前頁 「 彰 [彰信]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[彰仁]
 
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彰仁親王 あきひと
 
 小松宮 こまつのみや
 
もと 嘉彰親王 よしあき
純仁親王 [仁和寺御室]
嘉彰親王 [仁和寺宮のち東伏見宮] よしあき
 
【幼稱】
 「
豐宮」 ながのみや
 
【出自】
 邦家親王[伏見宮]の[八]男。
 仁孝天皇の養子。
 
【生母】
 家女房「盤瀬」
 堀内伊勢守嗣善の女子。
 のち堀内信子
 
【經歴】
弘化三年(一八四六)三月十六日、禪樂親王(邦家親王)の男子として出生。
「豐宮」
「豐宮」と命名。
「豐宮」 [仁和寺附弟]
弘化五年(一八四八)正月二十七日、仁和寺御室濟仁親王の附弟となる。
嘉永元年(一八四八)四月六日、仁孝天皇の養子となる。母儀は大典侍局藤原朝臣績子。
『詰所系圖』に「嘉永元年四月六(五イ)日御養子被仰出」とあり、『系圖綜覽』所收『皇室系譜』「小松宮」一〇五頁に、「同年【嘉永元年】四月五日爲仁孝天皇養子」とある。
「豐宮」 [仁和寺御室]
嘉永元年(一八四八)四月二十二日、仁和寺御室を相續
嘉永二年(一八四九)三月二十七日、御色直。
安政五年(一八五八)三月二十三日、名を「嘉彰(よしあき)」と賜わる。
嘉彰親王 [仁和寺御室]
安政五年(一八五八)三月二十七日、親王宣下
『言渡』安政五年三月廿六日
明日親王宣下。御名字宸筆一包、同訓一包等、以左馬權頭被出候 ・・・・・。
  嘉彰
  嘉彰 與志阿喜 
『言渡』安政五年三月廿七日
豐宮親王宣下。・・・・・
純仁親王 [仁和寺御室]
安政五年(一八五八)九月二十五日、仁和寺に入寺、得度。法名「純仁」。
『當職内覽中之記』安政五年九月二十六日
昨日仁門御入室・御得度無滯相濟候由。
 御名 純仁檀紙四ツ折上包同紙 
安政六年(一八五九)十二月十七日、一品に直敍される。
慶應三年(一八六七)十二月九日、還俗。同日、一品を辭し、あらためて二品に敍され、議定に任じられる。
『伏見宮日記』慶應三年十二月九日
『東伏見宮御達諸願伺屆書』慶應三年十二月九日
嘉彰親王 [仁和寺宮]
慶應三年(一八六七)十二月十五日、「仁和寺宮」の稱號を賜わる。
『東伏見宮御達諸願伺屆書』慶應三年十二月十五日
慶應三年(一八六七)十二月十六日、「嘉彰(ヨシアキ)」と復名する。
『議奏言渡』慶應三年十二月十六日
『職修記』慶應三年十二月廿二日
慶應四年(一八六八)正月四日、幕軍追討の征東大將軍を命じられる。
慶應四年(一八六八)三月十七日、元服。兵部卿に任じられる。
海陸軍務總督となり、戊辰戰爭に勲功あり。
明治二年(一八六九)七月八日、あらためて兵部卿に任じられる。
明治二年(一八六九)十二月二十三日、兵部卿を辭す。
嘉彰親王 [東伏見宮]
明治三年(一八七〇)正月二十九日、「東伏見宮」と改稱。
『太政官日誌』明治三年第三號/正月二十九日
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「小松宮」一〇五頁に、「同【明治】三年二月一日稱東伏見宮」とある。
明治三年、イギリスに留學。
明治三年十二月十日、太政官布告により、新立親王家は一代皇族と定められる。
『太政官日誌』明治三年第七十號(追録)/十二月十日
明治五年(一八七二)、歸朝。歐州の例にならい皇族は幼年より軍務に服すべきことを上書。受納される。
佐賀の亂、西南戰爭に出征。
國内軍事制度の整備、近衛師團の充實などに盡力する。
明治八年(一八七五)十二月三十一日、勲一等に敍される。
明治十四年(一八八一)一月十九日/二月五日、世襲皇族に列される。
『公文録』明治十四年/太政官、明治十四年一月十九日
明治十五年(一八八二)十二月七日、大勲位に敍される。
彰仁親王 [小松宮]
明治十五年(一八八二)十二月二十八日、「小松宮(こまつのみや)」と改稱、「彰仁(あきひと)」と改名する。
『公文録』明治十五年/宮内省
「小松宮」の稱號は仁和寺にちなむ。
明治二十三年(一八九〇)六月七日、陸軍大將に任じられる。
日清戰爭當時は、近衛師團長として大本營にあったが、參謀總長熾仁親王[有栖川宮]の薨逝により、明治二十八年(一八九五)一月二十六日、參謀總長に任じられる。
明治二十八年(一八九五)三月、征清大總督として出征する。
明治二十八年(一八九五)八月五日、功二級に敍される。
明治三十一年(一八九八)一月二十日、參謀總長を免じられ、元帥府に列す。
明治三十六年(一九〇三)二月十八日薨去。五十八歳。
明治三十六年(一九〇三)二月二十六日、豐島岡墓地に葬られる。
 
