藤麿王 / 筑波藤麿
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菊麿王妃 島津忠義の三女。 |
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明治三十八年(一九〇五)二月二十五日午後十時十五分、東京市麹町區富士見町の山階宮邸において出生。
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藤麿王 | |||||||
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明治三十八年(一九〇五)三月三日、「藤麿(フヂマロ)」と命名。
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大正十三年(一九二四)三月三十一日、學習院高等科を卒業。 | ||||||
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大正十三年(一九二四)四月十五日、東京帝國大學文學部國史科に入學。 | ||||||
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大正十四年(一九二五)三月二十三日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。 | ||||||
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大正十四年(一九二五)三月二十五日、成年式。
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昭和二年(一九二七)三月三十一日、東京帝國大學文學部國史科を卒業。 | ||||||
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昭和二年(一九二七)四月二十一日、東京帝國大學大學院に入學、奈良時代史を研究する。 | ||||||
筑波藤麿 [侯爵] | |||||||
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昭和三年(一九二八)七月二十日、臣籍降下。「筑波(ツクバ)」の家名を賜わり、侯爵を授けられ、從四位に敍される。
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昭和三年(一九二八)十月二十八日、毛利高範[佐伯]の五女 喜代子と結婚。
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昭和七年(一九三二)三月三十一日、東京帝國大學大學院を修了。 | ||||||
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昭和八年(一九三三)八月一日、正四位に敍される。 | ||||||
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昭和十年(一九三五)二月二十五日、貴族院議員となる。 | ||||||
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昭和十四年(一九三九)八月十五日、從三位に敍される。 | ||||||
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昭和二十一年(一九四六)一月二十五日、靖國~社宮司となる。
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昭和二十一年(一九四六)三月二十四日、妻 喜代子が歿。 | ||||||
筑波藤麿 | |||||||
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昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本國憲法の施行により、華族(侯爵)・貴族院議員の身位を喪失する。 | ||||||
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昭和二十二年(一九四七)十一月二十日、三好貞子(肥田和三郎の三女)と結婚。 | ||||||
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昭和二十五年(一九五〇)一月、靖國~社の評議委員會により、あらためて靖國~社宮司に選任される。 | ||||||
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昭和四十八年(一九七三)十月一日、妻 貞子が歿。 | ||||||
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昭和五十三年(一九七八)三月二十日午前六時十分、横濱市磯子區弘明寺の田仲醫院において、心筋梗塞により死去。七十三歳。 | ||||||
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昭和五十三年(一九七八)三月二十三日、葬儀。 | ||||||
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昭和五十三年(一九七八)六月二十七日、埋葬祭、納骨。院號「嘯月院」。 |
毛利高範[佐伯]の五女。 明治四十二年(一九〇九)四月三日生。 昭和三年(一九二八)十月二十八日、筑波藤麿と結婚。 昭和二十一年(一九四六)三月二十四日、死去。三十八歳。
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肥田和三郎の三女。 明治四十年(一九〇七)八月二十七日生。 もと三好禎介の妻。 昭和二十二年(一九四七)十一月二十日、筑波藤麿と結婚。 昭和四十八年(一九七三)十月一日、死去。 |
早稻田大学政治經濟学部教授(專門、自然科學史・科學技術史・農業史) 科學評論家(自然科學史、日本農學史) 昭和五年(一九三〇)九月九日生。 昭和二十年(一九四五)四月、海軍經理學校に入校(第三十九期生)。
