賀陽宮邦壽王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[邦壽]

フレームなし

工事中

邦壽王 くになが
 賀陽宮(繼嗣)
 のち賀陽邦壽 かや くになが
 
【出自】
 
恒憲王[賀陽宮](のち賀陽恆憲)の一男。
 
【母】
 敏子(のち賀陽敏子)
 恒憲王妃
 九條道實の五女。
 
【經歴】
大正十一年(一九二二)四月二十一日生。
邦壽王
大正十一年(一九二二)四月二十七日【要確認】、命名。
大正十一年(一九二二)六月九日、賢所に初參拜。同日、朝見。
昭和四年(一九二九)四月八日、學習院初等科に入學。
昭和十年(一九三五)三月、學習院初等科を卒業。
昭和十年(一九三五)四月、學習院中等科に入學。
昭和十一年(一九三六)三月三十一日、學習院中等科を第一學年修了退學。
昭和十一年(一九三六)四月一日、東京陸軍幼年學校に入校。
昭和十三年(一九三八)十一月十七日、東京陸軍幼年學校を卒業。
昭和十三年(一九三八)十二月一日、陸軍豫科士官學校に入校。
昭和十四年(一九三九)十一月十五日、陸軍豫科士官學校を卒業。
昭和十四年(一九三九)十一月十七日、士官候補生として、京都の歩兵第九聯隊に入隊。
昭和十五年(一九四〇)一月十七日、陸軍歩兵伍長に進級。
昭和十五年(一九四〇)二月十七日、陸軍歩兵軍曹に進級。
昭和十五年(一九四〇)四月一日、陸軍士官學校に入校。
昭和十六年(一九四一)六月十日、近衞歩兵第五聯隊補充隊に轉屬。
昭和十五年(一九四〇)八月十五日付で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十六年(一九四一)七月十八日、陸軍士官學校を卒業。同日、見習士官として東部第八部隊へ入隊。
昭和十六年(一九四一)十月一日、陸軍少尉に任じられる。同日、近衞歩兵第五聯隊補充隊附に補される。同日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
『高松宮日記』昭和十六年十月三日(三ノ三〇〇〜三〇二頁)
昭和十七年(一九四二)十二月七日、成年式。
宮内省告示第二十八號(『官報』第四七七三號 昭和十七年十二月八日 告示)
本日邦壽王殿下成年式ヲ濟マセラル
 昭和十七年十二月七日
        宮内大臣 松平 恒雄
昭和十七年(一九四二)十二月十五日、近衞第五聯隊附に補される(ジャワ派遣第三八〇四部隊)。
昭和十八年(一九四三)三月一日、陸軍中尉に任じられる。駐屯地はスマトラのカバンジャオ(スマトラ派遣第三八〇四部隊)。
『官報』第四八三八號 昭和十八年三月二日 敍任及辭令
○昭和十八年三月一日
       陸軍少佐 恒コ王
(各通)   同    李鍵公
任陸軍中佐
       陸軍少尉 邦壽王
任陸軍中尉
昭和十九年(一九四四)一月二十五日、陸軍歩兵學校教導聯隊附に補される。
昭和十九年(一九四四)七月八日、近衞師團司令部附に補される。
昭和十九年(一九四四)十一月六日、豊橋第一陸軍豫備士官學校歩兵生徒隊附に補される。
昭和十九年(一九四四)十二月一日、陸軍大尉に任じられる。
昭和二十年(一九四五)十一月六日、東京陸軍幼年學校生徒監に補される。
昭和二十年(一九四五)八月二十九日、教育總監部附に補される。
昭和二十年(一九四五)十一月三十日、待命を仰せ付けられる。
昭和二十年(一九四五)十二月一日、豫備役を仰せ付けられる。
昭和二十一年(一九四六)六月十四日、勅令第三一九號陸軍武官官等表等が廢止される。
賀陽邦壽
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族の身分を離れる
宮内府告示第十六号(『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示)
 恒憲王妃敏子、邦壽王、治憲王、章
憲王、文憲王、宗憲王、健憲王、邦昭
王、朝建王、朝宏王、朝子女王、通子
女王、英子女王、典子女王、守正王妃
伊都子、孚彦王、孚彦王妃千賀子、誠
彦王、冨久子女王、美乃子女王、稔彦
王妃聰子内親王、盛厚王、盛厚王妃成子
内親王、信彦王、文子女王、俊彦王、
恒コ王妃光子、恆正王、恆治王、素子
女王、紀子女王及び春仁王妃直子各殿
下は、皇室典範第十三條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和六十一年(一九八六)四月十六日、臺灣にて客死(心筋梗塞)。六十三歳。
 
