由紀子女王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[由紀子]

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由紀子女王 ゆきこ
 のち町尻由紀子 まちじり ゆきこ
 
【出自】
 
邦憲王[賀陽宮]の一女。
 
【母】
 好子[邦憲王妃]
 醍醐忠順の一女。
 
【經歴】
明治二十八年(一八九五)十一月二十三日、誕生。
由紀子女王
明治二十八年(一八九五)十一月二十九日、命名。
町尻由紀子
大正四年(一九一五)四月三十日、町尻量基に降嫁
『官報』大正四年五月一日 告示 宮内省告示第八號
本日由紀子女王殿下正四位子爵町尻量弘養嗣子陸軍砲兵中尉從五位町尻量基ニ嫁セラル
    大正四年四月三十日               宮内大臣 男爵波多野敬直
『法令全書』大正四年五月 告示
◎宮内省告示第八號(官報 五月一日
本日由紀子女王殿下正四位子爵町尻量弘養嗣子陸軍砲兵中尉從五位町尻量基ニ嫁セラル
    大正四年四月三十日               宮内大臣 男爵波多野敬直
昭和二十一年(一九四六)一月十一日歿。五十二歳。
『官報』第五六九九號 昭和二十一年一月十五日 宮廷録事
◎皇族御服喪 子爵町尻量弘嗣子故量
基妻由紀子本月十一日死去ニ付邦壽
王、治憲王、章憲王、文憲王、宗憲王、
健憲王各殿下ニハ父ノ姉ノ御續ヲ以テ
恒憲王殿下ニハ姉ノ御續ヲ以テ朝融
王、孚彦王、盛厚王、俊彦王各殿下ニ
ハ父ノ兄ノ[子ノ]御續ヲ以テ守正王、鳩彦
王、稔彦王各殿下ニハ兄ノ子ノ御續ヲ
以テ各定式ノ喪ヲ服セラル
◎王族御服喪 子爵町尻量弘嗣子故量
基妻由紀子本月十一日死去ニ付李王妃
方子女王殿下ニハ父ノ兄ノ子ノ御續ヲ
以テ定式ノ喪ヲ服セラル
 
【配偶】
 町尻量基 まちじり かずもと
 もと壬生基綱。壬生基修の四男。町尻量弘(子爵)の養嗣子。
 明治二十一年(一八八八)三月三十日生。
 侍從武官
 軍務局長
 昭和十三年(一九三八)六月から中支那派遣軍第二軍參謀長として武漢作戰に當ったが、作戰中の文書紛失により軍務局長を一箇月停職。
『入江相政日記』昭和十三年十二月二十九日
飯沼守「町尻君を想う」(『町尻量基追悼録』 四〜七頁) 五頁
 私が人事局長になって間もなく町尻君は軍務局長になって(昭和十三年十一月一日付)帰国。その頃町尻君が参謀長だった第二軍で、動員書類紛失問題が持ち上がった。勿論町尻君、全然知らずに帰って寝耳に水ということだが、責任を取らなければならない。第二軍司令部が解散し、東久迩軍司令官宮殿下がご凱旋になったのが十二月二十一日、町尻君が停職になったのが十二月二十九日。この停職処分は、少し重過ぎたかなと今でも思っているが、当時相当慎重に各方面の意見も聞いて決められたのだ。勿論町尻君が軍務局長の要職にあったから幾分重かった事は間違いない。
 停職間軍務局長の椅子は空席にして置き十四年一月二十四日復職を内奏、町尻君が出勤したのは一月三十一日だった。そうして中将に昇進する時に、町尻君元来の序列によるグループと同時に進級(序列は大分下ったが)されたのでホッとした。
小山公利「町尻将軍の思い出」(『町尻量基追悼録』 五七〜五九頁) 五九頁
参謀長から軍務局長にご栄転後、第二軍機密書類紛失事件で、一時免職になられましたが、あれなど全く一信務班のミスでした。
 佛印駐屯軍司令官
 陸軍中將
 昭和二十年(一九四五)十二月十二日、養父に先立ちて歿。
 陸軍の逸材として大いに囑望された。
有末精三「町尻さんの思い出」(『町尻量基追悼録』 二〜四頁) 三頁
昭和十一年、あの二・二六事件の後で、粛軍を断行し、軍の建直しの元じめとなる軍事課長の人選には、万人誰が選任されるか、過激な人でも困るし、よわい人ではなお困る。軍事課長ともなる人の手腕、識見に就いては問題外、決定的の一流人たることは勿論と、皆が待望もし心配もしておりましたところ、町尻さんの任命を見、外柔内剛しかも明敏、聡明、中正、真にその人を得て、今さら人事当局の慧眼を、たたえ合った事でありました。
 しかし、木戸幸一によると、「秀才」であったが、軍務局長になると「もう全く、陸軍の人間だナ。とんでもない見当ちがいのことをいう」という状態となった、という。
「木戸幸一(【振假名】きどこういち)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)。講談社、一九六八年四月、一五七頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、一五四頁
ぼくの同期生では、壬生(【振假名】みぶ)伯爵の息子で町尻(量基)というのが居ました。これは秀才でした。フランスに行っていた人で、二回も軍務局長をやっている。彼は、ぼくが内大臣秘書官長をしているころ、侍従武官だったから、しょっちゅう一緒に飯を食ったりしていた。学校時代のクラスメートでもあるし、いろんな話をしたが、よく話がわかる。ところが、彼が軍務局へ行ったので、こんどは軍務局も変わると思っていたら、全然変わらない。軍務局に入ったとたんに、もう全く、陸軍の人間だナ。とんでもない見当ちがいのことをいう。(笑)これには困ったナ。そうしなきゃ、あそこでは生きてはいけない。
 