昭和二十四年(一九四九)、東北大學農學部に入學。 昭和二十八年(一九五三)、東北大學農學部農學科を卒業し、東北大學大學院農學研究科に入學。 昭和三十一年(一九五六)、東北大學大學院農學研究科修士課程を修了(專攻、作物遺傳育種學)。 昭和三十一年(一九五六)より法政大學に勤務。助手、專任講師、助ヘ授を歴任(擔當、「生物學」「科學史」)。 昭和四十三年(一九六八、法政大學を依願退職し、青山學院女子短期大學助ヘ授となる(擔當、「自然科學概論」「科學文化史」)。 昭和四十五年(一九七〇)、青山學院女子短期大學を依願退職。昭和五十六年(一九八一)まで科學評論家として文筆業。早稻田大學教育學部等において非常勤講師。 昭和五十七年(一九八二)、早稲田大学政治經濟学部助ヘ授となる。 昭和六十二年(一九八七)、早稻田大学政治經濟学部ヘ授に昇進。 早稻田大學の所謂「名物ヘ授」の一人であり、緑色が大好きであつたことでも大變に有名。即ち、服装の色調を緑色で統一し、眼鏡の縁も緑色。大學での連絡掲示も緑色地の用紙に緑色のペンで字が書かれてゐたといふ。なお、住所も東京都武藏野市緑町。早稻田大學の學生には、筑波教授の擔當する授業を全て履修することを「りゅーいーそー(緑一色)」と稱する隱語まであつた。 平成十三年(二〇〇一)三月、早稻田大学政治經濟学部を定年退職。 平成二十四年(二〇一二)四月十三日歿。 趣味: 旅行 相撲(見物) 喜劇映画 著書 :
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昭和七年(一九三二)生。 松浦擇(まつら えらむ。松浦陞の三男)の妻。 『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』(京都、宮帯出版社、二〇一五年九月)の著者、深澤光佐子氏の母。 ※『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 六五四頁 |
もと筑波常秀 つくば ひさひで 昭和十年(一九三五)生。 勸修寺の繼嗣となり、高校三年生のとき東寺高校(のちの洛南高校)へ轉校。 昭和二十九年(一九五四)、東寺高校を卒業。種智院大學に入學。 昭和二十九年(一九五四)十月、鷲尾光遍[石山寺座主]を師に得度。 昭和三十三年(一九五八)、種智院大學密教學科を卒業。 昭和四十二年(一九六七)、眞言宗山階派管長となり、大本山勸修寺門跡を繼承。 趣味: 書畫 著書 : 筑波常遍/横山健蔵『京の古寺からC 勧修寺』(京都、淡交社、一九九五年二月) 七四〜七五頁 ●『新訂現代日本人名録98』3(日外アソシエーツ株式会社、一九九八年一月)561頁「筑波 常遍 つくば じょうへん」 |
昭和二十四年(一九四九)生。母は貞子。 宮内庁掌典 |
筑波藤麿の養女。母は貞子。三好禎介の長女。 昭和六年(一九三一)生。 山本光英の妻。 ※『平成新修 旧華族家系大成 下巻』一〇〇頁には不見。 |
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明治四十三年(一九一〇)二月七日、明治天皇より、武彦王は將來海軍に、芳麿王は陸軍に奉職させ、藤麿王は伊勢神宮祭主に人無き時は之に任ぜられんとの叡旨あり。よって、軍人にならず、東京帝國大學文學部國史科に入學した。
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勸修寺(祖父晃親王が門跡をつとめた)の門跡となる話もあったが、實現しなかった。
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昭和四年(一九二九)九月一日、自宅に筑波家研究部(昭和十八年(一九四三)四月十五日、筑波家國史研究部と改稱)を創立。國史關係の年鑑の編集を行なう。また、六國史索引の作成を始め、この事業は、戰後、吉川弘文館が繼承し、完成させた。 | |||||||||
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藤麿と同年生まれの宣仁親王[高松宮]は、戰災に遭った藤麿一家に配慮している。
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昭和四十五年(一九七〇)六月三十日の靖國~社總代會で、青木一男(元大東亞相)の強硬な主張によって極東軍事裁判A級戰犯を靖國~社に合祀する方針が決められた。ただし、合祀の時期は宮司に任せる、とされた。宮司の筑波藤麿は、A級戰犯を「戰爭責任者として合祀しないとなると~社の責任は重いぞ」という青木一男による脅迫まがいの主張に對して、「ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい」と答え、實施を延ばし、結局、在任中は遂にA級戰犯合祀を行なわなかった。
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靖國~社宮司が筑波藤麿から松平永芳に代わって間もなく、昭和五十三年(一九七八)十一月、秘密裏にA級戰犯合祀が實施された。翌年四月、それが新聞に報道され、さらに、中曾根康弘總理大臣の靖國~社參拜により、批判が生じるに到った。A級戰犯合祀について、徳川義寛は、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と語っている。 なお、松平永芳は、宮内廳に、コ仁親王[浩宮]が「御成年におなりになつたのだから靖國~社に御參拜になるべきだ」と言ってきたり、コ仁親王[浩宮]のオックスフォード留學に反對するという「馬鹿なこと」を言ってきたりしている人物である。また、松平永芳は、新發現の『宣仁親王日記』を燒却すべきであると意見しており、歴史に對する認識に著しく缺けた人物でもあったことが窺われる。
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『山階宮三代』下(山階會(和田軍一)編集。山階會、昭和五十七年(一九八二)二月) 七五〇〜七五五頁 |
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『平成新修 旧華族家系大成 下巻』 一〇〇頁 |
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『昭和新修 華族家系大成 下巻』 九四頁 |
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毎日新聞「靖国」取材班『靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男』(東京、毎日新聞社、二〇〇七年八月) 第二部「A級戦犯を合祀しなかった宮司」(97〜150頁) |
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筑波常治『破約の時代』(東京、講談社、一九五九年) |
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坂本太郎「筑波藤麿氏を憶う」(坂本太郎著作集編集委員会編『坂本太郎著作集 第十一巻 歴史と人物』吉川弘文館、一九八九年) |
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