工事中 【配偶】
 
【逸事等】
病のため、昭和十八年(一九四三)十月、一時、重態となった。
『高松宮日記』昭和十八年十月四日(月)(七ノ一二頁)
邦壽王御重態ノ旨電報アリ。
【上欄】邦壽王御容態御重篤ノ旨電アリ。・・・・・
戰後、あらためて京都大學經濟學部に入學。大學卒業後、東京銀行や日本國土開發に勤務。その後、賀陽政治經濟研究所を創設、所長となる。
和子内親王[孝宮](昭和天皇の三女)との結婚が内定されていたが、斷り、更に、堀田英子(のち小佐野賢治の妻となる)との縁談も斷る。
木下道雄『側近日誌』昭和二十一年一月七日(月)(一〇四〜一〇五頁)
3時、小出掌典次長、来室。
一、賀陽掌典長の使、邦憲王【邦壽王ノ誤リ】と孝宮【和子内親王】との御結婚は正式には勅許なきも、御内定既にあるにつき、其の時期につき、宮の御希望は本年末か明春にては如何、御内意を承りたしとの事。
4時30分、聖上【昭和天皇】に拝謁。 一、孝宮御結婚の時期につき思召を伺うに、早くしてよし。余りグズグズして先方でイヤ気を起しても悪し。
木下道雄『側近日誌』昭和二十一年一月八日(火)(一〇五頁)
10時20分、聖上【昭和天皇】に拝謁。
一、昨日の孝宮【和子内親王】のこと、皇后宮には余り早期の結婚を好まぬも年末か明春にて可なり。尚、賀陽宮家は家風改善の要あるをもって、別当、事務官又は御用掛に相当圧力ある人物を入れて、若宮【邦壽王】の指導もさせる要あり。
 お答。青木属(主事)を賀陽宮付事務官に来る十五日発令の予定。これは孝宮の先遣隊の如き使命なるが、圧力ある人物にはあらざるをもって、一人物色致すべし。
二、孝宮は未だ何も知らぬをもって、云い聞かす必要あり。皇后宮と相談して、皇后宮からか或いは木下【道雄】から云い聞かすべし。先例、照宮【成子内親王】のときは広幡これを行えり。
木下道雄『側近日誌』昭和二十一年一月十一日(金)(一〇九頁)
11時、藤井御養育掛長、来談。
 孝宮【和子内親王】御結婚、今秋か来春とのことを聞きたるが、右は尚早に過ぐ、少くとも二年の御修養期間を求められたし。
・・・・・
 夜、再び藤井君来談。
 更に詳しく午前の話を聞く。予【木下道雄】は右聴取の結果三年の延期を決心し、もし先方【賀陽宮】に於かせられて、それ迄は待てぬとのことならば、御内定を御捨てになりてもよろしき御覚悟を両陛下に御持ち頂くことが、孝宮の御将来にも御幸福なりとの結論を得たり。
木下道雄『側近日誌』昭和二十一年一月十二日(土)(一一〇頁)
午後、御文庫に於て皇后宮に拝謁。
 孝宮【和子内親王】御結婚のことにつき、昨日藤井より聴取したる結果得たる予【木下道雄】の考えを申上げ、三年御延期のこと御内諾を得。尚ついでに順宮【厚子内親王】、清宮【貴子内親王】の御将来についても、配偶者の範囲を皇族に限定遊ばされぬ方、御幸福なるべき旨を申上ぐ。御異論なし。もっとも清宮については、伏見宮博明王ある旨も申上ぐ。
 次で両陛下に拝謁。
 (イ) 孝宮の御結婚は三年後とすること。
 (ロ) 賀陽宮家に於てそれ迄は待てぬと云うことならば、他に配偶者を求められても些かの差支えなし。
 と先方に回答して可なりとの御同意を得たり。
昭和四十三年(一九六八)七月の參議院選擧(全國區)に立候補したが、落選。昭和四十六年(一九七一)の參議院選擧(全國區)でも落選。
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三一〜三二頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』 二六頁
羽仁進「ある宮家の半世紀 ── 昭和史の断面」(『潮』昭和五十一年十二月号、一九七六年十二月)
佐藤朝泰「賀陽家==平民化も素早かった異色の宮家」(佐藤朝泰『門閥 ── 旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、六〇〜六一頁)
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、昭和五十年(一九七五)四月) 一二七〜一三四頁
河原敏明『美智子さまと皇族たち』(講談社、平成四年(一九九二)十月初版) 二二〇〜二二八頁。
「「皇籍剥奪」風雪五十年抄」(『週刊新潮』第四十巻第二号(一月十二日号)、一九九五年一月) 四八〜四九頁


 
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公開日時: 2015.03.24.

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