資遠王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[資遠A]

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資遠王
 
【出自】
 寛平御後か
資遠王の孫である懷遠王の父である懷言王(資遠王の子と推定される)は寛平御後として氏爵で敍爵。
 
【官位】
 正親正
 
【經歴】
[敍爵]
應保三年(一一六三)二月二十七日、祈年穀奉幣伊勢使の使王を勤仕。
『顯廣王記』應保三年二月廿七日戊子
祈年穀奉幣。上卿右大臣殿。伊世使資遠王、中[臣]親ョ、忌部、卜部兼文子(【傍】康)。・・・・・
續史料大成本『伯家五代記』所引『顯廣王記』應保三年二月廿七日
祈年穀奉幣。・・・・・ 伊世使、資遠王、中臣親ョ、忌部、卜部兼康。・・・・・
『古事類苑(~祇部二)』~祇部二十五「祈年穀奉幣」九五頁
長寛三年(一一六五)五月二十九日、伊勢公卿勅使副使の使王を勤仕。
『顯廣王記』長寛三年五月廿九日丁丑
公卿使發遣。使參議右兵衞督平重盛卿。一家及雲客等送之。前駈廿人。~祇官、王資遠、中臣親ョ、忌部孝重、卜部致ョ。有~【宸】筆宣命。被申御不豫事歟。
永萬元年(一一六五)十二月十一日、月次祭に參仕
『顯廣王記』永萬元年十二月十一日丙戌
月次祭。上卿實國卿。右少辨。夜祭、新中納言資光、同辨王資遠。
仁安二年(一一六七)十一月十一日、六條院一代一度大奉幣伊勢使の使王を勤仕。
『顯廣王記』仁安二年十一月十一日乙亥
一代一度大□□使也。上卿源大納言定房卿。行事頭辨信範朝臣也。伊世使、王資遠、中臣親ョ、忌部致貞、卜部伊岐宗信(初度)。・・・・・ 今日被下 宣旨云。正親正顯行解氏務、可付長者云々。此事不穩便。更以所不存也。王等參陣所訴申歟。近是外記使部助正骨張也。
續史料大成本『伯家五代記』所引『顯廣王記』仁安二年十一月十一日
一代一度大奉幣使也。・・・・・ 伊世使、王資遠、中臣親ョ、忌部致貞、卜部伊岐宗信(初度)。
承安四年(一一七四)九月十一日、伊勢例幣使の使王を勤仕。
『顯廣王記』承安四年九月十一日乙未
□□【例幣】如例。使、王資遠、祭主、忌部明茂、卜部宮主兼衡。上卿一條大納言公保卿。行事左少辨。刻限雨脚罷云々。
續史料大成本『伯家五代記』所引『顯廣王記』承安四年九月十一日
ーー【例幣】如例。使、王資遠、祭主、忌部明茂、卜部宮主兼衝【衡カ】・・・・・
承安四年(一一七四)十一月十一日、伊勢伊勢公卿勅使副使の使王を勤仕。
『顯廣王記』承安四年十一月十一日甲午
伊勢公卿勅使發遣。權大納言實國爲使。王資遠、中臣爲定、忌部友平、卜部致定。
續史料大成本『伯家五代記』所收『顯廣王記』承安四年十一月十一日
伊勢公卿勅使發遣。權大納言實國卿爲使。王資ー、中臣爲定、忌部友平、卜部致貞。
承安四年(一一七四)十月二十八日の公卿勅使日時定において、致重[王]が公卿勅使副使に定められたが、資遠王に交替。
安元二年(一一七六)九月十一日、伊勢例幣使の使王を勤仕。
『顯廣王記』安元二年九月十一日癸丑
例幣。上卿大宮大納言【藤原驪G】。行事右少辨【藤原光雅】。[使]、正親資遠王、祭主【大中臣親驕z、忌部明友、卜部兼衡也。
續史料大成本『伯家五代記』所引『顯廣王記』安元二年九月十一日
例幣。・・・・・ [使]、資遠、祭主、忌部明友、卜部兼衝【衡】也。
