賀陽宮恒憲王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[恒憲]

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恒憲王 つねのり
 賀陽宮(二) かやのみや
 のち賀陽恆憲 かや つねのり
 
【出自】
 
邦憲王[賀陽宮]の一男。
 
【母】
 好子
 邦憲王妃
 醍醐忠順の一女。
 
【經歴】
明治三十三年(一九〇〇)一月二十七日、生誕。
恒憲王
明治三十三年(一九〇〇)二月二日、「恒憲 ツネノリ」と命名。
明治三十九年(一九〇六)四月二日、京都市立竹間小學校に入學。
明治四十五年(一九一二)三月二十六日、京都市立竹間小學校尋常科を卒業。
明治四十五年(一九一二)四月七日、學習院中等科に入學。
大正四年(一九一五)九月一日、學習院中等科を四年中途退校。
同日、陸軍中央幼年學校豫科三年入學。
大正五年(一九一六)七月十日、陸軍中央幼年學校豫科を卒業。
大正五年(一九一六)九月一日、陸軍中央幼年學校本科に入學。
大正七年(一九一八)五月三十日、陸軍中央幼年學校本科を卒業。
同日、士官候補生として騎兵第十聯隊に配屬(十師團)。
同日、陸軍騎兵上等兵の階級を與えられる。
大正七年(一九一八)八月一日、陸軍騎兵伍長に昇進。
大正七年(一九一八)九月一日、陸軍騎兵軍曹に昇進。
大正七年(一九一八)十二月一日、陸軍士官學校へ入校。
大正九年(一九二〇)四月二十六日、成年式。
『法令全書』大正九年四月 告示 「宮内省告示第十號(官報 四月二十七日)
四月二十六日恒憲王殿下成年式ヲ濟マセラル
  大正九年四月二十六日
          宮内大臣 子爵波多野敬直
大正九年(一九二〇)五月二十六日、陸軍士官學校を卒業。
大正九年(一九二〇)十二月二十五日、陸軍騎兵少尉に任じられる。
同日、騎兵第一聯隊附に補される。
同日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
大正十年(一九二一)一月十五日、從二位勲三等公爵九條道實五女敏子との結婚の儀を勅許される。
大正十年(一九二一)五月三日、九條敏子と結婚。
大正十二年(一九二三)八月六日、陸軍騎兵中尉に任じられる。
大正十二年(一九二三)十二月一日、陸軍大學校へ入校。
大正十五年(一九二六)七月二十八日、陸軍騎兵大尉に任じられる。
同日、本職を免じられ、騎兵第三聯隊附に補される。
大正十五年(一九二六)十二月七日、陸軍大學校を卒業。
昭和二年(一九二七)三月七日、本職を免じられ、騎兵第三聯隊中隊長に補される。
昭和三年(一九二八)三月一日、騎兵第三聯隊附に補され、參謀本部附勤務を命じられる。
昭和三年(一九二八)八月十日、參謀本部部員に補される。
昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。
昭和五年(一九三〇)十二月二十七日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
昭和六年(一九三一)八月一日、陸軍騎兵少佐に任じられる。
昭和五年(一九三〇)十二月五日付で、帝都復興記念章を授與される。
昭和七年(一九三二)十一月二十一日、陸軍大學校兵學教官に補される。
昭和八年(一九三三)八月一日、陸軍大學校研究部主事に兼補。
昭和九年(一九三四)三月九日、歐米各國視察のため出發(妃同伴)。
昭和九年(一九三四)九月十八日、歸朝。
