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慶應四年(一八六八)閏四月十六日、「守脩」と復名。「梶井宮(かぢゐのみや)」と稱す。
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『梨本宮日記(別記)』慶應四年閏四月十六日(『皇族制度史料 皇族三』三九七頁所引)
辨事御役所ヘ被差出書付、如左。
今般御復飾被仰出候ニ付、別紙之通御復名被成候。依而此段御屆被成候。以上。
後四月十六日 (【傍注】梶井宮御使)入谷西市佑
辨事御役所
右壹通。
守脩
右壹通。
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『梨本宮御達竝諸願伺屆留』慶應四年閏四月十六日(『皇族制度史料 皇族四』二〇六頁所引)
辨事御役所江差出書付、如左。
今般御復飾被仰出候ニ付、別紙之通御復名被成候。依而此段御屆被成候。以上。
後四月十六日 (【傍注】梶井宮御使)入谷西市佑
辨事御役所
右壹通。
守脩
右壹通。
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慶應四年(一八六八)閏四月二十四日、二品を停められ、あらためて三品となる。
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『伏見宮日記』慶應四年閏四月廿四日
一、梶井宮【昌仁親王】御内入谷西市佐【祐】より左之通申來。
然者此御方二品被止、三品宣下被爲蒙仰、且又守脩親王ト御復名被仰出候。依而御吹聽被仰進候。此段各方迄可得御意。如此御座候。以上。
後四月廿四日
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明治元年(一八六八)九月十八日、元服。上野太守に任じられる。
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明治三年(一八七〇)十月四日、「梶井宮」の稱は門跡との區別が判然とし難いとの理由で改稱を命じられる。
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『太政官日誌』明治三年第四十三號/十月四日
御沙汰書寫
華頂宮【博經親王】
各通 梶井宮【守脩親王】
昭高院宮【照高院宮智成親王】
先般復飾後稱號其儘ニテ門跡區別判然難相立候ニ付、更ニ改稱被仰付候事。
但稱號相撰早々可伺出事。
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