも造詣の深い文化人であった。京都帝国大学に学び、音楽を専攻した人ではなく、音楽の修行をどのように行ったかは不明であるが、幼い時から芸術的才能に優れていたという。このハイドンの協奏曲(1932年録音)を聴いてわかるように、昭和初期の日本人ピアニストとしてもレヴェルも高く、好ましい音楽的センスの持ち主であることがわかる。しかし、リサイタル開催とか放送などの公演の記録はほとんどなく、ピアニストとして活動を続けることはなかった。因にもう一つ彼のピアノを聴けるレコードに、東本願寺の大谷智子裏方が作詞し、作詞者自身が歌っている《同胞の歌》(作曲、東京音楽学校)にピアノ伴奏をしているものがある。
臣籍降下の際、東伏見宮家は、より高い爵位を願った。また、同時に、皇族の養子を解禁すべく皇室典範の改訂も議された。
『牧野伸顯日記』昭和六年二月十七日
宮内大臣より、邦英王臣籍降下の情願あり、其爵位に付或る方面より内々希望あり、然るに此れに付ては從來種々内規、先例等もあり、重大なる問題なれば意見を聞きたしとの事なりし。尤も一應言上に及びたる處、實に難有御思召しあり、極めて公明正大なる聖慮を承はりたりとの内話あり。乍今更小生も感動せり。小生に關する、固より正論に從ふの外なしと一言せり。
『牧野伸顯日記』昭和六年三月二十日
宮相より邦英王臣籍御降下後爵位の件に付内談あり。侍從長意見あり。尚余日もあるに付此上にも調査を必要とすべきも、只今の處純理論に傾き居れり。將來の爲めを慮ぱかる時は此方適當と思考す。
『牧野伸顯日記』昭和六年三月二十六日
宮相より内話の次第あり。・・・・・
第一、此際皇室典範を改正して養子の制度を認むるの可否。
第二、華族階級に低【逓】減主義を取るの可否。
第三、邦英王臣籍降下に付授爵の階級に關する件、なり。
東京帝國大學への入學を勅命によって阻止されたと考え、また、自らの爵位が伯爵であることに不滿を抱いていた。
『木戸幸一日記』昭和八年十一月十六日
次官より
 東伏見宮高橋別當、大臣へ内談の件−加藤事務官の態度−東伏見伯の不滿−京大入學(東大入學を勅命により阻止云々)、伯爵・・・・・
經費不足の点──
 ・・・・・
京都帝國大學への入學を辭退すると言い出して、宮内省を困惑させた。
『牧野伸顯日記』昭和六年四月二十九日
關屋次官にも面會したるが東伏見伯【邦英】が京都大學の方を斷はると云ひ出され、甚だ困まり入るとの事なり。隨分大學側に無理を強ひ、御本人も決心されたる後突然變心される事は心得として宜しからず、目下何とか落附く樣心配中なり云々。
『牧野伸顯日記』昭和六年五月四日
・・・・・ 宮相より、東伏見伯【邦英】京都大學御入學に付蹉跌を來[し]たるに付、跡始末の顛末を詳細内話あり。本件に關しては朝香宮【鳩彦王】側面より種々御説諭も遊ばされたる趣なるが、捗々しき効果顯はれず。御本人の御態度余程御執念の御樣子にて、其行詰まりの實況聖聞に達したる結果、陛下より直接伯へ御懇諭被遊たる由、爲めに伯も終に反省、最初御予定通り京都へ御入學の事に御決心附きたる次第なりと。御若年とは申し乍ら兎角御動き易き御性質にて、此際は治まりたるも今後御入學後又々何等か問題の發生せずとも限らず、適當の指導者は是非必要なるが如し。
京都大學にて在學中、所謂「赤化華族」たちからの獲得の對象と見做された。
『木戸幸一日記』昭和八年九月二十六日所引「中溝三郎手記」
京都にて獲得すべき人物
 甘露寺忠長、山内豐文、中園輝雄、・・・・・ 東伏見伯、森昌也より學習院系統の一つ【ママ】建られ居ることを聞く。
昭和十八年(一九四三)五月八日の皇族會議では、東伏見邦英の天台宗管長就任問題について議された。
