源宗明


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[宗明]

フレームなし


宗明王
 のち源朝臣宗明
 
【官位】
 從一位
 權大納言
 
【稱號】
 「宮大納言」
『師守記』貞和五年【一三四九】十一月一日戊午
 「土御門入道一位

伏見宮本『等持寺殿三十三回忌御八講五卷日捧物注文』
 
【法名】
 素滿
『公卿補任』永和五年、前權大納言 從一位「源宗明」
 
【出自】
 久良親王「土御門入道親王」。花園院の猶子)の男子。
 久明親王の孫。
 後深草天皇の曾孫。
 藤原朝臣道平[二條]の猶子か。
『本朝皇胤紹運録』久良親王の子「源宗明」尻付に、
權大納言。實父關白道平公
とあるが、誤りか。なお、宗明の父、久良親王は、關白藤原朝臣道平の亭で元服し、道平が加冠役を勤めている。なお、『尊卑分脈』後深草源氏「久良親王」の子「宗明」にも、
實者〔わまか无〕関白道平子〔三字わまか公男〕

   〔權大納言從一わまか
   猶子〔猶子わまか无〕
───宗明
    母〔わまか无〕
とある。これによると、宗明は、實は關白藤原朝臣道平[二條]の子であり、久良親王の猶子であるとされる。なお、脇坂本・前田一本・内閣文庫本『尊卑分脈』には、
関白道平公男
   權大納言從一
───宗明
とあるのみで、「猶子」とは見えない。「関白道平公男」とあるのも、「爲関白道平公男」とあるべきものか。
 