昭和九年(一九三四)十二月二十六日、陸軍大學校研究部主事を免じられる。
昭和十年(一九三五)三月十五日、陸軍騎兵中佐に任じられる。
昭和十年(一九三五)八月一日、姫路の騎兵第十聯隊長に補される。
昭和十一年(一九三六)十二月一日、津田沼の騎兵第十六聯隊長に補される。
昭和十二年(一九三七)十一月一日、陸軍大學校兵學教官に補される。
昭和九年(一九三四)四月二十九日付で、昭和六年乃至九年事變の功により金杯一箇を賜わり、昭和六年乃至九年事變從軍記章を授與される。
昭和十三年(一九三八)三月一日、陸軍騎兵大佐に任じられる。
昭和十三年(一九三八)三月三十日、陸軍騎兵學校教官兼同校研究部部員に兼補。
昭和十三年(一九三八)七月十五日、中支那派遣軍參謀を仰せ付けられる(原職はもとの如し)。
昭和十三年(一九三八)十二月十日、中支那派遣軍參謀を免じられる。
昭和十五年(一九四〇)八月一日、兼職を免じられる。
昭和十五年(一九四〇)九月十四日、陸軍武官の官等制定により陸軍大佐となる。
昭和十五年(一九四〇)十二月二日、陸軍少將に任じられる。
同日、東部第八十一部隊長に補される。
『官報』第四一七三號 昭和十五年十二月三日 敍任及辭令 「昭和十五年十二月二日」
       陸軍大佐大勲位 恒憲王
任陸軍少將
昭和十六年(一九四一)七月一日、東部第一部隊長に補される。
昭和十五年(一九四〇)八月十五日付で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十六年(一九四一)十二月二十四日、東部軍司令部附に補される。
昭和十七年(一九四二)三月二日、陸軍戸山學校長に補される。
昭和十五年(一九四〇)四月二十九日付で、支那事變における功に依り功三級に敍され、金鵄勲章ならびに金八千七百圓を下賜される。
同日付で、支那事變從軍記章を授與される。
昭和十八年(一九四三)三月一日、陸軍中將に任じられる。
同日、名古屋師團長に補される。
昭和十八年(一九四三)六月十日、名古屋の第四十三師團長に補される。
昭和十九年(一九四四)四月六日、東京師團長に補される。
昭和十九年(一九四四)七月、範本部隊長と職名變更。
昭和十九年(一九四四)七月十八日、陸軍航空總監部附に補される。br>
昭和二十年(一九四五)三月九日、陸軍大學校長に補される。
昭和二十年(一九四五)九月十八日、軍事參議官に補される。
昭和二十年(一九四五)十一月十六日、待命を仰せ付けられる。
昭和二十年(一九四五)十一月十七日、豫備役を仰せ付けられる。
同日、掌典長に任じられ(親任)、御歌所長を兼任し、高等官一等に敍される。
昭和二十一年(一九四六)二月二十五日、願に依り本官(掌典長)ならびに兼官(御歌所長)を免じられる。
昭和二十一年(一九四六)六月十四日、勅令第三一九號陸軍武官官等表等が廢止される。
賀陽恆憲
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十一條の規定により、皇族の身分を離れる
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示 「宮内府告示第十五号」
 博明王、光子女王、章子女王、武彦
王、恒憲王、朝融王、守正王、鳩彦王、
稔彦王、故成久王妃房子内親王、道久
王、肇子女王、恒コ王及び春仁王各殿
下は、皇室典範第十一條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和五十三年(一九七八)一月三日、歿。
 
