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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[他]

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他宮」 よそのみや
 もと聖護院附弟
 のち藤原朝臣公潔西園寺] きんずみ (他君
 
【法號】
 「寂照院殿普偏靈覺
 ※『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁に「號寂照光院殿普偏靈覺」とある。
 
【出自】
 
韶仁親王[有栖川宮]の四男。
 藤原朝臣寛季[西園寺]の實子。
 
【生母】
 平朝臣勝子
 家女房「千里」
 平朝臣勝文[豐嶋民部權少輔]の養女。
 
【養母】
 宣子女王
 「實枝宮」
 韶仁親王の御息所。美仁親王[閑院宮]の五女。
【經歴】
文化十四年丁丑(一八一七)正月三十日申上刻、有栖川宮諸大夫前川大宰少監茂徽の家において誕生。
『公卿補任』天保七年には「文化十五二一誕生」とある。
「他宮」 よそのみや
文化十四年(一八一七)二月六日、幼稱を「他宮」と賜わる。
文化十四年(一八一七)二月二十日、生母と共に有栖川宮諸大夫粟津圖書頭義毅の家に移る。
文化十四年(一八一七)五月二十五日、太秦村大石兵庫晴昌の家に移る。
文政三年(一八二〇)八月五日、有栖川宮諸大夫豐嶋越前守茂徽(もと前川大宰少監)の家に移る。
文政三年(一八二〇)十月三日、有栖川宮諸大夫粟津圖書頭義毅の家に移る。
後、再び太秦村大石兵庫晴昌の家に移る。
「他宮」が丑年の誕生であるため、先例により、有栖川宮邸に移らず外住を續けた、という。
文政六年(一八二三)八月七日、關東大奧向に誕生を披露。
文政七年(一八二四)三月四日、有栖川宮土手町別邸に移る。
「他宮」[聖護院附弟]
文政七年(一八二四)閏八月二十五日、聖護院門跡盈仁親王の所望により、附弟に内約。
『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁は「七年八ノ廿五聖護院附弟内約」と作す。
文政九年(一八二六)九月二日、宣子女王を嫡母と内定する。
「他宮」
文政九年(一八二六)十一月四日、事情により聖護院附弟を破約される。
文政九年(一八二六)十二月十三日、深曾木・著袴。
文政十年(一八二七)三月十七日、叔母にあたる中宮寺宮榮暉のもとに寄寓するため、内々に、土手町別邸より発輿。翌十八日、中宮寺に到着。十一歳。
天保二年(一八三一)二月四日、中宮寺より発輿、同月六日、大坂の有栖川宮御屋敷に到着。
天保二年(一八三一)十一月十八日、歸洛、有栖川宮本邸に入る。十五歳。
天保二年(一八三一)、西園寺家より西園寺家相續のため所望される。
『有栖川宮日記』天保二年十一月十日戊午(『皇室制度史料 皇族一』 一五二〜一五三頁
『有栖川宮日記』天保二年十二月五日癸未(『皇室制度史料 皇族一』 一五三〜一五四頁
『有栖川宮日記』天保三年正月五日癸丑(『皇室制度史料 皇族一』 一五四頁
『有栖川宮日記』天保三年正月六日甲寅(『皇室制度史料 皇族一』 一五四〜一五五頁
「他宮」[西園寺]
天保三年(一八三二)正月二十三日、西園寺家相續が内約。藤原朝臣[西園寺]寛季卿の實子となる。
『有栖川宮日記』天保三年正月廿三日辛未(『皇室制度史料 皇族一』 一五五頁
新修有栖川宮系譜』七七頁には「天保三年壬辰正月廿三日西園寺家御相續御内約」とある。
藤原朝臣公潔[西園寺](他宮)
天保三年(一八三二)正月二十六日、諱を「公潔」と治定。
『有栖川宮日記』天保三年正月廿五日癸酉(『皇室制度史料 皇族一』 一五六頁
一、西園寺中納言殿〓【より】     使濱崎相模介
       出會遠江守
  時節口上、他宮樣御名字勘進ニ付被進之候旨。右三折紙(高辻殿勘進之由也)。
    切韻
   公潔キンズミ  切結
   公平キンナリ  切京
   公家キンイエ  切嘉
   實成サネナリ  切無形
   實禮サネヒロ  切薺
   賢季カタスエ  切無形
   篤季アツスエ  切無形
  右之内、「公家」・「實成」之内ニ御治定被成度旨、内々演説。
 右御返答、「公家」之方可然旨、御答被仰入。
『有栖川宮日記』天保三年正月廿六日甲戌(『皇室制度史料 皇族一』 一五七頁
一、西園寺中納言殿〓【より】     使濱崎相模介
  今日清水谷殿ヲ以職事江御申文被附候ニ付、殿下江被入内覽候處、御名字「公家」ニ而者事樣ニ思召候ニ付、外御名字被取替候樣御内命ニ付、今一應此御方思召之御名字御取替之儀被相願。則右之趣申上候處、左候得者「公潔キンズミ」ト御取替御治定被爲在候旨、御答被仰入。
  『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁に「藤原公スミ」とある。
藤原朝臣公潔[西園寺](他君)
天保三年(一八三二)正月二十六/二十七日、稱を「他君」と改める。十六歳であるのを十五歳として上申する。
天保三年(一八三二)正月二十七日、從五位下に敍される。「十五歳」
少外記平田家記録 H206-1
寛季卿男
天保三年(一八三二)三月十日、内々に西園寺家に移る(表向は四月二十三日に移るとする)。
天保三年(一八三二)三月十三日、侍從に任じられる。
少外記平田家記録 H206-1
天保三年(一八三二)四月十日、元服。禁色昇殿等を聽せらる。
新修有栖川宮系譜』七七頁、『韶仁親王行實』二七三頁によると、この日に從五位下に敍され侍從に任じられたとされる。
天保三年(一八三二)四月十五日、初番參仕。
『定祥卿記』天保三年四月十五日壬辰
天保三年(一八三二)七月八日、從五位上に敍される。
天保四年(一八三三)正月五日、正五位下に敍される。
新修有栖川宮系譜』七七頁
天保四年癸巳正月六日叙正五位下(十七歳)。
天保四年(一八三三)六月十一日、從四位下に敍される。
少外記平田家記録 H206-2
天保四年(一八三三)十月二十八日、左近衛權少將に任じられる。
少外記平田家記録 H206-2
天保五年(一八三四)三月十六日、從四位上に敍される。
天保五年(一八三四)七月八日、右近衛權中將に轉任。
天保六年(一八三五)正月五日、正四位下に敍される。
天保七年(一八三六)正月四日、從三位に敍される。二十歳。
天保七年(一八三六)五月三十日死亡。二十歳。
『系圖纂要』「有栖川宮」六一一頁に「五ノ二薨(十九)」とある。
『公卿補任』天保七年 非參議 從三位「西園寺 藤公潔 十九
【尻付】正月四日叙。右中將如故。五月三十日薨。
【袖書】入道前權中納言寛季卿男。母家女房。
文化十五二一誕生。天保三正廿七叙從五位下(十五歳)。同年三十三任侍從。同年四十元服。同日聽禁色昇殿等。同年七八叙從五位上。同四正五叙正五位下(十六歳)。同年六十一叙從四位下。同年十廿八任左近衛權少將。同五正七拜賀。同年三十六叙從四位上(十七歳)。同年七八轉右權中將。同年八廿三拜賀。同六正五叙正四位下(十八歳)。
天保七年(一八三六)六月一日「薨」(発喪)。
天保七年(一八三六)六月四日、竹林院に葬られる。
 
