賀陽宮邦憲王


前頁 「 邦 [邦兼A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[邦憲]

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邦憲王 くにのり
 賀陽宮(一) かやのみや
 もと
巖麿王 いはまろ
 
【幼稱】
 「巖宮」 いはのみや
 ※「磐宮」とも書かれた。
 
【出自】
 朝彦親王[賀陽宮 のち久邇宮]の二男。
 
【生母】
 泉亭靜枝子(泉亭静枝)
 家女房
 泉亭俊u[賀茂御祖~社(下鴨~社)禰宜]の二女。
 ※『系圖綜覽』所收『皇室系譜』「賀陽宮」一〇〇頁
 
【經歴】
慶應三年(一八六七)五月二十九日、誕生。表向きは六月一日誕生と披露。
『朝彦親王日記』慶應三年五月廿九日壬午
『朝彦親王日記』慶應三年六月朔日癸未
慶應三年六月一日は、太陽暦で一八六七年七月二日。
「巖宮」
慶應三年(一八六七)六月五日、「巖(伊伴)宮」(いはのみや)と稱される。
『朝彦親王日記』慶應三年六月三日乙酉
『朝彦親王日記』慶應三年六月五日丁亥
慶應三年(一八六七)六月七日、七夜。
『朝彦親王日記』慶應三年六月七日己丑
朝彦親王の失脚により、慶應四年(一八六八)八月十六日、邦家親王[伏見宮]へ預けられるべき旨の沙汰を拜し、十七日、賀陽宮邸より伏見宮邸へ移居。
『伏見宮日記』慶應四年八月十六日
『伏見宮日記』慶應四年八月十七日
『太政官日誌』慶應四年第五十八號
明治二年(一八六九)五月十八日、朝彦王の居地 安藝國廣島に向けて京都を出立。大坂から蒸氣船に乘り、廣島に到る。
『伏見宮日記』明治二年五月十八日
『伏見宮日記』明治二年五月十九日
『伏見宮日記』明治二年五月廿二日
明治三年(一八七〇)十一月二十三日、歸洛のため、朝彦王等と共に安藝國廣島を出立。十二月五日、歸洛。
『伏見宮日記』明治三年十二月四日
『伏見宮日記』明治三年十二月五日
巖麿王
明治七年(一八七四)三月十五日、「巖麿(いはまろ)」と命名される。
明治十五年(一八八二)一月十六日、伊勢へ向かうために京都を出立。十八日、三重縣宇治に到着。
明治十五年(一八八二)十一月二十八日、京都に歸る。十二月十九日、三重縣宇治に戻る。
明治十五年(一八八二)十月二十七日、~宮ヘ院總裁就任が聽許される。
明治十六年(一八八三)四月二十八日、~宮皇學館に入學。
明治十七年(一八八四)四月十五日、~宮ヘ院總裁を辭退。
邦憲王
明治十九年(一八八六)七月二十一日、「邦憲(クニノリ)」と改名。
朝彦親王[久邇宮]が「二代皇族」に列された(明治十六年七月)後、朝彦親王の二男 邦憲王が繼嗣となるべきところ、邦憲王が病身であったため、明治二十年(一八八七)三月七日、朝彦親王の三男 邦彦王が久邇宮繼嗣になった(勅許)。
『皇親録』明治三十三年
明治二十四年(一八九一)一月三十一日、~宮皇學舘を退學。
明治二十五年(一八九二)二月三日、京都久邇宮邸に戻る。
明治二十五年(一八九二)十一月十六日、醍醐好子(公爵醍醐忠順の一女)との結婚が勅許。
明治二十五年(一八九二)十一月二十六日、醍醐好子と結婚。京都に在住。
『官報(號外)』明治二十五年十一月二十六日 告示「宮内省告示第十二號」
邦憲王殿下今二十六日公爵醍醐忠順長女醍醐好子ト結婚セラル
 明治二十五年十一月二十六日    宮内大臣 子爵土方久元
『皇室制度史料 皇族四』二三一頁
『皇親録』明治二十五年
邦憲王殿下今般從一位侯爵醍醐忠順長女好子ト御結婚之上、京都ニ御別住可相成ニ付テハ、宮御稱號之義ハ自今賀陽宮ト被稱度候間、御聽許相成候樣御執奏被成下度、此段奉願候也。
  明治二十五年十一月廿一日    久邇宮家令丹羽龍之助(印寫)
   宮内大臣子爵土方久元殿
『皇室制度史料 皇族四』二三一頁
邦憲王[賀陽宮]
明治二十五年(一八九二)十二月十六日、「賀陽宮(かやのみや)」の稱號を賜わる。
『皇親録』明治二十五年
『官報』明治二十五年十二月十七日 宮廷録事
稱號 邦憲王殿下ハ自今賀陽カヤ宮ト稱セラル
『皇室制度史料 皇族四』 二三一〜二三二頁
明治二十六年(一八九三)十一月三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
明治二十八年(一八九五)二月十日、~宮祭主(五)に任じられる。
明治二十九年(一八九六)三月二十九日、~宮皇學館總裁となる。
明治三十三年(一九〇〇)五月八日、王家に列せられ、新たに一戸を創立(賀陽宮家創設)。
『皇親録』明治三十三年
一、賀陽宮一戸創立(并)御賄料増賜ノ件
右謹仰勅裁。
  明治三十三年五月八日
「【朱印寫】可」       宮内大臣田中光顯(印寫)
    ────────────
立案明治卅三年五月五日 内事課長(花押寫)  内事課次長(印寫)
決裁明治  年 月 日
 大臣(印寫)     調査課長(花押寫)
   次官(印寫)   内藏頭(花押寫)
久邇宮故朝彦親王ハ二代皇族ニ被爲在タルニ依リ、皇室典範發布ノ前年、二男邦憲王病身ノ故ヲ以テ、別紙參照ノ通リ御出願、三男邦彦王ヲ御繼嗣ニ被定候次第ニ有之候處、朝彦親王薨去後、邦憲王御健康ニ被爲復、明治廿五年醍醐忠順長女好子ト御結婚、同廿六年十一月勲一等ニ敍セラ[レ]、同廿八年二月神宮祭主ニ御任官、爾來御勤續被爲在候義ニ付、若シ廿四年以前御健康ニ被爲復候ハヽ、朝彦親王薨去ノ節、久邇宮御家督御相續可相成筋ニ候得共、邦彦王家督御相續ノ今日ニ在テハ、復如何トモスヘカラズ、且ツ他宮方ニ於テ御同樣ノ境遇ニ被爲在候御方ハ一切無之、就テハ御情状御酌量被爲在、特別御詮議相成、賀陽宮ノ御稱號ヲ以テ、此際別ニ一家ヲ被爲立、久邇宮御同樣自今御賄料金貳萬四千圓御賜與可相成哉。此段相伺候也。
    ────────────
「【朱書】參照」
弊家繼嗣之儀未定ニ有之。付而者二男邦憲家系相續可爲致順序ニ有之候處、病身ニ罷在、不得止三男邦彦ヲ以テ繼嗣ト相定メ度、此段御許容相成候樣宜敷御取計相願候也。
  明治二十年二月十四日
           二品朝彦親王
   宮内大臣伯爵伊藤博文殿
今般邦彦王ヲ以テ其宮繼嗣ト御定メ相成度旨、御願出之趣被聞食候條、此段申進候也。
  三月七日
           宮内大臣
   二品朝彦親王
『皇室制度史料 皇族四』 三六〇〜三六一頁
『皇室制度史料 皇族四』 二三二〜二三四頁
明治三十六年(一九〇三)八月二十九日、~宮皇學館官制が制定され、~宮皇學館總裁は廢止される。
明治三十六年(一九〇三)十一月三日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
明治三十八年(一九〇五)四月十三日、向陽會總裁と成る。
明治四十二年(一九〇九)十二月八日、薨去。四十三歳。
京都市泉涌寺に葬られる。
 
