東伏見慈洽
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邦彦王妃 島津忠義の七女。 |
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明治四十三年(一九一〇)五月十六日、誕生。
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邦英王 | |||||||||
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明治四十三年(一九一〇)五月二十二日、「邦英(クニヒデ)」と命名される。
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大正八年(一九一九)十月二十六日、依仁親王[東伏見宮]の繼嗣となり、御預りの形を以て、東伏見宮邸に入家。
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學習院大學から京都帝國大學に進む。 | ||||||||
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昭和六年(一九三一)三月三十一日、臣籍降下を前に、賢所・皇靈殿・~殿を參拜、ついで朝見の儀を濟ませる。
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東伏見邦英(伯爵) | |||||||||
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昭和六年(一九三一)四月四日、臣籍降下、「東伏見(ひがしふしみ)」の家名を賜わり、東伏見宮の祭祀を繼承。伯爵を授けられ、從四位に敍される。
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昭和九年(一九三四)、京都帝國大學文學部國史科を卒業。 | ||||||||
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昭和十二年(一九三七)五月五日、久邇宮家にて、龜井茲常の二女 保子と結婚。媒酌は島津忠重・伊楚子。
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昭和十四年(一九三九)、京都帝國大學講師(昭和二十二年(一九四七)まで)。 | ||||||||
東伏見慈洽(伯爵) | |||||||||
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昭和二十年(一九四五)七月二十七日、得度。法名「慈洽(じごう)」。改名。 | ||||||||
東伏見慈洽 | |||||||||
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昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(伯爵)の身位を喪失する。 | ||||||||
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昭和二十七年(一九五二)、權律師から少僧都となる。
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昭和二十七年(一九五二)四月二十三日、善光寺大勸進住職となり、晋山式が行われる。
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昭和二十八年(一九五三)三月、蓮院門跡となる。善光寺大勸進住職は兼帶。 | ||||||||
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昭和三十一年(一九五六)、「飛鳥時代の藝術の研究」で文學博士(京都大學)の學位を取得。その後、權大僧正に昇進。 | ||||||||
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昭和三十四年(一九五九)五月三十一日、善光寺大勸進住職を退き、善光寺大勸進名譽住職となる。 | ||||||||
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昭和五十八年(一九八三)、京都市佛教會會長となる。 | ||||||||
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平成十六年(二〇〇四)二月五日、蓮院門跡の門主を退任し、名譽門主に就任する。九十三歳。 | ||||||||
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平成二十六年(二〇一四)一月一日午前四時二十五分、慢性心不全で死去。百三歳。 |
龜井茲常の二女。 大正七年(一九一八)五月十二日生。 平成二十一年(二〇〇九)九月二十九日死去。九十一歳。 |
東伏見邦英の一女 |
東伏見邦英の一男 |
東伏見邦英の二男 平成六年(一九九四)、蓮院門跡の執事長に就任。 平成十三年(二〇〇一)、蓮院門跡の副住職に就任。
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東伏見慈洽の三男 |
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ピアノに堪能であった。その演奏の録音は、CD『ロームミュージックファンデーションSPレコード復刻CD集 日本SP名盤復刻選集U』(原盤SP、日本ポリドール1201〜3)に收録されている、F.J.ハイドンのピアノ協奏曲 ニ長調 作品21番 Hob.XVIII-11(1784年)── 日本人の演奏による最初の、かつ、戰前唯一の、協奏曲全楽章録音 ── で聽くことができる。そのCDの解説26〜27頁に、次のように記されている。
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臣籍降下の際、東伏見宮家は、より高い爵位を願った。また、同時に、皇族の養子を解禁すべく皇室典範の改訂も議された。
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東京帝國大學への入學を勅命によって阻止されたと考え、また、自らの爵位が伯爵であることに不滿を抱いていた。
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京都帝國大學への入學を辭退すると言い出して、宮内省を困惑させた。
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京都大學にて在學中、所謂「赤化華族」たちからの獲得の對象と見做された。
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昭和十八年(一九四三)五月八日の皇族會議では、東伏見邦英の天台宗管長就任問題について議された。
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善光寺大勸進住職に在職したものの、善光寺を留守にしているのが常態であった。
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姉 大谷智子の嫁ぎ先である東本願寺の、混亂を極めた紛爭 ── 所謂「お東騒動」── に於いて、仲介をすることが叶わなかった。
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昭和五十八年(一九八三)に京都市が導入した「古都保存協力税」に對し、京都市佛教會會長として反對の先頭に立ち、同税の施行阻止・廢止に成功した。 | |||||||||
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京都の景觀を守るために、JR京都駅ビル建設、京都ホテル(現、京都ホテルオークラ)高層化に反對した。 |
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藤沢市教育文化センター編集『藤沢市教育史 史料編 別巻』(藤沢市教育委員会、二〇〇四年三月)所收『震災誌』「坂戸親交会の活躍」八五七頁上〜八五八頁下に、次のように記されている。
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戰時中における物資窮乏の状況のもとで、皇族以上に多くの物資の配給を受けていた。
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東伏見慈洽・横山健蔵『京の古寺から27 青蓮院』(京都、淡交社、一九九八年七月) |
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『皇室制度史料 皇族三』 三二一・三二二頁 |
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『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 三九〇頁 |
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『昭和新修 華族家系大成 下巻』 三六二頁 |
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宮尾貞子『善光寺 ──宗門の堕落とその改革──』(京都・東京、三一書房、一九五九年九月)、六〇〜六二頁、九三〜一一八頁 |
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「日本の名家『旧宮家はいま』5」久邇家(『週刊読売』一九八八年六月十二日、一五一〜一五二頁) |
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「日本の名家『旧宮家はいま』5」東伏見家(『週刊読売』一九八八年六月十二日、一五五〜一五七頁) |
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