前頁 「 守 [守子A]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[守脩]
 
フレームなし

工事中

守脩親王 もりをさ
 
 梶井宮改め梨本宮(一)
 
もと 守脩親王
覺諄親王
昌仁親王
もと 圓滿院門跡
梶井門跡
天台座主
 
【幼稱】
 「
萬代宮」 まよのみや
 
【出自】
 貞敬親王[伏見殿]の[十]男。
 光格天皇(太上天皇)の養子。
 
【生母】
 合田愛子
 家女房。
 「梅操院」
 
【母儀】
 藤原朝臣正子
 「新大納言局」
 藤原朝臣基理[園]の猶子。
 藤原朝臣保季[高野]の女子。
 
【經歴】
文政二年(一八一九)十月二十九日(イ十一月一日、十二月一日、文政元年月日)生。
『詰所系圖』「伏見殿」七七頁
文政二年十一月一日生、
『系圖纂要』「伏見宮」五七〇頁
文政二年十二ノ一生
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「梨本宮」一〇四頁
文政二年十月二十九日誕生。
『新校群書類從』巻第六十『本朝皇胤紹運録』
文政元年月日誕生。
平成新修 旧華族家系大成 上巻』四一頁
文政二、一〇、二九生
萬代宮
「萬代宮」と稱號が定められる。
「萬代宮」[圓滿院門跡]
天保三年(一八三二)二月七日、圓滿院門跡を相續。十四歳。
『系圖纂要』「伏見宮」五七〇頁
天保三年二ノ七円滿院相續
天保三年(一八三二)四月七日(イ八日)、光格太上天皇の養子となる(母儀は新大納言局藤原朝臣正子)。
『詰所系圖』光格天皇、六四頁
天保三辰年四月八日御養子被仰出(五月十日御弘)
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「梨本宮」一〇四頁
天保三年四月七日爲光格天皇養子、繼圓滿院門室。
守脩親王[圓滿院門跡]
天保四年(一八三三)四月八日、親王宣下。諱「守脩(モリヲサ)」。
『職寅記』天保四年四月八日戊申
屬リ、臨夕又雨下。
一、圓滿院宮【萬代宮】親王宣下也。
・・・・・
  上卿 花山院大納言家厚卿
  辨  日野西右中辨光暉朝臣
  奉行 甘露寺權右中辨愛長
『伏見宮系譜』「守脩(【モリヲサ】)親王」
天保四癸巳年四月八日親王宣下(十六)。俗名守脩。勅別當園中納言基茂卿 上卿花山院權大納言藤原家厚卿 辨日野西右中辨藤原光暉 奉行甘露寺藏人權右中辨藤原朝臣愛長
 勅別當園中納言基茂卿
御名字守脩(茂利遠佐)
稿本仁孝天皇實録』六七九〜六八〇頁 天保四年四月八日「伏見宮貞敬親王ノ王子ニ親王宣下アリ、名ヲ守脩ト賜フ、」
覺諄親王[圓滿院門跡]
天保四年(一八三三)九月二十六日、圓滿院に入寺、得度。法名「覺諄」。十三歳。
天保十三年(一八四二)八月二十九日、差控。
天保十三年(一八四二)九月二十二日、差控を免じられる。
安政三年(一八五六)十二月十五日、二品に敍される。
『系圖纂要』「伏見宮」五七〇頁
安政三年十二ノ五二品
覺諄親王[梶井門跡]
安政六年(一八五九)六月二十日、梶井門跡を相續。
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「梨本宮」一〇四頁
同【安政】六年六月二十日更繼梶井圓融房。
昌仁親王[梶井門跡]
安政六年(一八五九)七月四日、梶井圓融房に入寺、「昌仁」と改名。
安政六年(一八五九)九月二十七日、天台座主に任じられる。
文久二年(一八六二)五月七日、天台座主を辭す。
文久二年(一八六二)閏八月二十三日、天台座主に再任される。
慶應四年(一八六八)閏四月十五日、復飾(四月十七日の還俗令による。智成親王と同時)。あらためて三品に敍される。
『梨本宮日記(別記)』慶應四年閏四月十五日(『皇族制度史料 皇族三』三九六〜三九七頁所引
太政官代辨事ヨリ昨日御招ニ付、罷出候處、田中國三カ面會。達書二通、如左。
               梶井宮【昌仁親王】
  願之通、復飾被仰出候事。
  閏四月
 右壹通、奉書半切。