【逸事等】
自ら子を背負い、子育てをしていた。
諌山春樹「温情の町尻さん」(『町尻量基追悼録』 一〇〜一二頁) 一一頁
 日曜には屡々お宅によばれてご馳走になり、初めてブリッジを教えて頂きました。初めてお伺いした時は、令夫人が宮家出のお方だという事が頭にあって、少々固くなっておりましたが、出ておいでになった夫人は、坊ちゃんを負んぶしておられ、いとも無造作なご態度でご挨拶を頂き、気楽な気持ちでその後もお話が出来ました。
晩年は肥滿し、長く病床に伏していた。
奈良武次撰「頌詞」(『町尻量基追悼録』巻頭)【※句讀點を附す】
町尻量基君は壬生基修の三男。明治二十一年三月三十一日、京都に生る。・・・・・ 君は大正三年、入りて町尻家を継ぎ、基綱を量基と改め、四年、勅許を拝して賀陽宮由紀子女王と結婚す。・・・・・ 昭和二十年十二月十二日、東京の自邸に逝く。享年五十有八。法号を慈徳院殿寛量禅基居士といふ。東京多摩霊園に葬る。君は資性寛厚にして衆望自ら篤く、明晢達識を以て籌画当らざる無し。而かも沈毅勇断、正に名将の大器たり。夫人由紀子は温容豊麗にして淑徳清雅、琴瑟相和す。晩年永く病褥に在り。月余にして夫君の後を追ふ。四男一女あり。三男量福は小原家を継ぎ、長女登喜子は野間省一に嫁す。
 
【子女】
 町尻量利 まちじり かずとし
 大正五年(一九一六)四月生。
 昭和四十九年(一九七四)十二月十九日歿。
 町尻登喜子 のち野間登喜子 のま ときこ
 大正六年(一九一七)九月四日生。
 野間省一(講談社社長)の夫人。
 野間佐和子(講談社社長)の母。
 町尻量光 まちじり かずみつ
 大正七年(一九一八)十二月二十五日生。
 キングレコード社長
 平成二年(一九九〇)一月二十三日歿。
 町尻量福 のち小原量福 かずとみ
 小原四郎の婿養子。
 町尻量豐 のち小泉量豐 かずとよ
 小泉權三郎の婿養子。
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 下巻』 五六六〜五六七頁
昭和新修 華族家系大成 下巻』 五二七〜五二八頁
『町尻量基追悼録』(町尻量基追悼録編纂会編纂。東京都文京区音羽町、講談社内 町尻量基追悼録編纂会、昭和三十三年(一九五八)十二月


 
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更新日時: 2015.03.06.
公開日時: 2003.02.21.


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