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明治天皇は、恒憲王を~宮祭主にする意向であったが、明治天皇の崩御後、恒憲王は志願して陸軍軍人となった。
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『子爵日野西資博第一囘談話速記』宮内廳書陵部所藏[圖書寮 66981/1/明1064]11葉オ(『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』第一巻(ゆまに書房、平成十五年(二〇〇三)四月)231〜352頁所收、259頁)
ソレカラ只今ノ賀陽宮、此宮樣モ何デモ~宮ノ祭主ニスルヤウナ思召デ最初ハアラセラレタヤウデアリマスガ、是ハ明治天皇崩御ニナリマシテカラ、宮樣ハ御願ヒニナリマシテ、軍人ニ御成リ遊バシタノデアリマスガ、此~宮祭主ノコトニ付テハ深イ思召ガアツタヤウニ存ジマス、
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『子爵日野西資博氏第一回談話速記』(『明治天皇の御日常』 一五〜一六頁)
それから只今の賀陽宮、此宮樣も何でも~宮の祭主にするやうな思召で、最初はあらせられたやうでありますが、是は 明治天皇崩御になりましてから、宮樣は御願ひになりまして、軍人に御成り遊ばしたのでありますが、此~宮祭主のことに付ては深い思召があつたやうに存じます。
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多嘉王の薨逝後、~宮祭主の候補に擧げられたが、軍籍を保ったままの兼任ならば、守正王の次に勤めてもよい、と考えていた。
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野球が好きで、戰前から既に「野球の宮樣」と呼ばれていた。
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戰爭反對論者であったが、それを積極的に主張することはなかったという。
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『昭和天皇獨白録』「近衛の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
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宮中の小火事のため、近衞混成旅團長を免職になっている。
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『昭和天皇獨白録』「近衛の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
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東條英機内閣倒閣直前に、任期三箇月にして東京師團長から陸軍航空總監部附に轉出した。
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昭和十九年(一九四四)七月、東條英機内閣倒閣の前、昭和天皇の精~不安定に失望して、皇族を辭する考えを起こした。
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『近衛文麿日記』昭和十九年七月十五日夜「中川良長男來訪」
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東條内閣倒閣の後、重臣たちが戰爭終結のために努力するよう求めていた。
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昭和二十年(一九四五)四月、鈴木貫太郎内閣成立の際、小磯國昭内閣の陸軍大臣杉山元を排斥する動きを、崇仁親王[三笠宮]らと示した。
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『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」、「(三)陸軍大臣の任命」
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東京大空襲直後の昭和二十年(一九四五)三月十二日、昭和天皇に拜謁し、終戰の「聖斷」を求めた。
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昭和二十年(一九四五)八月十二日の皇族會議では、無條件降伏論であった。
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終戰後、稔彦王[東久邇宮]と共に、皇族の臣籍降下を強く主張した。
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戰後國有化された千鳥が淵の舊邸宅地の払い下げを斷わり、戰沒者墓苑とすることを要望。自らは千葉縣柏の廣池學園内に寓居、社會福祉事業等に從事した。
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