久邇宮邦彦王


前頁 「 邦 [邦憲]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[邦彦]

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邦彦王 くによし
 
 久邇宮(二) くにのみや
 
 もと
世志麿王 よしまろ

 
【幼稱】
 「世志宮」 よしのみや
 
【出自】
 朝彦親王[久邇宮]の三男。
 
【生母】
 泉亭萬喜子
 泉亭萬喜 マキ
 家女房
 下鴨~社(賀茂御祖~社)禰宜 泉亭俊彦の一女。
丹波國園部小出信濃守
 從二位
  泉亭俊u
   │   御祖~社禰宜
   ├─── 泉亭俊彦
   │     │
   タヅ     │
 一條殿近習   ├───泉亭萬喜
 立川主殿の女  │
         │
 京都府士族   │
  吉澤光齋の女 ヒサ
 嘉永三年(一八五〇)十月二十九日生。
 明治十四年(一八八一)九月二十四日歿。
 
【經歴】
明治六年(一八七三)七月二十三日、誕生。
「世志宮」
明治六年(一八七三)七月二十九日、「世志宮」(よしのみや)と稱される。
世志麿王
明治七年(一八七四)三月十五日、「世志麿(よしまろ)」と命名。
邦彦王
明治十九年(一八八六)七月十七日/二十一日、「邦彦(くによし)」と改名。
邦彦王[久邇宮繼嗣]
明治二十年(一八八七)三月七日、朝彦親王の繼嗣に定められることが勅許された。
朝彦親王[久邇宮]が「二代皇族」に列された(明治十六年七月)後、朝彦親王の二男 邦憲王が繼嗣となるべきところ、邦憲王が病身であったため、邦彦王が久邇宮繼嗣となった。
『皇親録』明治三十三年
明治二十一年(一八八八)十一月八日、東京に於いて修學することを仰せつけられる。
明治二十二年(一八八九)一月、學習院へ通學。
明治二十三年(一八九〇)四月五日、成城學校に入學(五月十二日より、通學)。
明治二十三年(一八九〇)四月十八日、四谷傳馬町新一町目に移る。
内閣記録局編『法規分類大全』第七十五巻 宮廷門 儀制門 族爵門、二七頁
 官報抄録 二十三年四月十九日
邦彦王殿下ハ兼テ伏見宮ヘ寄留ノ處昨十八日四谷區四谷傳馬町新一町目二十一番地ヘ移轉當分同所ニ居住相成ル筈ナリ
邦彦王[久邇宮]
明治二十四年(一八九一)十月、久邇宮を繼承。
明治二十六年(一八九三)八月三十日、成城學校を卒業。
明治二十六年(一八九三)十一月三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
明治二十六年(一八九三)十二月一日、士官候補生として陸軍第三師團歩兵第五旅團第六聯隊(第九中隊)に入隊。
明治二十七年(一八九四)十一月一日、陸軍士官學校へ入校。
明治二十九年(一八九六)五月二十七日、陸軍士官學校を卒業。
明治三十年(一八九七)一月二十五日、陸軍歩兵少尉に任じられる。同日、歩兵第六聯隊附に補される。
明治三十二年(一八九九)二月十一日、陸軍歩兵中尉に任じられる。
明治三十二年(一八九九)十月六日、公爵島津忠重の姉 俔子との結婚の儀が勅許される。
明治三十二年(一八九九)十二月十三日、陸軍大學校に入校。
同日、島津俔子と結婚。
明治三十四年(一九〇一)三月二十一日、陸軍歩兵大尉に任じられる。同日、歩兵第六聯隊中隊長に補される。
明治三十五年(一九〇二)十一月二十七日、本職を免じられ、近衞歩兵第三聯隊附に補される。
明治三十五年(一九〇二)十一月二十八日、陸軍大學校を卒業。
明治三十六年(一九〇三)十一月三日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
明治三十六年(一九〇三)十一月十八日、近衞歩兵第三聯隊附を免じられ、參謀本部出仕を仰せ付けられる。
明治三十七年(一九〇四)二月二十日、日露戰爭に出征。
明治三十七年(一九〇四)二月二十一日、參謀本部部員となる。
明治三十七年(一九〇四)十一月二十三日、陸軍歩兵少佐に任じられる。
明治三十八年(一九〇五)十二月九日、日露戰爭より凱旋。
明治三十九年(一九〇六)四月一日、明治三十七八年戰役の功に依り、功四級に敍され、金鵄勲章を授けられ、年金五百圓を授けられる。
明治四十年(一九〇七)三月二十五日、見學のため歐洲へ差遣される旨の沙汰があった。
明治四十年(一九〇七)四月三日、渡歐。
明治四十年(一九〇七)三月二十九日付で本職を免じられる。
明治四十一年(一九〇八)一月二十八日、スペイン國皇室を訪問するためスペインへ差遣される旨の沙汰があった。
明治四十一年(一九〇八)四月一日、陸軍歩兵中佐に任じられる。
明治三十九年(一九〇六)四月一日付で、明治三十七八年戰役從軍記章を授與される。
明治四十二年(一九〇九)十月三十日、俔子妃と共に歐洲より歸朝。
明治四十三年(一九一〇)五月十八日、歩兵第三十八聯隊附に補される。
明治四十三年(一九一〇)十二月一日、陸軍歩兵大佐に任じられる。同日、歩兵第三十八聯隊長に補される。
大正二年(一九一三)八月三十一日、陸軍少將に任じられる。同日、近衞歩兵第一旅團長に補される。
大正四年(一九一五)十一月四日、臨時~宮祭主を兼任。
大正四年(一九一五)十一月三十日、兼官(臨時~宮祭主)を免じられる。
大正六年(一九一七)八月六日、陸軍中將に任じられる。同日、第十五師團長に補される。
大正四年(一九一五)十一月十日付で、大禮記念章を授與される。
大正七年(一九一八)八月九日、本職を免じられ、近衞師團長に補される。
大正八年(一九一九)十一月二十五日、本職を免じられ、軍事參議官に補される。
大正十二年(一九二三)八月六日、陸軍大將に任じられる。
昭和四年(一九二九)一月二十七日、元帥府に列せられ、特に元帥の稱號を賜わる。同日、菊花章頸飾を授けられる。同日、靜岡縣熱海の別邸に於いて薨去。
昭和四年(一九二九)二月二日、誄を賜わる。
昭和四年(一九二九)二月三日、豐島岡に葬られる。
昭和三年(一九二八)十一月十日付で、大禮記念章を授與される。
 
