久邇宮 朝融王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[朝融]

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朝融王 あさあきら
 久邇宮(三)
 のち久邇朝融
 
【出自】
 
邦彦王[久邇宮(二)]の一男。
 
【生母】
 俔子 ちかこ
 邦彦王妃
 島津忠義の七女。
 
【經歴】
明治三十四年(一九〇一)二月二日、誕生。
朝融王
明治三十四年(一九〇一)二月八日、命名。
明治四十一年(一九〇八)四月、學習院初等科に入學。
大正二年(一九一三)四月、學習院初等科を卒業。
大正二年(一九一三)四月、學習院中等科に入學。
大正七年(一九一八)三月、學習院中等科を退學。
明治天皇より、朝融王に海軍軍人たるべき聖旨があった。
『明治天皇紀』
大正七年(一九一八)九月九日、海軍兵學校に入校。
大正十年(一九二一)四月十九日、成年式。
『高松宮日記』大正十年四月十四日木曜 予記欄
久邇宮(成年式)
大正十年(一九二一)七月十六日、海軍兵學校を卒業。海軍少尉候補生と成り、「出雲」乘組を命じられる。
大正十一年(一九二二)五月二十五日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられ、海軍少尉に任じられ、「山城」乘組を命じられる。
大正十一年(一九二二)十一月一日、「伊勢」乘組を命じられる。
大正十二年(一九二三)十二月一日、海軍砲術學校普通科学生と成る。
大正十三年(一九二四)四月一日、海軍水雷學校普通科学生と成る。
大正十三年(一九二四)七月四日、海軍水雷學校普通科学生教程を卒業し、「山城」乘組を命じられる。
大正十三年(一九二四)十二月一日、海軍中尉に任じられる。
大正十四年(一九二五)一月十日、知子女王(博恭王[伏見宮]の三女)との結婚の儀を勅許される。
大正十四年(一九二五)一月二十六日、知子女王(博恭王[伏見宮]の三女)と結婚。
『官報』第三七二七號 大正十四年一月二十七日(火曜日) 告示
○宮内省告示第四號
朝融王殿下本日知子女王殿下ト結婚セラル
 大正十四年一月二十六日
      宮内大臣 子爵 牧野 伸顯
『法令全書』告示「宮内省告示第四號(官報 一月二十七日)」
朝融王殿下本日知子女王殿下ト結婚セラル
 大正十四年一月二十六日
      宮内大臣 子爵 牧野 伸顯
大正十四年(一九二五)五月一日、「長門」乗組に補される。
大正十四年(一九二五)十二月一日、「阿蘇」分隊長に補される。
大正十五年(一九二六)十二月一日、海軍大尉に任じられる。
大正十五年(一九二六)十二月、海軍砲術學校高等科學生と成る。
昭和二年(一九二七)十一月二十九日、海軍砲術學校高等科學生と成る。
昭和二年(一九二七)十二月一日、「陸奧」分隊長に補される。
昭和三年(一九二八)十一月十日、大禮記念章を授與される。
昭和三年(一九二八)十二月十日、海軍軍令部出仕に補される。
昭和五年(一九三〇)十二月一日、海軍大學校甲種學生と成る。
昭和五年(一九三〇)十二月五日、帝都復興記念章を授與される。
昭和七年(一九三二)五月二十五日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
昭和七年(一九三二)十一月二十九日、海軍大學校甲種學生教程を卒業。
昭和七年(一九三二)十二月一日、海軍少佐に任じられる。同日、「榛名」副砲長兼分隊長に補される。
昭和八年(一九三三)九月十五日、海軍軍令部出仕に補される。
昭和八年(一九三三)十一月十五日、「木曾」砲術長に補される。
昭和九年(一九三四)四月二十九日、昭和六年乃至九年事變の功により金杯一箇を賜わり、昭和六年乃至九年事變從軍記章を授與される。
昭和九年(一九三四)七月十九日、「八雲」砲術長に補される。
昭和十年(一九三五)八月一日、海軍軍令部出仕兼部員に補される。
昭和十二年(一九三七)十一月二十日、大本營海軍部幕僚に補される。
昭和十二年(一九三七)十二月一日、海軍中佐に任じられ、「長門」砲術長に補される。
昭和十三年(一九三八)十二月一日、横濱航空隊副長に補される。
昭和十四年(一九三九)十月十日、第一聯合航空隊參謀に補される。
昭和十四年(一九三九)十一月十五日、海軍大佐に任じられる。
昭和十五年(一九四〇)一月十日、横須賀鎭守府附となる。
昭和十五年(一九四〇)四月二十九日、「支那事變」の功により功四級金鵄勲章および一時賜覲六〇〇〇圓を賜わり、支那事變從軍記章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)七月九日、「八雲」艦長に補される。
昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)十一月一日、木更津海軍航空隊司令に補される。
昭和十七年(一九四二)三月二十日、高雄海軍航空隊司令に補される。
昭和十七年(一九四二)十月一日、海軍航空隊改編により第七五三海軍航空隊(高雄)司令と成る。
昭和十七年(一九四二)十月五日、南西方面艦隊司令部附に補される。
昭和十七年(一九四二)十月二十一日、軍令部出仕に補される。
昭和十七年(一九四二)十一月一日、海軍少將に任じられる。
昭和十八年(一九四三)四月一日、第十九聯合航空隊司令官(第十九連空司令官)に補される。
昭和十九年(一九四四)九月二十九日、海軍練習聯合航空總隊司令部附に補される。
昭和十九年(一九四四)十月一日、第二十聯合航空隊司令に補される。
昭和二十年(一九四五)五月一日、海軍中將に昇進。
『高松宮日記』御日記帳第十七冊巻頭
[昭和二十年]五月一日附朝融王中將ニ進級。一七−一一−一少將(一〇−七−一六少尉候ホ生)。今回の中將進級者ハ皆一七−五−一少將トナレルモノノミナリ。ドウモ特別ノコトデナケレバ早スギル。
昭和二十年(一九四五)八月二十五日、軍令部出仕に補される。
昭和二十年(一九四五)十月十五日、海軍省出仕に補される。
昭和二十年(一九四五)十一月三十日、豫備役と成る。
昭和二十一年(一九四六)六月二十四日、勅令第三二二號海軍將校分限令等廢止。
久邇朝融
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十一條の規定により皇族の身分を離れる
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示 「宮内府告示第十五号」
 博明王、光子女王、章子女王、武彦
王、恒憲王、朝融王、守正王、鳩彦王、
稔彦王、故成久王妃房子内親王、道久
王、肇子女王、恒コ王及び春仁王各殿
下は、皇室典範第十一條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和三十四年(一九五九)十二月七日歿(肝硬變)。五十八歳。
 