『梨本宮御達諸願伺屆留』慶應四年閏四月十五日(『皇族制度史料 皇族四』二〇五〜二〇六頁所引
大政官代辨事ヨリ御招ニ付、罷出候處、田中國三カ面會。御達書貳通、如左。
              梶井宮【昌仁親王】
  願之通、復飾被仰出候事。
    閏四月
 右壹通、料紙奉書半切。
守脩親王[梶井宮]
慶應四年(一八六八)閏四月十六日、「守脩」と復名。「梶井宮(かぢゐのみや)」と稱す。
『梨本宮日記(別記)』慶應四年閏四月十六日(『皇族制度史料 皇族三』三九七頁所引
辨事御役所被差出書付、如左。
  今般御復飾被仰出候ニ付、別紙之通御復名被成候。依此段御屆被成候。以上。
  後四月十六日         (【傍注】梶井宮御使)入谷西市佑
  辨事御役所
 右壹通。
    守脩モリヲサ
 右壹通。
『梨本宮御達諸願伺屆留』慶應四年閏四月十六日(『皇族制度史料 皇族四』二〇六頁所引
辨事御役所差出書付、如左。
  今般御復飾被仰出候ニ付、別紙之通御復名被成候。依而此段御屆被成候。以上。
   後四月十六日  (【傍注】梶井宮御使)入谷西市佑
   辨事御役所
 右壹通。
    守脩モリヲサ
 右壹通。
慶應四年(一八六八)閏四月二十四日、二品を停められ、あらためて三品となる。
『伏見宮日記』慶應四年閏四月廿四日
一、梶井宮【昌仁親王】御内入谷西市佐【祐】より左之通申來。
  然者此御方二品被止、三品宣下被爲蒙仰、且又守脩親王御復名被仰出候。依而御吹聽被仰進候。此段各方迄可得御意。如此御座候。以上。
    後四月廿四日
明治元年(一八六八)九月十八日、元服。上野太守に任じられる。
明治三年(一八七〇)十月四日、「梶井宮」の稱は門跡との區別が判然とし難いとの理由で改稱を命じられる。
『太政官日誌』明治三年第四十三號/十月四日
  御沙汰書寫
              華頂宮【博經親王】
           各通 梶井宮【守脩親王】
              昭高院宮【照高院宮智成親王】
先般復飾後稱號其儘ニテ門跡區別判然難相立候ニ付、更ニ改稱被仰付候事。
 但稱號相撰早々可伺出事。
守脩親王[梨本宮]
明治三年(一八七〇)十一月三十日、「梨本宮」と改稱。
『太政官日誌』明治三年第四十三號/十月四日
『法令全書』明治三年/第八百八十二
十一月三十日(沙)(太政官)
梶井宮【守脩親王】自今梨本宮ト稱候事。
明治三年(一八七〇)十二月十日、太政官布告明治三年第七十號(追録)により、新立親王家は一代皇族と定められる。
『太政官日誌』明治三年第七十號(追録)/十二月十日
明治八年(一八七五)十二月三十一日、勲一等に敍される。
明治十三年(一八八〇)五月十八日、二品に敍される。
明治十四年(一八八一)九月一日薨。六十三歳。
『法令全書』明治十四年/太政官布告
九月二日
二品勲一等守脩親王、昨一日午後二時三十分薨去ニ付、三日ノ間歌舞音曲等令停止候。此旨布告候事。
明治十四年(一八八一)九月十三日葬。
 
【墓所】
 京都市上京区今熊野皇族墓地
 
【養子】
菊麿王
梨本宮(二)
晃親王[山階宮]の一男。
のち山階宮に復す。
 
【文獻等】
『皇室制度史料 皇族二』 六六頁
『皇室制度史料 皇族三』 三九六〜三九七頁
『皇族制度史料 皇族四』 二〇四〜二〇六頁、二二〇頁
『詰所系圖』光格天皇、六四頁
『詰所系圖』伏見殿、七十七頁
『系圖纂要』「伏見宮」五七〇頁
『系圖綜覽』所収『皇室系譜』「梨本宮」一〇四頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』、四一頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』、三五頁


 
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公開日時: 2008.12.16.

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