壽永二年(一一八三)二月二十八日、祈年穀奉幣の使王を勤仕。時に散位。
『壬生家文書』六一一五三八(『圖書寮叢刊 壬生家文書 六』二七頁)奉幣諸社使交名案
伊勢
 散位資遠王
 中臣從四位下行~祇少副大中臣朝臣公宣
 忌部外從五位下行~祇權少祐齋部宿禰明□【成】
 卜部散位從五位下直宿禰是C
『壬生家文書』九一二五一五(『圖書寮叢刊 壬生家文書 九』二〇三〜二〇七頁)奉幣諸社使交名寫
【端裏書】奉幣諸社使例
       壽永二・二・廿八
奉幣諸社使
伊勢
 散位資遠王
 中臣從四位下行~祇少副大中臣朝臣公宣
 忌部外從五位下行~祇權少祐齋部宿禰明茂
 卜部散位從五位下直宿禰是C
石C水
 權中納言藤原朝臣家通
 散位源朝臣忠光
賀茂
 參議平朝臣經盛
 散位藤原朝臣範實
松尾
 正三位藤原朝臣雅長
 散位藤原朝臣邦兼【實】
平野
 參議平朝臣親定【親宗】
 散位源朝臣範實
稻荷
 内藏權頭藤原朝臣高佐
春日
 相模權守藤原朝臣盛長
大原野
 阿波權守藤原朝臣懷綱
大原野【衍】
 阿波權守藤原朝臣懷綱【衍】
大~
 相模權守藤原朝臣盛長
石上
 散位藤原朝臣懷長
大和
 同
廣瀬
 散位藤原朝臣孝盛
瀧田【龍田】
 同
住吉
 散位藤原朝臣貞光
日吉
 散位中原朝臣俊宗
梅宮
 隼人正橘朝臣C 【アキママ】
吉田
 散位藤原朝臣光景
廣田
 散位藤原朝臣貞光
祇園
 散位藤原朝臣光景
北野
 皇大【太】后宮權大進菅原朝臣
丹生
 正六位上齋部宿禰基重
貴布禰
 正六位上行~祇權少史伊岐宿禰致具
『吉記』壽永二年二月廿八日癸亥
史料大成本『山槐記』壽永二年二月廿八日
壽永二年(一一八三)十二月二十二日、正親正に任じられる。
『吉記』壽永二年十二月廿二日壬午「下名事」
今夕有下名。・・・・・ 有加任。行隆朝臣書之云々。
  ・・・・・
  ・・・・・        正親正資遠王
  ・・・・・
元暦元年(一一八四)九月十一日、伊勢例幣使の使王を勤仕。時に正親正。
『山槐記』元暦元年九月十一日丁酉
今日例幣也。・・・・・ 以資遠王可令勤使之由仰之。・・・・・ 仰外記令召使王。正親正資遠王入東門參上。蹲居軾傍、出訴訟之詞。『近江國保田卅丁依爲司正資遠可知行之處、伯仲資王知行之。付頭辨雖訴申、于今不蒙裁許。無此裁斷【許】者、難進發者』。訴詞甚多、經時剋。予仰外記、可申頭辨之由、仰資遠。 賜宣命。・・・・・
發遣の際、正親正が知行すべき近江國保田卅丁を~祇伯仲資王が知行している件についての訴訟を行い、發遣が遲延した。
文治五年(一一八九)九月十一日、伊勢例幣使の使王を勤仕。時に正親正。
柳原本『仲資王記』文治五年九月十一日戊辰
續史料大成本『伯家五代記』所引『仲資王記』文治五年九月十一日
例幣也。祭主能骼Oヶ月服暇之間、權少副定輔、令差進了。正親正資遠王等云々。
 
【子女】
懷言王
懷言王は懷遠王の父。懷遠王は資遠王の孫。從って、懷言王は資遠王の子と推定される。
諱の類似から、資懷王も資遠王の男子である可能性があるか。
 
【孫】
懷遠王


 
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更新日時: 2021.04.29.
公開日時: 2011.12.28.


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