【配偶】
 
知子女王[朝融王妃]
   博恭王[伏見宮]の三女。
 
【子女】
 ○
正子女王 のち龍田正子、梨本正子、久邇正子
 ○ 朝子女王 のち久邇朝子、島津朝子
 □ 邦昭王  のち久邇邦昭
 ○ 通子女王 のち久邇通子、永岡通子、久邇通子、酒井通子
 ○ 英子女王 のち久邇英子、木下英子
 □ 朝建王  のち久邇朝建
 ○ 典子女王 のち久邇典子、古河典子
 □ 朝宏王  のち久邇朝宏
 
【逸事等】

チェロに堪能であった。
容姿秀麗にして、艶福家として名高かった。
『松本剛吉日記』(永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」所引
『倉富勇三郎日記』昭和三年六月二十九日(永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」所引
昭和二十年(一九四五)八月十二日の皇族會議では、無條件降伏論であった。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」
 [昭和二十年八月]十二日、皇族の參集を求め私【昭和天皇】の意見を述べて大體贊成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和には贊成だが、國體護持が出來なければ、戰爭を繼續するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた。
 賀陽宮【恒憲王】、東久邇宮【稔彦王】、久邇宮【朝融王】は終始一貫、弱い意見であつたが、賀陽宮は松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎を推薦したりする樣な時には、本人自身の氣持と違つた事を口にした。
 秩父宮は日獨同盟は主張したが、その后病氣となつたので意見は判らぬ。
 高松宮はいつでも當局者の意見には餘り贊成せられず、周圍の同年輩の者や、出入の者の意見に左右され、日獨同盟以來、戰爭を謳歌し乍ら、東條内閣では戰爭防止の意見となり、其后は海軍の意見に從はれた。開戰后は悲觀論で、陸軍に對する反感が強かつた。
 東久邇宮と朝香宮【鳩彦王】とは兄弟であり乍ら、終始反對の意見を持つてゐた。
戰後、牧場經營を行なったが失敗。次に、久邇宮家家紋、菊の紋章入りの「久邇香水」の製造販賣を行なうが、顯著な經濟的成果を得るには及ばず、結局、本邸・別邸を全て手放すに至った。
戰後、松平直鎭、徳川喜好と共に某新興宗教に入信し、しばしば皇后良子(久邇朝融の妹)や昭和天皇に會おうと試み、宮内廳を惱ませた。
『入江相政日記』昭和二十九年八月二十日(金)「北海道第十五日」
昨日の朝、小樽で朝融さんが松平直鎭と本荘千代とかいふ神がかりの女に圍まれてニセコに來られ[※天皇と]御對面願ひたいといふことなので、それは斷然お止め願ふべきであると主張し予【入江相政】が皇后樣の御同意を先づ得、續いてお上のお許も得て道廳を通じて御靜養だからとことわつておいたのに又いらつしやるとの事。もし見えたら女官長と一緒におことわりしようといふので十一時からの記者會見には陪席を止める。
『入江相政日記』昭和五十七年三月十日(水)
・・・・・ しばらくしてお召。朝融、徳川喜好、松平直鎭の神がかりを田島がとめてくれた時のいきさつを林敬三or榮木に聞いたら東本願寺の參考になりはしまいかとの仰せ。
『入江相政日記』昭和五十七年三月十二日(金)
・・・・・ この間のお召の、朝融さんの神がかり(徳川喜好、松平直鎭)を田島長官が取りしづめたのを參考にして東本願寺が何とかなるまいかとの仰せにつき次長と相談。今度のとは全く性質が違ふし、内藤【ョ博】が一所懸命やつてゐるからまあもう暫らく樣子を御覽になつていたゞきたいと申上げ御諒承。
『入江相政日記』昭和五十七年三月十六日(火)
十一時頃お召といふので宮殿。本願寺のこと。お上【昭和天皇】らしくないことで、朝融を新興宗教から放したのは高橋(石油か)が食事を一緒にしたりして懇談したから。内藤【ョ博】の外にそのやうな人を見つけなければならないとおつしやる。そんな人見つかりませんと申上げたら、何としても見つけるなければとおつしやる。慈洽さん【東伏見】さへお近づきになれないのだからと申上げたらいくらかお分りになつた。
病状が惡化してからも、新興宗教の靈驗を信じていたため、病院への入院が遲れた、という。
河原敏明『美智子さまと皇族たち』二三二頁。
 