『宣仁親王日記』第十六册卷末「東伏見伯ノ管長問題(一−一五)」(『高松宮日記』第七巻 二二四〜二二五頁)
文部省ハ初メカラ俗人ニ修業ナキ人ニハ許サズト云フモ、態度極メテ消極的ナリ。
 最近得度シテ僧籍ニ入ルトノ考ヘヲ持チ、サウスレバ管長ニナレルトノ觀方ヲシテオラレル。本年ニナリテヨリ朝融王ニ珍シク面會、ソノ話サレシ由。朝融王ハ「ドウセナツテモ失敗スルデアラウカラ、ヤラシテ見ヨウ」トノ考ヘノ由。
 宮内省トシテハ止メタイガ、下手ニ止メダテスルト「東伏見宮ノ祭祀ヲツガヌ」ト申シ出ラレルノヲ恐ル。先キノ場合ニモ、サウ云フオドシヲ用ヒラレタ。
 東伏見宮ノ祭祀ヲツグ件ハ法制的ニドウト云フ問題デハナイガ、東伏見大妃殿下【依仁親王妃周子】ニシテ見レバ之ハ重大ナルコトトシテ、昨年之モ珍シク伯ガ法隆寺ヲ自ラ案内サレタノヲヒドクヨロコバレテ、宮内大臣【松平恒雄】・總裁ヲ食事ニ召シタト云フ位ノコトモアリ。僧籍ニ入ルコトヲ望マレヌガ之ハ絶體ノコトデナイノデ、仕方ナシトモ考ヘラレヨウガ、祭祀ノコトニナルト大問題デ大妃殿下ノ最モ痛心サレルコトニナリ、宮内大臣モ此點ヲ考ヘネバナラヌ立場ニアリ。
 數日前、龜井伯【茲常】ガ總裁ヲ訪問シテ、事ヲ荒ダテヌタメ僧籍ニ入ルコトヲ認メテハトノコトアリ。
 管長就任ニ關シテハ、叡山側モ之デ世襲ノ管長ヲ叡山ニオケルト云フ考ヘ。蓮院デハソレデ収入モ増スデアラウト云フ考ヘ。上野【寛永寺】デハ京都久迩宮邸ヲ住居トサレヨウ、ソシテ何レハ東京ニ移ラレテ上野ニ來レヨウト云フ等ノ、夫々ノ考ヘデ贊成シテヰル。
 黒幕タル星島・飯田ハ已ニ運動金ヲ消費シテヰルトカ。管長ニナレバ年十萬圓ハモラヘヨウ等、就任ノタメニハ百萬圓モ用ヒラレヨウ等ノ考ゲアリ。
 結局ヤハリ現今デハ文部省カラ速ニ時局モ考ヘ、カヽル管長ハ許サヌ方針ヲ夫々ニ示達スルヲ適當トスベシト所見ヲ總裁ニ語ル。
『宣仁親王日記』昭和十九年一月十五日(土)(『高松宮日記』第七巻 二二四頁)
・・・・・ アト總裁【宗秩寮。武者小路公共】ヨリ東伏見伯【京都帝大講師】ノ管長【天台宗】問題ニテコマリオル話アリ。
善光寺大勸進住職に在職したものの、善光寺を留守にしているのが常態であった。
宮尾貞子『善光寺 ──宗門の堕落とその改革──』(京都・東京、三一書房、一九五九年九月)第六章「皇后の弟住職を持て余した大勧進」
小林計一郎『善光寺さん』(長野、銀河書房、昭和四十八年(一九七三)三月初版、平成三年(一九九一)四月六版) 二一五〜二一六頁
昭和二十七年、大勧進は皇后の実弟東伏見慈洽(【振假名】じこう【ママ】)師を住職に迎えました。東伏見師は僧歴も浅く、またじっさいに大勧進に居られる期間もごく少なくて寺務に専念されることなく、七年間の在任ご、名誉住職という称号をえて善光寺を去りました。
姉 大谷智子の嫁ぎ先である東本願寺の、混亂を極めた紛爭 ── 所謂「お東騒動」── に於いて、仲介をすることが叶わなかった。
『入江相政日記』昭和五十七年三月十六日(火)
十一時頃お召といふので宮殿。本願寺のこと。お上【昭和天皇】らしくないことで、朝融【久邇】を新興宗教から放したのは高橋(石油か)が食事を一緒にしたりして懇談したから。内藤【ョ博】の外にそのやうな人を見つけなければならないとおつしやる。そんな人見つかりませんと申上げたら、何としても見つけなければとおつしやる。慈洽さん【東伏見】さへお近づきになれないのだからと申上げたらいくらかお分りになつた。
昭和五十八年(一九八三)に京都市が導入した「古都保存協力税」に對し、京都市佛教會會長として反對の先頭に立ち、同税の施行阻止・廢止に成功した。
京都の景觀を守るために、JR京都駅ビル建設、京都ホテル(現、京都ホテルオークラ)高層化に反對した。
 