【配偶】
 俔子
 邦彦王妃
 のち久邇俔子 くに ちかこ
 島津忠義[鹿児島](公爵)の七女。
 明治十二年(一八七九)十月十九日生。
 明治三十三年(一九〇〇)二月十日、勲二等に敍され、寶冠章を授けられる。
 明治三十九年(一九〇六)四月一日付で、明治三十七八年戰役從軍記章を授與される。
 明治四十二年(一九〇九)三月二十四日、渡歐。
 明治四十二年(一九〇九)十月三十日、邦彦王と共に歐洲より歸朝。
 明治四十三年(一九一〇)二月十一日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
 大正四年(一九一五)十一月十日付で、大禮記念章を授與される。
 昭和三年(一九二八)十一月十日付で、大禮記念章を授與される。
 昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
 昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十四條第一項の規定により、皇族の身分を離れる
 ◎『官報』昭和二十二年十月十四日告示、宮内府告示第十七號
 昭和三十一年(一九五六)九月九日、歿。
 
【子女】
朝融王  のち久邇朝融
邦久王  のち久邇邦久(侯爵)
良子女王 のち良子(昭和天皇の皇后) 香淳皇后
信子女王 のち三條西信子
智子女王 のち大谷智子
邦英王  のち東伏見邦英(伯爵) 東伏見慈洽[青蓮院門跡]
 