【朝融王の、酒井菊子との婚約破棄】
この問題については、永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」において詳細に述べられている。
大正六年(一九一七)九月、酒井忠興[姫路](伯爵)の二女、酒井菊子との婚約を内約。時に朝融王は十六歳、酒井菊子は十四歳。年内に、大正天皇からの内勅をも得る。
朝融王と酒井菊子の交際は、朝融王が酒井菊子に懸想し、朝融王の手紙を、朝融王の妹 良子女王(酒井菊子の姉 酒井秋子と、女子学習院の同期生)が酒井菊子に取り次いだことにより始まった、という。
『倉富勇三郎日記』大正十三年二月七日
その後、朝融王は、酒井菊子との婚姻を解消することを望むようになり、良子女王と裕仁親王の婚儀が濟んだ大正十三年(一九二四)初、久邇宮家は、婚約の解消を宮内省に申し出るに至った。
『倉富勇三郎日記』大正十三年二月三日
『倉富勇三郎日記』大正十三年三月二十五日
この問題が宮内省において問題となった時、酒井菊子の「節操」に對する疑いの噂が流れたが、それは全くの虚報であることが確認されている。
『倉富勇三郎日記』大正十三年二月七日
『倉富勇三郎日記』大正十三年二月二十二日
『倉富勇三郎日記』大正十三年三月六日
久邇宮家からの一方的な暴論に對し、酒井家が強く反撥、事態は膠着状態に陷った。
『倉富勇三郎日記』大正十三年二月九日
『倉富勇三郎日記』大正十三年二月十三日
『倉富勇三郎日記』大正十三年二月十五日
『倉富勇三郎日記』大正十三年三月二十七日
『倉富勇三郎日記』大正十三年七月三十一日
『倉富勇三郎日記』大正十三年八月十七日
『倉富勇三郎日記』大正十三年九月五日
『倉富勇三郎日記』大正十三年九月六日
『倉富勇三郎日記』大正十三年九月八日
『牧野伸顯日記』大正十三年二月五日
『牧野伸顯日記』大正十三年二月八日
『牧野伸顯日記』大正十三年二月十五日
『牧野伸顯日記』大正十三年三月八日
『牧野伸顯日記』大正十三年三月十九日
『牧野伸顯日記』大正十三年三月二十七日
『牧野伸顯日記』大正十三年六月十七日
この事件が九月六日と七日に新聞によって大々的に報道されてより、事態が動き始めた。
『倉富勇三郎日記』大正十三年九月十日
『倉富勇三郎日記』大正十三年九月二十二日
『倉富勇三郎日記』大正十三年九月二十五日
『倉富勇三郎日記』大正十三年十月七日
『倉富勇三郎日記』大正十三年十月十日
『倉富勇三郎日記』大正十三年十月十三日
『倉富勇三郎日記』大正十三年十月二十九日
『倉富勇三郎日記』大正十三年十月三十日
『倉富勇三郎日記』大正十三年十一月一日
『牧野伸顯日記』大正十三年九月八日〜十月二十日
大正十三年(一九二四)十一月十六日、婚約解消が勅許。同時に、攝政裕仁親王から久邇宮家に、異例の訓戒の詞が伝達された。攝政の訓戒に對し、邦彦王は大いに不滿であったようである。翌十七日、表向きは酒井家からの婚約辭退との形で、宗秩寮と久邇宮家から婚約解消が發表された。
『倉富勇三郎日記』大正十三年十二月四日
『牧野伸顯日記』大正十三年十一月十四日〜二十六日
『牧野伸顯日記』大正十三年十二月二・六・九日
酒井美意子は、自傳風小説『加賀百万石物語 秘史・前田家の戦争と平和』(主婦と生活社、平成四年(一九九六)一月)の二三九〜二四〇頁において、次のように記す。
