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『 日本の親王 ・ 諸王 』
より
臣 籍 降 下 ・ 賜 姓 表
自元永元年 至慶應四年
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臣 籍 降 下 ・ 賜 姓 表
自仁和元年 至永久六年
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臣籍降下・賜姓日時
臣籍降下・賜姓者
出 自
氏 姓
備考
典據
元永二年(
一一一九
)八月十四日
有仁王
輔仁親王(三宮)の男子。
後三條院の孫
源朝臣
即日、從三位に敍される。
『中右記』元永二年八月十四日
『長秋記』元永二年八月十四日
『公卿補任』元永二年
治承四年(
一一八〇
)五月十六日
以光王
後白河院の男子(二宮)
源朝臣
以仁王
のこと。
號「高倉宮」
「三條宮」
「三條高倉宮」
『玉葉』治承四年五月十六日
『山槐記』治承四年五月廿七日戊寅
文永七年(
一二七〇
)十二月二十日
惟康王
宗尊親王の男子。
後嵯峨院の孫
源朝臣
弘安十年(
一二八七
)十月四日、親王宣下。
『公卿補任』文永七年
永仁二年
(
一二九四
)三月二十二日
〜永仁四年
(
一二九六
)十二月三十日
の間
歟
彦仁王
忠成王の男子。
順徳院の孫
源朝臣
號「石藏三郎宮」
『歴代皇記』
『公卿補任』永仁五年
嘉暦三年(
一三二八
)六月十三日
久良王
久明親王の男子。
後深草院の孫
源朝臣
即日、從三位に敍される。
元徳二年(
一三三〇
)二月十日、親王宣下。
『公卿補任』嘉暦三年
建武三年(
一三三六
)正月二十六日以前
(
宗治
)
後醍醐院の猶子。
眞覺[
早田宮僧正
]の男子。
宗尊親王の孫。
後嵯峨院の曾孫
源朝臣
建武三年正月二十六日、從三位に敍される。
『公卿補任』延元元年
建武五年(
一三三八
)八月十一日
宗明王
久良親王の男子。
後深草院の曾孫。
藤原朝臣道平[二條]の猶子
源朝臣
同日、從四位下に敍された後に賜姓。
『公卿補任』暦應四年
文和五年(
一三五六
)正月六日
善成王
尊雅王の男子。
善統親王の孫。
順徳院の曾孫。
藤原朝臣良基[二條]の猶子
源朝臣
號「
四辻宮
」
『公卿補任』延文元年
慶長十年(
一六〇五
)八月二十八日
「
二宮
」
後陽成院の二宮
(藤原朝臣)
藤原朝臣信尋
[
近衛
]
藤原朝臣信尹[近衛]の猶子となる。
『慶長日件録』慶長十年八月廿七・廿八日
慶長十四年(
一六〇九
)正月二十五日
「
九宮
」
後陽成院の九宮
(藤原朝臣)
藤原朝臣兼遐
[
一條
]
故
藤原朝臣内基[一條]の猶子となり一條家を相續。
のち
藤原朝臣昭良
[
一條
]
『御湯殿上日記』慶長十四年正月廿五日
『孝亮宿禰記』慶長十四年正月廿五日
寛文三年(
一六六三
)十一月二十二日
「
三宮
」
「
幸丸
」
(
忠幸
)
智仁親王[
八條宮
]の三男。
正親町院の曾孫
源朝臣
家號「
廣幡
」。
清華に列す。
『禁裏番衆所日記』寛文三年十一月廿二日
『家仁親王記』「八條宮忠幸源姓廣幡稱號竝官位之事」寛文三年十一月廿二日
寛保三年(
一七四三
)十月二十八日
「
淳宮
」
櫻町院の猶子
直仁親王[閑院殿]の男子
(藤原朝臣)
藤原朝臣輔平
[
鷹司
]
藤原朝臣兼香[一條]の養子となり、
故
藤原朝臣基輝[鷹司]の跡を相續。
『通兄公記』寛保三年十月五日甲寅・廿七日丙子・廿八日丁丑
『八槐記』寛保三年十月廿八日
天保三年(
一八三二
)正月二十三日
「
他宮
」
韶仁親王[有栖川殿]の四男
(藤原朝臣)
藤原朝臣公潔
[
西園寺
]
藤原朝臣寛季[西園寺]の實子となる。
『有栖川宮日記』天保三年正月六日甲寅・廿三日辛未・廿五日癸酉・廿六日甲戌
天保十三年(
一八四二
)七月二十二日
濟範親王
勸修寺宮
光格天皇の養子。
貞敬親王[伏見殿]の九男
(實は邦家親王[伏見殿]の一男)
光格天皇養子、親王宣下、二品、勸修寺住職等を停められ、伏見宮より除籍される。
文久四年(
一八六四
)正月九日、伏見宮に復系。のちの
晃親王
[
山階宮
]
『外樣言渡』天保十三年七月廿二日
『山階宮三代』上「晃親王」天保十三年七月二十二日
天保十三年(
一八四二
)七月二十二日
「
幾佐宮
」
貞敬親王[伏見殿]の十一女
「被除伏見家傳系、剃髪之上於瑞龍寺室籠居被仰付候」
沒後の元治二年(
一八六五
)正月二十八日、伏見宮に復籍。
少外記平田家記録 K61-85 『平田家日次記』天保十三年七月廿三日
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臣籍降下 ・ 授爵表
自明治元年 至昭和二十年
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更新日時 : 2010.07.16.
公開日時 : 2000.07.02.
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