もと壬生基綱。壬生基修の四男。町尻量弘(子爵)の養嗣子。
明治二十一年(一八八八)三月三十日生。
侍從武官
軍務局長
昭和十三年(一九三八)六月から中支那派遣軍第二軍參謀長として武漢作戰に當ったが、作戰中の文書紛失により軍務局長を一箇月停職。
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『入江相政日記』昭和十三年十二月二十九日
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飯沼守「町尻君を想う」(『町尻量基追悼録』 四〜七頁) 五頁
私が人事局長になって間もなく町尻君は軍務局長になって(昭和十三年十一月一日付)帰国。その頃町尻君が参謀長だった第二軍で、動員書類紛失問題が持ち上がった。勿論町尻君、全然知らずに帰って寝耳に水ということだが、責任を取らなければならない。第二軍司令部が解散し、東久迩軍司令官宮殿下がご凱旋になったのが十二月二十一日、町尻君が停職になったのが十二月二十九日。この停職処分は、少し重過ぎたかなと今でも思っているが、当時相当慎重に各方面の意見も聞いて決められたのだ。勿論町尻君が軍務局長の要職にあったから幾分重かった事は間違いない。
停職間軍務局長の椅子は空席にして置き十四年一月二十四日復職を内奏、町尻君が出勤したのは一月三十一日だった。そうして中将に昇進する時に、町尻君元来の序列によるグループと同時に進級(序列は大分下ったが)されたのでホッとした。
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小山公利「町尻将軍の思い出」(『町尻量基追悼録』 五七〜五九頁) 五九頁
参謀長から軍務局長にご栄転後、第二軍機密書類紛失事件で、一時免職になられましたが、あれなど全く一信務班のミスでした。
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佛印駐屯軍司令官
陸軍中將
昭和二十年(一九四五)十二月十二日、養父に先立ちて歿。
陸軍の逸材として大いに囑望された。
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有末精三「町尻さんの思い出」(『町尻量基追悼録』 二〜四頁) 三頁
昭和十一年、あの二・二六事件の後で、粛軍を断行し、軍の建直しの元じめとなる軍事課長の人選には、万人誰が選任されるか、過激な人でも困るし、よわい人ではなお困る。軍事課長ともなる人の手腕、識見に就いては問題外、決定的の一流人たることは勿論と、皆が待望もし心配もしておりましたところ、町尻さんの任命を見、外柔内剛しかも明敏、聡明、中正、真にその人を得て、今さら人事当局の慧眼を、たたえ合った事でありました。
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しかし、木戸幸一によると、「秀才」であったが、軍務局長になると「もう全く、陸軍の人間だナ。とんでもない見当ちがいのことをいう」という状態となった、という。
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「木戸幸一(【振假名】きどこういち)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)。講談社、一九六八年四月、一五七頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、一五四頁)
ぼくの同期生では、壬生(【振假名】みぶ)伯爵の息子で町尻(量基)というのが居ました。これは秀才でした。フランスに行っていた人で、二回も軍務局長をやっている。彼は、ぼくが内大臣秘書官長をしているころ、侍従武官だったから、しょっちゅう一緒に飯を食ったりしていた。学校時代のクラスメートでもあるし、いろんな話をしたが、よく話がわかる。ところが、彼が軍務局へ行ったので、こんどは軍務局も変わると思っていたら、全然変わらない。軍務局に入ったとたんに、もう全く、陸軍の人間だナ。とんでもない見当ちがいのことをいう。(笑)これには困ったナ。そうしなきゃ、あそこでは生きてはいけない。
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