● |
大正六年(一九一七)秋、邦彦王の長女 良子女王が、皇太子(裕仁親王)妃の第一の候補として擧げられる。
|
● |
大正七年(一九一八)一月十四日、波多野敬直宮内大臣が、第十五師團長として豐橋に在勤中の邦彦王のもとに、良子女王が皇太子妃として選ばれた旨を傳達した。このとき、邦彦王は、久邇宮家に邦彦王妃俔子を通じて色盲の血統があるということをも理由に、辭退したが、宮内大臣の懇望により、内約を承諾した、という。
|
● |
大正八年(一九一九)六月十日、裕仁親王[皇太子]と良子女王との婚約が宮内省から發表された。
|
● |
學習院囑託醫が、朝融王・邦英王の色弱が、邦彦王妃俔子の實家である島津家から遺傳していることを、醫學雜誌に發表した。色盲はメンデルの學説どおり遺傳するとの報告を協議した山縣有朋(元老。樞密院議長)、松方正義(元老。内大臣)、西園寺公望(元老)は、久邇宮家へ婚約を自發的に辭退するよう求めた。
|
● |
これを邦彦王は拒絶。波多野敬直宮内大臣は、山縣有朋の「やめろ」の一言で退任、代わって、長州閥の中村雄次郎が宮内大臣となった。
|
● |
山縣有朋、總理大臣原敬、宮内大臣中村雄次郎は、協議して、博恭王[伏見宮]をして、皇室のことは隱便に解決すべきであり、久邇宮家から婚約を辭退するのが至當である、と説得させた。
|
● |
これに對し、久邇宮家の栗田宮務監督(陸軍中將)は、「綸言汗の如し」として、婚約破棄は社會道徳上から從い難い、と山縣有朋に正面切って反對した。邦彦王自身も、山縣有朋と天皇家に書簡を送った。
|
● |
山縣有朋は、久邇宮家に不利な東大五教授の遺傳調査報告書を楯に、あくまでも婚約破棄を求め、樞密顧問官の都築馨六男爵を久邇宮家に派遣、強硬に久邇宮家の婚約辭退を要求した。事態が深刻化したため、中村雄次郎宮内大臣は獨斷で破約の書類を作成、決裁を經てしまったが、この事實は極秘に伏せられた。
|
● |
かくて、邦彦王は大いに憤慨し、天皇家と山縣有朋に對し、あらためて書簡を送り、破約に反對した。同時に、松岡均平男爵を山縣有朋のもとに派遣して、天皇家から直々の破約の「御諚」があれば破約を受け入れる、と表明した。(天皇家から良子を皇太子妃として所望したのであるから、天皇家の方で婚約を解消するべきであると主張、さらに、そのような場合、邦彦王は良子女王を刺殺した後、自身と自身の家系に加えられた屈辱のために切腹する、とまで放言)。
|
● |
良子女王に倫理學を講じていた杉浦重剛は、門人一同をはじめ右翼團體をも動員して、猛烈な反山縣運動を展開した。ここに、皇太子婚約問題は、宮中をめぐる長州派(元老)と薩州派(久邇宮家を支持)の勢力爭いから社会・政治問題にまで發展し、事態は大いに紛糾した。
|
● |
結局、皇后節子(貞明皇后。邦彦王の行動に不快感を持ち、かつ、本心では婚約に反對であった)により婚約破棄の意圖なきことが明言され、大正十年(一九二一)二月十日、宮内省は皇太子婚約に變更なきことが發表され、事態は落着した。
※ |
永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」
|
※ |
『牧野伸顯日記』大正十年五月九日
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十年七月五日頃
|
※ |
『牧野伸顯日記』大正十年九月六日
|
※ |
『牧野伸顯日記』大正十年十月二十八日〜十一月二日
|
※ |
『牧野伸顯日記』大正十一年五月十六日
|
※ |
『牧野伸顯日記』大正十一年五月二十九日
|
※ |
『牧野伸顯日記』大正十一年六月九日
|
※ |
『牧野伸顯日記』大正十一年六月十四日〜二十一日
|
◎ |
『原敬日記』五
|
◎ |
『現代史資料』四「宮中重大事件に就て」
|
※ |
鳥海靖「きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん 宮中某重大事件」(『國史大辭典』第四巻(一九八四年二月第一版、吉川弘文館)、二四三頁)
|
※ |
藤樫準二『千代田城 宮廷記者四十年の記録』(光文社。昭和三十三年(一九五八)十一月) 二八〜三一頁「東宮妃にからむ“某重大事件”の真相」
|
|
● |
久邇宮家側の反長州感情は、後年に至ってもなお續いていた。昭和五十五年頃、東伏見慈洽は、山縣有朋らの「激しい呪咀があったので、皇后さま【良子】のお子は四人までは皇女しか生まれないことになっていた」と語った、という。
※ |
渡辺みどり『美智子皇后の「いのちの旅」』(文藝春秋。一九九一年二月) 一三三〜一三四頁
|
|
● |
なお、皇太子裕仁親王自身は、實際には、邦彦王が婚約を辭退するべきであるとの考えであったようである。
|