【逸事等】
幼少の時、少々吃音であった。
『子爵日野西資博第一囘談話速記』宮内廳書陵部所藏[圖書寮 66981/1/1064]9葉ウ〜10葉オ(『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』第一巻(ゆまに書房、平成十五年(二〇〇三)四月231352頁所收256257頁)
久邇宮邦彦王、此宮樣ノ事モ大層御心遣ヒガゴザイマシタ、御承知デモゴザイマセウガ、此宮樣ハ將來軍人ニスル思召デゴザイマシタ所ガ、御承知ノ通リ御幼少ノ時分ニ少シ御吃リデゴザイマシテ、大變御言葉ガ御難カシカツタノデアリマス、ソレヲ 陛下ガ大層御心配デ、成城學校ニ御在學中ハ、殆ド一週間ニ一遍位、北條侍從ヲ御遣シニナリマシテ、其成績ヲ御調ベニナリ、又御發音ノ御樣子ヲ御聽カセニナツテ居リマシタ、段々御吃リモ御癒リニナツタノデ御安心遊バシタヤウデアリマス、
『子爵日野西資博氏第一回談話速記』(『明治天皇の御日常』一三〜一四頁)
久邇宮邦彦王、此宮樣の事も大層御心遣ひがございました。御承知でもございませうが、此宮樣は將來軍人にする思召でございました所が、御承知の通り御幼少の時分に少し御吃りでございまして、大變御言葉が御難かしかつたのであります。それを 陛下が大層御心配で、成城學校に御在學中は殆ど一週間に一遍位、北條侍從【氏恭】を御遣しになりまして、其成績を御調べになり、又御發音の御樣子を御聽かせになつて居りました。段々御吃りも御癒りになつたので御安心遊ばしたやうであります。
幼少の頃から、身體が小さく肥滿していた。よって、軍人になって乘馬に困るであろうと明治天皇が非常に心配した。邦彦王が軍人になると、明治天皇は、邦彦王に「適當なやうな馬」を貸與した。
『子爵日野西資博第一囘談話速記』宮内廳書陵部所藏[圖書寮 66981/1/106410葉オ(『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』第一巻(ゆまに書房、平成十五年(二〇〇三)四月231352頁所收257頁)
又一ツハ御身體ガ御小サウテ圓々ト肥ツテ居ラレマスカラ、軍人ニナツテモ馬ニ乘ルノニ困ルデアラウト大層御心配ニナリ、後ニ軍人ニナラレマシテ御乘馬ニナルト云フ時ニ、特ニ宮樣ニ適當ナヤウナ馬ヲ御貸シニナリマシタ、サウ云フヤウナ事迄モ御心配ニナツタヤウデアリマス、
『子爵日野西資博氏第一回談話速記』(『明治天皇の御日常』一四頁)
又一つは御身體が御小さうて圓々と肥つて居られますから、軍人になつても馬に乘るのに困るであらうと大層御心配になり、後に軍人になられまして御乘馬になると云ふ時に、特に宮樣に適當なやうな馬を御貸しになりました。さう云ふやうな事迄も御心配になつたやうであります。
細川家との婚約を解消。その際に、久邇宮家側は、新聞を使って細川家に對する中傷を行ない、問題となっている。このことについて、西園寺公望は、「兎角久邇宮家は問題を起す家にて、細川家の話ありし時抔も久邇宮家より萬朝報の黒岩周六を使ひ細川家の無き事を新聞紙上にて攻撃せしめ、細川の舊臣は黒岩に決鬪を申込み、遂に黒岩は新聞紙上に取消を爲したりとの説もあり、誠に困ったものである」、と語っている。
『松本剛吉日記』(永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」所引
 
