● |
文化十四年丁丑(一八一七)正月三十日申上刻、有栖川宮諸大夫前川大宰少監茂徽の家において誕生。
※ |
『公卿補任』天保七年には「文化十五二一誕生」とある。
|
|
「他宮」 よそのみや
|
● |
文化十四年(一八一七)二月六日、幼稱を「他宮」と賜わる。
|
● |
文化十四年(一八一七)二月二十日、生母と共に有栖川宮諸大夫粟津圖書頭義毅の家に移る。
|
● |
文化十四年(一八一七)五月二十五日、太秦村大石兵庫晴昌の家に移る。
|
● |
文政三年(一八二〇)八月五日、有栖川宮諸大夫豐嶋越前守茂徽(もと前川大宰少監)の家に移る。
|
● |
文政三年(一八二〇)十月三日、有栖川宮諸大夫粟津圖書頭義毅の家に移る。
|
● |
後、再び太秦村大石兵庫晴昌の家に移る。
※ |
「他宮」が丑年の誕生であるため、先例により、有栖川宮邸に移らず外住を續けた、という。
|
|
● |
文政六年(一八二三)八月七日、關東大奧向に誕生を披露。
|
● |
文政七年(一八二四)三月四日、有栖川宮土手町別邸に移る。
|
「他宮」[聖護院附弟]
|
● |
文政七年(一八二四)閏八月二十五日、聖護院門跡盈仁親王の所望により、附弟に内約。
※ |
『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁は「七年八ノ廿五聖護院附弟内約」と作す。
|
|
● |
文政九年(一八二六)九月二日、宣子女王を嫡母と内定する。
|
「他宮」
|
● |
文政九年(一八二六)十一月四日、事情により聖護院附弟を破約される。
|
● |
文政九年(一八二六)十二月十三日、深曾木・著袴。
|
● |
文政十年(一八二七)三月十七日、叔母にあたる中宮寺宮榮暉のもとに寄寓するため、内々に、土手町別邸より発輿。翌十八日、中宮寺に到着。十一歳。
|
● |
天保二年(一八三一)二月四日、中宮寺より発輿、同月六日、大坂の有栖川宮御屋敷に到着。
|
● |
天保二年(一八三一)十一月十八日、歸洛、有栖川宮本邸に入る。十五歳。
|
● |
天保二年(一八三一)、西園寺家より西園寺家相續のため所望される。
◎ |
『有栖川宮日記』天保二年十一月十日戊午(『皇室制度史料 皇族一』 一五二〜一五三頁)
|
◎ |
『有栖川宮日記』天保二年十二月五日癸未(『皇室制度史料 皇族一』 一五三〜一五四頁)
|
◎ |
『有栖川宮日記』天保三年正月五日癸丑(『皇室制度史料 皇族一』 一五四頁)
|
◎ |
『有栖川宮日記』天保三年正月六日甲寅(『皇室制度史料 皇族一』 一五四〜一五五頁)
|
|
「他宮」[西園寺]
|
● |
天保三年(一八三二)正月二十三日、西園寺家相續が内約。藤原朝臣[西園寺]寛季卿の實子となる。
◎ |
『有栖川宮日記』天保三年正月廿三日辛未(『皇室制度史料 皇族一』 一五五頁)
|
※ |
『新修有栖川宮系譜』七七頁には「天保三年壬辰正月廿三日西園寺家御相續御内約」とある。
|
|
藤原朝臣公潔[西園寺](他宮)
|
● |
天保三年(一八三二)正月二十六日、諱を「公潔」と治定。
◎ |
『有栖川宮日記』天保三年正月廿五日癸酉(『皇室制度史料 皇族一』 一五六頁)
一、西園寺中納言殿〓【より】 使濱崎相模介
出會遠江守
時節口上、他宮樣御名字勘進ニ付被進之候旨。右三折紙(高辻殿勘進之由也)。
切韻
公潔 切結
公平 切京
公家 切嘉
實成 切無形
實禮 切薺
賢季 切無形
篤季 切無形
右之内、「公家」・「實成」之内ニ御治定被成度旨、内々演説。
右御返答、「公家」之方可然旨、御答被仰入。
|
|
◎ |
『有栖川宮日記』天保三年正月廿六日甲戌(『皇室制度史料 皇族一』 一五七頁)
一、西園寺中納言殿〓【より】 使濱崎相模介
今日清水谷殿ヲ以職事江御申文被附候ニ付、殿下江被入内覽候處、御名字「公家」ニ而者事樣ニ思召候ニ付、外御名字被取替候樣御内命ニ付、今一應此御方思召之御名字御取替之儀被相願。則右之趣申上候處、左候得者「公潔」ト御取替御治定被爲在候旨、御答被仰入。
|
|
※ |
『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁に「藤原公潔」とある。
|
|
藤原朝臣公潔[西園寺](他君)
|
● |
天保三年(一八三二)正月二十六/二十七日、稱を「他君」と改める。十六歳であるのを十五歳として上申する。
|
● |
天保三年(一八三二)正月二十七日、從五位下に敍される。「十五歳」
|
● |
天保三年(一八三二)三月十日、内々に西園寺家に移る(表向は四月二十三日に移るとする)。
|
● |
天保三年(一八三二)三月十三日、侍從に任じられる。
|
● |
天保三年(一八三二)四月十日、元服。禁色昇殿等を聽せらる。
※ |
『新修有栖川宮系譜』七七頁、『韶仁親王行實』二七三頁によると、この日に從五位下に敍され侍從に任じられたとされる。
|
|
● |
天保三年(一八三二)四月十五日、初番參仕。
|
● |
天保三年(一八三二)七月八日、從五位上に敍される。
|
● |
天保四年(一八三三)正月五日、正五位下に敍される。
|
● |
天保四年(一八三三)六月十一日、從四位下に敍される。
|
● |
天保四年(一八三三)十月二十八日、左近衛權少將に任じられる。
|
● |
天保五年(一八三四)三月十六日、從四位上に敍される。
|
● |
天保五年(一八三四)七月八日、右近衛權中將に轉任。
|
● |
天保六年(一八三五)正月五日、正四位下に敍される。
|
● |
天保七年(一八三六)正月四日、從三位に敍される。二十歳。
|
● |
天保七年(一八三六)五月三十日死亡。二十歳。
※ |
『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁に「五ノ二薨(十九)」とある。
|
◎ |
『公卿補任』天保七年 非參議 從三位「西園寺 藤公潔 十九」
文化十五二一誕生。天保三正廿七叙從五位下(十五歳)。同年三十三任侍從。同年四十元服。同日聽禁色昇殿等。同年七八叙從五位上。同四正五叙正五位下(十六歳)。同年六十一叙從四位下。同年十廿八任左近衛權少將。同五正七拜賀。同年三十六叙從四位上(十七歳)。同年七八轉右權中將。同年八廿三拜賀。同六正五叙正四位下(十八歳)。
|
|
|
● |
天保七年(一八三六)六月一日「薨」(発喪)。
|
● |
天保七年(一八三六)六月四日、竹林院に葬られる。
|