【經歴】
一三三〇(元コ二年)生。
『公卿補任』文和五年以前、延文六年〜應安二年の年齡からは、一三三〇(元コ二年)生と逆算される。
『公卿補任』延文二年〜延文五年の年齡からは、一三二九(嘉暦四年/元コ元年)生と逆算される。
『公卿補任』應安四年〜應安六年の年齡からは、一三三一(元コ三年/元弘元年)生と逆算される。
宗明が元コ二年(一三三〇)年二月十一日以前の出生であれば、宗明は、源朝臣久良の男子として生まれたこととなる。
宗明王
源朝臣宗明
建武五年(一三三八)八月十一日、無位から從四位下に直敍、源朝臣を賜姓される。
『玉英記鈔』宦位部、暦應元【建武五年】八[月]十一[日]
有勅問。「土御門入道親王【久良親王】息宗明王四品直敍、不可有難歟」。申云。「入道親王【久良】爲新院【花園院】御猶子之上者、可被許哉」。
侍從に任じられる。
暦應二年(一三三九)四月十八日、左近衞權中將に任じられる。
暦應三年(一三四〇)七月十九日、正四位下に敍される。
暦應四年(一三四一)四月十六日、從三位に敍される。十二歳。
『公卿補任』暦應四年、非參議 從三位「源宗明(十二)」
【尻付】四月十六日叙。左中將如元。
【袖書】入道久良親王男(後深草院御曾孫。一品久明親王孫)。
建武五年八月十一日從四下。賜源氏姓。任侍從。暦應二年四月十八日任左近中將。三年七月十九日叙正四下(二階)。
『公卿補任』康永元年【一三四二】、非參議 從三位「源宗明(十三)」尻付
右【ママ】中將。
『公卿補任』康永二年【一三四三】、非參議 從三位「源宗明(十四)」尻付
左近權中將。
『公卿補任』康永三年【一三四四】、非參議 從三位「源宗明(十五)」尻付
左中將。
康永四年(一三四五)四月十六日、正三位に敍される。十六歳。
『園太暦』康永四年四月十六日
正三位源宗明
『公卿補任』康永四年、非參議 從三位「源宗明(十六)」尻付
左中將。四月十六日叙正三位。
貞和二年(一三四六)二月十八日、權中納言に任じられる。十七歳。
『公卿補任』貞和二年、非參議 正三位「*源宗明(十七)」尻付
左中將。二月十八日任權中納言。
『公卿補任』貞和二年、權中納言 正三位(【右傍注】位冬通上)「源宗明」尻付
二月十八日任。元左中將。
『公卿補任』貞和三年【一三四七】、權中納言 正三位「源宗明」尻付
(なし)
貞和四年(一三四八)四月十二日、從二位に敍される。十九歳。
『園太暦』貞和四年四月十二日
今日被行縣除目下名云々。
   下名加任聞書
 ・・・・・
   貞和四年四月十二日
 ・・・・・
 従二位源宗明 ・・・・・
 ・・・・・
『公卿補任』貞和四年、權中納言 正三位「*源宗明」尻付
貞和四年(一三四八)十二月二十四日、權大納言に任じられる。
『公卿補任』貞和四年、權中納言 正三位「*源宗明」尻付
四月十二日叙從二位。十二月廿四日任權大納言。
『公卿補任』貞和四年、權大納言 從二位(【右傍注】位實夏下)「源宗明(十九)」尻付
十二月廿四日轉。
『公卿補任』貞和五年【一三四九】、權大納言 從二位「源宗明(二十)」尻付
(なし)
『公卿補任』貞和六年【一三五〇】、權大納言 從二位「源宗明(二十一)」尻付
(なし)
『公卿補任』觀應二年【一三五一】、權大納言 從二位「源宗明(二十二)」尻付
(なし)
『公卿補任』觀應三年【一三五二】、權大納言 從二位「源宗明(二十三)」尻付
(なし)
『公卿補任』文和二年【一三五三】、權大納言 從二位「源宗明(二十四)」尻付
(なし)
文和三年(一三五四)十月二十二日、權大納言を辭任。二十五歳。
『公卿補任』文和三年、權大納言 從二位「源宗明(二十五)」尻付
十月廿二日辭退。
『公卿補任』文和三年、前權大納言 從二位「源宗明(二十五)」尻付
十月廿二日辭退。
文和四年(一三五五)八月十三日、正二位に敍される。二十六歳。
『公卿補任』文和四年、前權大納言 從二位(【右傍注】〔公卿位記追被書入例さ〕)「源宗明(二十六)」尻付
八月十三日叙正二位(追被書入)。
『公卿補任』文和五年【一三五六】、前權大納言 正二位「源宗明(二十七)」尻付
(なし)
『公卿補任』延文二年【一三五七】、前權大納言 正二位「源宗明(二十九【ママ】)」尻付
(なし)
『公卿補任』延文三年【一三五八】、前權大納言 正二位「源宗明(三十【ママ】)」尻付
(なし)
『公卿補任』延文四年【一三五九】、前權大納言 正二位「源宗明(三十一【ママ】)」尻付
(なし)
延文五年(一三六〇)四月十六日、從一位に敍される。三十一歳。
『後深心院關白記』延文五年四月十六日壬申
今夜被行小除目云々。任人注裏。
【裏書】從一位源宗明
『公卿補任』延文五年、前權大納言 正二位「源宗明(三十二【ママ】)」尻付
四月日敍從一位。
『公卿補任』延文六年【一三六一】、前權大納言 從一位「源宗明(三十二)」尻付
(なし)
『公卿補任』康安二年【一三六二】、前權大納言 從一位「源宗明(三十三)」尻付
(なし)
『公卿補任』貞治二年【一三六三】、前權大納言 從一位「源宗明(四十四【ママ】)」尻付
(なし)
『公卿補任』貞治三年【一三六四】、前權大納言 從一位「源宗明(三十五)」尻付
(なし)
『公卿補任』貞治四年【一三六五】、前權大納言 從一位「源宗明(三十六)」尻付
(なし)
『公卿補任』貞治五年【一三六六】、前權大納言 從一位「源宗明(三十七)」尻付
(なし)
『公卿補任』貞治六年【一三六七】、前權大納言 從一位「源宗明(三十八)」尻付
(なし)
『公卿補任』貞治七年【一三六八】、前權大納言 從一位「源宗明(三十九)」尻付
(なし)
『公卿補任』應安二年【一三六九】、前權大納言 從一位「源宗明(四十)」尻付
(なし)
『公卿補任』應安三年【一三七〇】、前權大納言 從一位「源宗明」尻付
(なし)
『公卿補任』應安四年【一三七一】、前權大納言 從一位「源宗明(四十一)」尻付
(なし)
『公卿補任』應安五年【一三七二】、前權大納言 從一位「源宗明(四十二)」尻付
(なし)
『公卿補任』應安六年【一三七三】、前權大納言 從一位「源宗明(四十三)」尻付
(なし)
『公卿補任』應安七年【一三七四】、前權大納言 從一位「源宗明」尻付
(なし)
『公卿補任』應安八年【一三七五】、前權大納言 從一位「源宗明」尻付
(なし)
『公卿補任』永和二年【一三七六】、前權大納言 從一位「源宗明」尻付
(なし)
『公卿補任』永和三年【一三七七】、前權大納言 從一位「源宗明」尻付
(なし)
『公卿補任』永和四年【一三七八】、前權大納言 從一位「源宗明」尻付
(なし)
永和五年/康暦元年(一三七九)歟、出家。
『公卿補任』永和五年、前權大納言 從一位「源宗明」尻付
出家。不知年月日。[素滿歟。(やし)]
明コ元年(一三九〇)四月二十五日に始まった、足利義滿が催した足利尊氏の三十三回忌御八講において、捧物を獻じた。
伏見宮本『等持寺殿三十三回忌御八講五巻日捧物注文』
土御門入道一位  水瓶一口
 居柳筥
 俗名宗明
赤坂恒明「柳原宮考 ── 大覚寺統の土御門宮家 ──」(日本史史料研究会研究会報『ぶい&ぶい』(無為 無為)第二十七号、日本史史料研究会、二〇一四年五月)19頁 注(46)
 
【著述等】
 ●『つくば集』に入集。
 
【備考】
『帝系圖』に、
久良親王
征夷大將軍
───────
母前中納言爲相女
守明親王
征夷大將軍
───────
二品入道
宗明
前大納
言從一

とあり、宗明を久良親王の孫と作すが、久良親王に守明親王なる男子が存在したとは認め難く、誤りであろう。
 
【文獻等】
C水正健『皇族考證』第肆巻、三百二十七頁
稿本後深草天皇實録』 には、「皇曾孫」として宗明王は擧げられていない。


 
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更新日時: 2020.03.26.
公開日時: 2008.10.22.


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