【子女】
 「禎君」 あつぎみ
 藤原朝臣公潔[西園寺]の一女。
 河内國古橋願得寺達英の室。
 天保六年乙未(一八三五)生。
 「保君」 やすぎみ
 藤原朝臣公潔[西園寺]の二女。
 天保七年丙申(一八三六)五月生。
 弘化四年(一八四七)九月三日卒。十二歳。
 竹林院に葬られる。法號「泰相院殿智秀最勝」
 藤原朝臣師季[西園寺] もろすゑ
 藤原朝臣公潔[西園寺]の養子。
 正三位右近衛中將
 藤原朝臣治季[西園寺](藤原朝臣寛季[西園寺]の男子)の男子。
 文政九年(一八二六)九月一日生。
 嘉永四年(一八五一)七月十九日死亡。二十六歳。
 嘉永四年(一八五一)八月二十七日「薨」。
 竹林院に葬られる。法號「清音院殿樂譽秀高」
西園寺公望(さいをんじ きんもち。藤原朝臣公純[徳大寺](藤原朝臣實堅[徳大寺]の長男)の二男。もと權中納言。内閣總理大臣、元老)は、藤原朝臣師季[西園寺]の養子。
 
【文獻等】
『韶仁親王行實』 二六九〜二七三頁
『系圖纂要』「有栖川宮」 六一一頁
新修 有栖川宮系譜』 七六〜七八頁
平成新修 旧華族家系大成 上巻』 六二〇頁


 
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公開日時: 2010.07.15.

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