【良子女王の皇太子妃册定と「宮中某大事件」】
大正六年(一九一七)秋、邦彦王の長女 良子女王が、皇太子(裕仁親王)妃の第一の候補として擧げられる。
大正七年(一九一八)一月十四日、波多野敬直宮内大臣が、第十五師團長として豐橋に在勤中の邦彦王のもとに、良子女王が皇太子妃として選ばれた旨を傳達した。このとき、邦彦王は、久邇宮家に邦彦王妃俔子を通じて色盲の血統があるということをも理由に、辭退したが、宮内大臣の懇望により、内約を承諾した、という。
大正八年(一九一九)六月十日、裕仁親王[皇太子]と良子女王との婚約が宮内省から發表された。
學習院囑託醫が、朝融王・邦英王の色弱が、邦彦王妃俔子の實家である島津家から遺傳していることを、醫學雜誌に發表した。色盲はメンデルの學説どおり遺傳するとの報告を協議した山縣有朋(元老。樞密院議長)、松方正義(元老。内大臣)、西園寺公望(元老)は、久邇宮家へ婚約を自發的に辭退するよう求めた。
これを邦彦王は拒絶。波多野敬直宮内大臣は、山縣有朋の「やめろ」の一言で退任、代わって、長州閥の中村雄次郎が宮内大臣となった。
山縣有朋、總理大臣原敬、宮内大臣中村雄次郎は、協議して、博恭王[伏見宮]をして、皇室のことは隱便に解決すべきであり、久邇宮家から婚約を辭退するのが至當である、と説得させた。
これに對し、久邇宮家の栗田宮務監督(陸軍中將)は、「綸言汗の如し」として、婚約破棄は社會道徳上から從い難い、と山縣有朋に正面切って反對した。邦彦王自身も、山縣有朋と天皇家に書簡を送った。
山縣有朋は、久邇宮家に不利な東大五教授の遺傳調査報告書を楯に、あくまでも婚約破棄を求め、樞密顧問官の都築馨六男爵を久邇宮家に派遣、強硬に久邇宮家の婚約辭退を要求した。事態が深刻化したため、中村雄次郎宮内大臣は獨斷で破約の書類を作成、決裁を經てしまったが、この事實は極秘に伏せられた。
かくて、邦彦王は大いに憤慨し、天皇家と山縣有朋に對し、あらためて書簡を送り、破約に反對した。同時に、松岡均平男爵を山縣有朋のもとに派遣して、天皇家から直々の破約の「御諚」があれば破約を受け入れる、と表明した。(天皇家から良子を皇太子妃として所望したのであるから、天皇家の方で婚約を解消するべきであると主張、さらに、そのような場合、邦彦王は良子女王を刺殺した後、自身と自身の家系に加えられた屈辱のために切腹する、とまで放言)。
良子女王に倫理學を講じていた杉浦重剛は、門人一同をはじめ右翼團體をも動員して、猛烈な反山縣運動を展開した。ここに、皇太子婚約問題は、宮中をめぐる長州派(元老)と薩州派(久邇宮家を支持)の勢力爭いから社会・政治問題にまで發展し、事態は大いに紛糾した。
結局、皇后節子(貞明皇后。邦彦王の行動に不快感を持ち、かつ、本心では婚約に反對であった)により婚約破棄の意圖なきことが明言され、大正十年(一九二一)二月十日、宮内省は皇太子婚約に變更なきことが發表され、事態は落着した。
永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」
『牧野伸顯日記』大正十年五月九日
『牧野伸顯日記』大正十年七月五日頃
『牧野伸顯日記』大正十年九月六日
『牧野伸顯日記』大正十年十月二十八日〜十一月二日
『牧野伸顯日記』大正十一年五月十六日
『牧野伸顯日記』大正十一年五月二十九日
『牧野伸顯日記』大正十一年六月九日
『牧野伸顯日記』大正十一年六月十四日〜二十一日
『原敬日記』五
『現代史資料』四「宮中重大事件に就て」
鳥海靖「きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん 宮中某重大事件」(『國史大辭典』第四巻(一九八四年二月第一版、吉川弘文館)、二四三頁)
藤樫準二『千代田城 宮廷記者四十年の記録』(光文社。昭和三十三年(一九五八)十一月) 二八〜三一頁「東宮妃にからむ“某重大事件”の真相」
久邇宮家側の反長州感情は、後年に至ってもなお續いていた。昭和五十五年頃、東伏見慈洽は、山縣有朋らの「激しい呪咀があったので、皇后さま【良子】のお子は四人までは皇女しか生まれないことになっていた」と語った、という。
渡辺みどり『美智子皇后の「いのちの旅」』(文藝春秋。一九九一年二月) 一三三〜一三四頁
なお、皇太子裕仁親王自身は、實際には、邦彦王が婚約を辭退するべきであるとの考えであったようである。
『牧野伸顯日記』大正十年五月十四日
 
【文獻等】
『邦彦王行實』(久邇宮藏版。昭和十四年(一九三九)八月)
『故總裁宮殿下奉悼集』(聖徳太子奉讚會、昭和四年(一九二九)五月)
『皇室制度史料 皇族四』 二三二〜二三四頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三七頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 三一頁
永井和『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(京都大学学術出版会、二〇〇三年七月)第二章「摂政、久邇宮を訓戒する」(一二三〜一七二頁)。初出、永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」(『立命館文学』五四二号、一九九五年十二月)、永井和「補論・久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」(『日本思想史研究会会報』二〇号、二〇〇三年一月)
佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書1911)(講談社、二〇〇七年十月) 三二〜八四頁
浅見雅男『闘う皇族 ある宮家の三代』(角川選書380)(角川書店、平成十七年(二〇〇五)十月)
佐藤朝泰「久邇家==薩長藩閥政治に巻き込まれた良子皇后の生家」(佐藤朝泰『門閥 ── 旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、四八〜五七頁)


 
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更新日時: 2021.06.30.
公開日時: 2015.04.23.


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