【墓所】
 
【配偶】
 敏子 としこ
 のち賀陽敏子
 恒憲王(のち賀陽恆憲)妃。
 九條道實の五女。
 明治三十六年(一九〇三)五月十六日、誕生。
 大正十年(一九二一)五月三日、勲二等に敍され、寶冠章を授けられる。
 昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。
 昭和六年(一九三一)五月二十七日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
 昭和十五年(一九四〇)八月十五日付で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
 昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族の身分を離れる
 ◎『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示、宮内府告示第十六号
 平成七年(一九九五)三月二十三日、歿。
 
【子女】
 □
邦壽王 のち賀陽邦壽 かや くになが
 ○ 美智子女王 のちコ大寺美智子、賀陽美智子 かや みちこ
 ○【大正十四年(一九二五)二月三日生。母は敏子。即日薨】
 □ 治憲王 のち賀陽治憲 かや はるのり
 □ 章憲王 のち賀陽章憲 かや あきのり
 □ 文憲王 のち賀陽文憲 かや ふみのり
 □ 宗憲王 のち賀陽宗憲 かや むねのり
 □ 健憲王 のち賀陽健憲 かや たけのり
 
【逸事等】
明治天皇は、恒憲王を~宮祭主にする意向であったが、明治天皇の崩御後、恒憲王は志願して陸軍軍人となった。
『子爵日野西資博第一囘談話速記』宮内廳書陵部所藏[圖書寮 66981/1/明1064]11葉オ(『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』第一巻(ゆまに書房、平成十五年(二〇〇三)四月)231〜352頁所收、259頁)
ソレカラ只今ノ賀陽宮、此宮樣モ何デモ~宮ノ祭主ニスルヤウナ思召デ最初ハアラセラレタヤウデアリマスガ、是ハ明治天皇崩御ニナリマシテカラ、宮樣ハ御願ヒニナリマシテ、軍人ニ御成リ遊バシタノデアリマスガ、此~宮祭主ノコトニ付テハ深イ思召ガアツタヤウニ存ジマス、
『子爵日野西資博氏第一回談話速記』(『明治天皇の御日常』 一五〜一六頁)
それから只今の賀陽宮、此宮樣も何でも~宮の祭主にするやうな思召で、最初はあらせられたやうでありますが、是は 明治天皇崩御になりましてから、宮樣は御願ひになりまして、軍人に御成り遊ばしたのでありますが、此~宮祭主のことに付ては深い思召があつたやうに存じます。
多嘉王の薨逝後、~宮祭主の候補に擧げられたが、軍籍を保ったままの兼任ならば、守正王の次に勤めてもよい、と考えていた。
『木戸幸一日記』昭和十二年十月十二日
野球が好きで、戰前から既に「野球の宮樣」と呼ばれていた。
戰爭反對論者であったが、それを積極的に主張することはなかったという。
『昭和天皇獨白録』「近衛の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
宮中の小火事のため、近衞混成旅團長を免職になっている。
『昭和天皇獨白録』「近衛の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
東條英機内閣倒閣直前に、任期三箇月にして東京師團長から陸軍航空總監部附に轉出した。
昭和十九年(一九四四)七月、東條英機内閣倒閣の前、昭和天皇の精~不安定に失望して、皇族を辭する考えを起こした。
『近衛文麿日記』昭和十九年七月十五日夜「中川良長男來訪」
東條内閣倒閣の後、重臣たちが戰爭終結のために努力するよう求めていた。
『細川護貞日記』昭和十九年九月四日
昭和二十年(一九四五)四月、鈴木貫太郎内閣成立の際、小磯國昭内閣の陸軍大臣杉山元を排斥する動きを、崇仁親王[三笠宮]らと示した。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」、「(三)陸軍大臣の任命」
東京大空襲直後の昭和二十年(一九四五)三月十二日、昭和天皇に拜謁し、終戰の「聖斷」を求めた。
昭和二十年(一九四五)八月十二日の皇族會議では、無條件降伏論であった。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」
終戰後、稔彦王[東久邇宮]と共に、皇族の臣籍降下を強く主張した。
戰後國有化された千鳥が淵の舊邸宅地の払い下げを斷わり、戰沒者墓苑とすることを要望。自らは千葉縣柏の廣池學園内に寓居、社會福祉事業等に從事した。
 
【著述等】
賀陽恒憲「町尻夫妻を偲ぶ」(『町尻量基追悼録』(町尻量基追悼録編纂会編纂。東京都文京区音羽町、講談社内 町尻量基追悼録編纂会、昭和三十三年(一九五八)十二月)三〇一〜三〇二頁)
 
工事中 【文獻等】

平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三一〜三二頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 二六頁
羽仁進「ある宮家の半世紀──昭和史の断面」(『潮』昭和五十一年十二月号、一九七六年十二月、二八四〜三〇一頁)
千田夏光「消された宮家それからの数奇28年」(『現代』昭和五十年十二月号、一九七五年十二月)、一一四頁
佐藤朝泰「賀陽家==平民化も素早かった異色の宮家」(佐藤朝泰『門閥──旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、五八〜六〇頁)
「日本の名家『旧宮家はいま』1」賀陽家(『週刊読売』一九八八年五月八・十五日)、二六〜二八頁)


 
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公開日時: 2014.03.18.

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