● |
明治十八年(一八八五)十二月二日、勅旨を以て、梨本宮から實系に復せられ、晃親王[山階宮]の繼嗣となる。十三歳。
|
● |
明治十九年(一八八六)一月十日、麹町區富士見町に移轉。
|
● |
明治二十二年(一八八九)九月十七日、博恭王[華頂宮]と共にドイツ國海軍兵學校へ留學するよう、明治天皇の口達があり、江田島の海軍兵學校を退校。
|
● |
明治二十二年(一八八九)十一月十六日、ドイツ留學のため神戸より出港。十二月二十四日、ベルリンに到着。
|
● |
明治二十二年(一八八九)十二月二十六日、これまで明治七年(一八七四)三月十六日誕生とされていたのが、實日明治六年(一八七三)七月三日誕生に訂正される。
|
● |
明治二十三年(一八九〇)四月九日、キールのドイツ國海軍兵學校に入學。
|
● |
明治二十五年(一八九二)三月三十一日、ドイツ國海軍兵學校を卒業。
|
● |
明治二十五年(一八九二)四月十八日、海軍少尉候補生となる。
|
● |
明治二十六年(一八九三)四月二十七日、海軍少尉に任じられる。
|
● |
明治二十六年(一八九三)十月一日、ドイツ國海軍大學校に入學。
|
● |
明治二十六年(一八九三)十一月三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
|
● |
明治二十七年(一八九四)九月、ドイツ國海軍大學校を卒業、十一月十六日、歸國。
|
● |
明治二十八年(一八九五)二月七日、日清戰爭の威海衛の戰いに参加。
|
● |
明治二十八年(一八九五)五月五日、佐世保に凱旋。
|
● |
明治二十八年(一八九五)九月十四日、九條範子と結婚。
|
● |
明治二十八年(一八九五)十一月二十日、功五級金鵄勲章を賜わる。
|
● |
明治二十九年(一八九六)十一月二日、海軍大尉に任じられる。
|
● |
明治三十一年(一八九八)二月十七日、父晃親王が薨逝。
|
● |
明治三十五年(一九〇二)十月六日、海軍少佐に任じられる。
|
● |
明治三十五年(一九〇二)十一月二十六日、島津常子と結婚。
|
● |
明治三十六年(一九〇三)十一月三日、大勲位に敍される。
|
● |
明治三十七年(一九〇四)二月九日・二十五日、日露戰爭の旅順口海戰に参加。
|
● |
明治三十八年(一九〇五)一月十二日、海軍中佐に任じられる。
|
● |
明治三十九年(一九〇六)四月一日、功四級金鵄勲章を賜わる。
|
● |
明治四十一年(一九〇八)四月二十八日午前九時死亡(急性肺炎)。三十六歳。
|
● |
明治四十一年(一九〇八)五月一日、海軍大佐に任じられる。
|
● |
明治四十一年(一九〇八)五月二日「薨逝」(發喪)。「海軍大佐大勲位功四級菊麿王」
◎ |
『法令全書』明治四十一年五月 告示
○宮内省告示第七號
海軍大佐大勲位功四級菊麿王殿下今二日午前九時薨去セラル
明治四十一年五月二日 宮内大臣 伯爵田中光顯
|
|
※ |
菊麿王の發喪が遲れたのは、四月三十日に恒久王[竹田宮]と昌子内親王との婚儀が行なわれる予定があり、菊麿王薨去の公表により慶事が延期になることを避けるため、宮内大臣田中光顯は菊麿王薨去を秘匿し、五月二日午後三時にいたり、本日午前九時心臟痲痺のため薨去せられたと公表した。
|
|
● |
明治四十一年(一九〇八)五月七日葬送。「寶光院」
|