【墓所】
 東京都文京區大塚の豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 ョ子 よりこ
 彰仁親王[小松宮]妃
 有馬ョ咸[久留米]の一女。
 ※ 有馬ョ咸の妻は「焔{」(韶仁親王[有栖川宮]の女子、韶子)。
 嘉永五年(一八五二)六月十八日生。
 大正三年(一九一四)六月二十六日薨去。小松宮家廢絶。
 
【養子】
定麿王 のち依仁親王
 小松宮繼嗣(離)
 邦家親王[伏見宮]の[十七]男。
 明治十八年(一八八五)十二月二日、晃親王[山階宮]繼嗣を止め、彰仁親王[小松宮]繼嗣となる。
 明治十九年(一八八六)四月、明治天皇の養子となり、「依仁」と名を賜わり、親王宣下。
 明治三十六年(一九〇三)一月三十一日、小松宮繼嗣を止め、東伏見宮家を創立する。
 
【祭祀繼承者】
小松輝久 こまつ てるひさ
 能久親王[北白川宮(三)]の四男。
 侯爵
 もと輝久王
 
【逸事等】
明治十年(一八七七)、博愛社(後の日本赤十字社)が創設されると、同社總長となった。
 
【小松宮繼嗣問題】
彰仁親王[小松宮]には子がなかった。明治二十二年(一八八九)二月制定の『皇室典範』の第七章「皇族」第四十二條には「皇族ハ養子ヲ爲スコトヲ得ス」と定められていたが、『皇室典範』制定前に、弟 依仁親王を繼嗣としていた。その後、彰仁親王[小松宮]は、輝久王(能久親王の四男)を養子のように待遇していた。
 彰仁親王は、繼嗣依仁親王に遺産を傳える意思がなく、明治三十五年(一九〇二)四月、自身が臣籍降下した上で養子をとることを宮内大臣田中光顯に諮った。
 討議の結果、彰仁親王は、自身が臣籍降下するのではなく、輝久王を臣籍降下させて小松氏を稱させ、一方、依仁親王には小松宮繼嗣を止めて別に一戸を立てさせることを明治天皇に請願した。かくて、明治三十六年(一九〇三)一月三十一日(宮内省告示は二月二日)、依仁親王は小松宮繼嗣を止め東伏見宮家を創設した。しかし、輝久王の臣籍降下については、輝久王が未だ成年に達していなかったことと、『皇室典範』第七章「皇族」第三十條が永世皇族主義を採用して女子の降嫁以外の臣籍降下を認めていなかったことのため、見送られた。
 彰仁親王が同年二月十八日に薨逝した後、明治四十年(一九〇七)二月、『皇室典範増補』第一條において皇族男子の臣籍降下が認められた。そして、明治四十三年(一九一〇)七月二十日、輝久王の情願が許され、輝久王は臣籍降下して「小松」の家名を賜わり、侯爵を授けられ、小松宮家の祭祀を繼承することとなった。
『明治天皇紀』明治三十六年一月三十一日
 
【文獻等】
『詰所系圖』仁孝天皇、六七頁
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「小松宮」一〇五頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』、三九頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』、三三頁
武部敏夫「こまつのみやけ 小松宮家」(『國史大辭典』第六巻(一九八五年十一月第一版、吉川弘文館)、一三頁)
『皇室制度史料 皇族一』、二七〇〜二七一頁
『皇室制度史料 皇族三』、三一九〜三二一頁
『皇室制度史料 皇族四』、二〇二頁、二三四〜二三五頁

徳富猪一郎『(近世日本國民史)明治天皇御宇史 第六册 〔官軍東軍交戰史〕』(明治書院。昭和十六年(一九四一)十一月)


 
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更新日時: 2009.11.24.
公開日時: 2008.09.16.


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