【配偶】
 好子[邦憲王妃] よしこ
 醍醐忠順の一女。
 慶應元年(一八六五)十月二十日、誕生。
 明治二十五年(一八九二)十一月二十六日、結婚。
 明治二十八年(一八九五)十二月十四日、勲二等に敍され、寶冠章を授けられる。
 明治三十九年(一九〇六)十一月三日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
 明治三十九年(一九〇六)四月一日附で、明治三十七八年戰役從軍記章を授與される。
 大正四年(一九一五)十一月十日、大禮記念章を授與される。
 昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。
 昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
 昭和十六年(一九四一)十一月二十六日午前六時三十分、麹町區紀尾井町の假寓に於て薨去。
 昭和十六年(一九四一)十二月四日、京都市泉涌寺に葬られる。
 
【子女】
 ○
由紀子女王 のち町尻由紀子 ゆきこ
 □ 恒憲王   のち賀陽恆憲 つねのり
 ○ 佐紀子女王[武彦王妃] さきこ
 
【逸事】
病身であったため、明治天皇が「大變御心配であり」「洵に親切に御勞りになつた」。
『子爵日野西資博第一囘談話速記』宮内廳書陵部所藏[圖書寮 66981/1/明1064]10葉オ〜11葉オ(『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』第一巻(ゆまに書房、平成十五年(二〇〇三)四月)231〜352頁所收)257〜259頁
『子爵日野西資博氏第一回談話速記』(『明治天皇の御日常』一四〜一五頁)
明治三十三年(一九〇〇)、皇學館總裁邦憲王が下した令旨は、~宮皇學館ヘ育の旨趣を示しており、皇學館大學のヘ育理念となっている、という。
 
【備考】
『旧皇族・華族秘蔵アルバム 日本の肖像 第十一巻 旧皇族・竹田家 旧皇族・北白川家 旧皇族・賀陽家』(監修 大久保利謙。後援、社団法人霞会館。毎日新聞社、一九九〇年九月) 五三頁に肖像寫眞がある。
 
【文獻等】
『皇室制度史料 皇族四』 二三一〜二三四頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三一〜三二頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 二六頁


 
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公開日時: 2015.03.06.

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