賀陽宮邦壽王
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恒憲王妃 九條道實の五女。 |
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病のため、昭和十八年(一九四三)十月、一時、重態となった。
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戰後、あらためて京都大學經濟學部に入學。大學卒業後、東京銀行や日本國土開發に勤務。その後、賀陽政治經濟研究所を創設、所長となる。 | |||||||||||||
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和子内親王[孝宮](昭和天皇の三女)との結婚が内定されていたが、斷り、更に、堀田英子(のち小佐野賢治の妻となる)との縁談も斷る。
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昭和四十三年(一九六八)七月の參議院選擧(全國區)に立候補したが、落選。昭和四十六年(一九七一)の參議院選擧(全國區)でも落選。 |
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 三一〜三二頁 |
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『昭和新修 華族家系大成 上巻』 二六頁 |
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羽仁進「ある宮家の半世紀 ── 昭和史の断面」(『潮』昭和五十一年十二月号、一九七六年十二月) |
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佐藤朝泰「賀陽家==平民化も素早かった異色の宮家」(佐藤朝泰『門閥 ── 旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、六〇〜六一頁) |
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河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、昭和五十年(一九七五)四月) 一二七〜一三四頁 |
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河原敏明『美智子さまと皇族たち』(講談社、平成四年(一九九二)十月初版) 二二〇〜二二八頁。 |
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「「皇籍剥奪」風雪五十年抄」(『週刊新潮』第四十巻第二号(一月十二日号)、一九九五年一月) 四八〜四九頁 |
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