【關東大震災の後、藤澤にて炊き出しの白粥を二椀食す】
藤沢市教育文化センター編集『藤沢市教育史 史料編 別巻』(藤沢市教育委員会、二〇〇四年三月)所收『震災誌』「坂戸親交会の活躍」八五七頁上〜八五八頁下に、次のように記されている。
 福岡日々新聞は十月一日の新聞紙に左の記事を掲げてゐる。(これは九州の或人から当町の一知人の許へ送つてよこしたものだ。)

 邦  避難者に交つて
 英   白粥を召上る
 王    こんな美味はまたとない
 が     宿屋の悴に御言葉
            ◇
大地震の十二日目、東海道藤沢町で久邇宮良子女王殿下の御弟宮で御年十四歳の邦英王殿下が施行の白粥を召上られ尊い教訓を得たと御喜びになつた震災挿話は今になつて伝はつた。
            ◇
藤沢町は最初の一揺で殆ど全町大損害を蒙つたが夫れでも、東京横浜辺から徒歩で西下避難する人々を救済すべく町内では挙つて炊き出しをしてゐた。久邇宮第三王子邦英王殿下は、箱根富士屋ホテルに御滞在中御遭難遊ばされ一時沼津牛臥三島旅館に御避難の上、十二日、漸く東京へ御帰りになるべく、両三名の御伴を連れて、煤けた山籠に召され其の日の昼時に藤沢警察署隣の国府屋旅館前を御通過になつたが同旅館の店先で西に行く避難者に白粥を炊き出して与へてゐるのを御覧になり『アレを一椀欲しい。』と仰せられたので直ちに貴賤おしなべて危機窮乏に困苦を告げて居るときでもあり、御付の人々も御止め申し兼ねて、同旅館主人小川鐵五郎に囁いた。
            ◇
鐵五郎は一度驚いたが衛生上心配のない炊きたてなので古茶碗のなるたけかけの少いのを選つて井水を注ぎ、釜の中の真中のところを掬つて差上げた処、殿下には御代りを御所望になつて二椀まで召上られ、お付の人を顧みられて『今までこんなおいしい物を食べたことがない。本当によい学問をした』と仰せられた。
            ◇
其処へ国府屋の七歳になる腕白が駈けて行つて『君は怪我をしなかつた?』と尋ねたところ、殿下は『有難う御蔭で無事だつたよ。そしてお腹もよくなつた。みなさんによろしく。』と仰せられた。御いたはしさに涙の目を以て御見送してゐる町民に一々御会釈されつゝ東へ籠を急がせられた。(東京電話)
 
【戰時下、皇族以上に多くの物資の配給を受ける】
戰時中における物資窮乏の状況のもとで、皇族以上に多くの物資の配給を受けていた。
『宣仁親王日記』第十六册卷末(『高松宮日記』第七巻(中央公論社、一九九七年七月)三二五頁
(三−三【昭和十九年三月三日】) 其後文部省カラ、インチキナ得度デハ許サヌ旨、宗務當局者ニ強ク話シタリ處、止メトナル。東伏見伯モ斷念シタトカ。ソレニツケテモ星島ハ磯子ニ常住シ、特別ノ配給トシテ白米・玉子・肉等ヲ警察、ソレガ受ケナクナツタノデ經濟部カラ受ケテ、而モ代金払ハズ、伯ハ月ノ半分ハ京都ナノヲ、全一月分トツテ何ントカ云フト皇族出ヲ振リマワシ、量モ皇族以上トカ。近藤知事【神奈川縣】モ警察ニ出スナト云ツテ止マツタト思ツテ知ラズニヰタリ。笑話以上ナリト。
 
工事中 【著述等】

東伏見慈洽・横山健蔵『京の古寺から27 青蓮院』(京都、淡交社、一九九八年七月)
 
【文献等】
『皇室制度史料 皇族三』 三二一・三二二頁
平成新修 旧華族家系大成 下巻』 三九〇頁
昭和新修 華族家系大成 下巻』 三六二頁
宮尾貞子『善光寺 ──宗門の堕落とその改革──』(京都・東京、三一書房、一九五九年九月)、六〇〜六二頁、九三〜一一八頁
「日本の名家『旧宮家はいま』5」久邇家(『週刊読売』一九八八年六月十二日、一五一〜一五二頁)
「日本の名家『旧宮家はいま』5」東伏見家(『週刊読売』一九八八年六月十二日、一五五〜一五七頁)


 
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公開日時: 2014.01.03.

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