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大正十五年(一九二六)七月三日生。
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治憲王
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學習院より海軍兵學校に進む(海軍兵學校七十五期生)。
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戰後、あらためて東京大學法学部に入學。
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賀陽治憲
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昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族身分を離れる。
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宮内府告示第十六号(『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示)
恒憲王妃敏子、邦壽王、治憲王、章
憲王、文憲王、宗憲王、健憲王、邦昭
王、朝建王、朝宏王、朝子女王、通子
女王、英子女王、典子女王、守正王妃
伊都子、孚彦王、孚彦王妃千賀子、誠
彦王、冨久子女王、美乃子女王、稔彦
王妃聰子内親王、盛厚王、盛厚王妃成子
内親王、信彦王、文子女王、俊彦王、
恒コ王妃光子、恆正王、恆治王、素子
女王、紀子女王及び春仁王妃直子各殿
下は、皇室典範第十三條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
昭和二十二年十月十三日
宮内府長官 松平 慶民
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『皇室制度史料 皇族三』 三二五〜三二六頁
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外交官試驗に合格。
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昭和二十五年(一九五〇)、東京大學法學部を卒業。
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昭和二十五年(一九五〇)四月、外務省に入省。
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昭和二十六年(一九五一)、ガリオア資金による第三回留學生としてアメリカ合衆國へ留學。
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昭和二十七年(一九五二)、歸國後、外交官となる。
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昭和三十三年(一九五八)十月、松田朝子と結婚。
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ジュネーブの國際機關日本政府代表部の公使となり、次いで、外務省經濟局次長、領事移住部長、國際連合局長を歴任する。
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昭和五十六年(一九八一)、駐イスラエル大使。
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『入江相政日記』昭和五十六年八月十四日(金)「園田外相内奏、認證式」
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『入江相政日記』昭和五十六年九月十七日(木)「賀陽大使夫妻」
賀陽さん夫妻イスラエルへ赴任につき拜謁。菊燒の箱入りを賜はる。
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昭和五十八年(一九八三)、駐デンマーク大使。
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昭和六十二年(一九八七)一月、外務省研修所所長。
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外務省研修所長であった一九八七年、コ仁親王[浩宮]の西ドイツ公式訪問において首席随員を務めた。
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平成元年(一九八九)一月、駐ブラジル大使。
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平成三年(一九九一)十一月、外務省を退官。
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平成八年(一九九六)、勲二等旭日重光章を授けられる。
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平成二十三年(二〇一一)六月五日午前八時三十五分、東京都稲城市内の病院にて、老衰のため死去。滿八十四歳。
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護国寺(東京都文京区大塚5-40-1)桂昌殿において、平成二十三年(二〇一一)六月十二日午後六時より通夜祭、六月十三日午前十一時三十分より葬場祭・告別式が擧行される。(喪主は妻、賀陽朝子)
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