 [酒井美意子の]母【前田菊子】の母の夏子【酒井】は明治維新に活躍した公爵三条実美さねとみの七女で、絶世の美女であった由、夏子に生き写しであったという菊子は、日本の三美人の一人といわれて、婦人雑誌の口絵によく登場し、久邇宮朝融くにのみやあさあきら王(昭和皇太后【ママ。良子】の兄宮)とのロマンスで話題を集めます。朝融王と婚約して七年後に、薩摩と長州の政争のあおりや良子ながこ女王の皇太子妃決定の余波を受けたのが原因で、本人たちの知らぬ間に婚約は解消させられます。
 これは国民注視の事件であり、何人かの作家がそれをテーマに同情的に書きましたが、会ったこともない小山いと子が事実無根のスキャンダラスなストーリーを捏造ねつぞうしたため、人一倍プライドが高くピューリタンの母は激怒し、酒井と前田連名で小山を裁判にかける寸前までいった騒ぎがありました。知る人ぞ知る、です。
 この婚約破棄事件において、身勝手な我意をあくまでも貫こうとする久邇宮家は、皇后 節子や皇族の長老 載仁親王[閑院宮]の不興を買い、宮内省から大いに批判されることとなった。
 
【著述等】
久邇朝融、野村あらえびす、有坂愛彦「楽興の時 ─上─(鼎談)」『レコード音楽』19-9(東京、名曲堂、一九四九年九月)二〜一一頁
久邇朝融、野村あらえびす、有坂愛彦「楽興の時 ─下─(鼎談)」『レコード音楽』19-10(東京、名曲堂、一九四九年一〇月)二四〜二八頁
 
工事中 【文獻等】

平成新修 旧華族家系大成 上巻』三七頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』三一頁
永井和『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(京都大学学術出版会、二〇〇三年七月)第二章「摂政、久邇宮を訓戒する」(一二三〜一七二頁。初出、「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」(『立命館文學』第五四二号、一九九五年十二月、七七七〜八一二頁)、「補論・久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」(『日本思想史研究会会報』第二〇号、京都、日本思想史研究会、二〇〇三年一月、二七五〜二八三頁)
麻田弓彦「久邇宮朝融王の婚約破棄事件」『歴史と旅』二〇〇〇年九月号(第二十七巻第十一巻)「特集・天皇家と宮家 激動の近代史」(秋田書店、平成十二年(二〇〇〇)九月)一二六〜一三二頁
本田靖春「現代家系論 旧皇族十家族」(『文藝春秋』第五十一巻第九号、昭和四十八年(一九七三)六月、三〇二〜三一四頁)三一〇〜三一一頁
「日本の名家『旧宮家はいま』5」久邇家(『週刊読売』一九八八年六月十二日、一五二頁)
『皇族・華族 古写真帖(愛蔵版)』(東京都千代田区神田錦町、新人物往来社、二〇〇二年八月) 五六〜五七頁
 
【關聯ホームページ (2014.11.現在)】
京都大学大学院文学研究科現代史学専修
永井和のホームページ
http://nagaikazu.la.coocan.jp/
永井和「久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺」
http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/asaakira.html


 
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公開日時: 2014.11.21.

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