本康親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[本康]

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本康親王 もとやす
 
【稱號】
 「
八條宮」「八條式部卿宮」「八條李部王
 
【出自】
 仁明天皇の第五親王。
『花鳥餘情』卷十八「梅枝」
八條式部卿本康親王は仁明天皇の第五子。母は從四位上滋野温【ママ】子。參議貞主女なり。
 
【母】
 滋野朝臣繩子
 參議滋野朝臣貞主の長女。
『日本文コ天皇實録』仁壽二年【八五二】二月乙巳【八日
參議正四位下兼【衍】行宮内卿[兼]相摸【相模】守滋野朝臣貞主卒。・・・・・ 長女繩子、心至和順、進退中規。 仁明天皇殊加恩幸、生本康親王、時子内親王、柔子内親王。少女奧子、頗有風儀、閫訓克脩。爲 天皇所幸、生惟彦親王、濃子内親王、勝子内親王。時人以爲、外孫皇子、一家繁昌、乃祖慈仁之所及也。
『一代要記』乙集 仁明天皇 皇子「本康親王」
一品式部卿。母從四位上滋野綱【ママ】子、參議貞主女也。延喜元年十二月十四日薨。號八條宮。
 
【經歴】
天長九年(八三二)以前に、皇太子正良親王の子として誕生。
延喜元年(九〇一)十二月十四日に薨逝した本康親王は七十歳の賀を祝われているので、薨逝時、七十歳以上であった。そこから逆算。
稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三三七頁「母ハ女御從四位上滋野繩子ナリ、」の〔按〕に、
親王、誕生年月明カナラザレドモ、承和十五年ノ加冠ナレバ、凡ソ父天皇ノ踐祚前後ノ誕生ナルベシ、
とある。
承和三年(八三六)十一月三日、近江國野洲郡の空閑地三十五町を賜わる。
『續日本後紀』承和三年十一月戊辰
近江國野洲郡空閑地卅五町、賜本康親王。
承和四年(八三七)正月二十二日、河内國の荒廢田三十町を賜わる。
『續日本後紀』承和四年正月丙戌
河内國荒廢田卅町、賜本康親王。
承和十五年(八四八)四月十四日、C涼殿において元服。
『續日本後紀』承和十五年四月癸卯
本康親王及源朝臣冷、於C凉殿冠焉。竝天皇之遺體也。本康親王同産柔子内親王亦初笄焉。
嘉祥二年(八四九)正月七日、無品から四品に敍される。
『續日本後紀』嘉祥二年正月壬戌
[詔授]无品本康親王四品。
嘉祥三年(八五〇)正月十五日、上野太守となる。
『續日本後紀』嘉祥三年正月甲午
四品本康親王爲上野太守。
『日本文コ天皇實録』嘉祥三年【八五〇】五月甲午【十七日】條にも、
四品本康親王爲上野太守。
とあるが、『稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三三八頁「嘉祥三年正月十五日、上野太守ト爲ル、」の〔按〕に、
上野太守トナルノ年月、續日本後紀、文コ實録兩書共傳ヲ異ニス、今姑ク續日本後紀ノ記載ニ從ヒ後考ニ俟ツ、
とある。なお、『日本文コ天皇實録』嘉祥三年五月甲午條の「上野太守」は「上總太守」である可能性がある。
[嘉祥三年(八五〇)五月十七日]、上總太守となる。
『日本文コ天皇實録』嘉祥三年五月甲午
四品本康親王爲上野【上總】太守。
『日本三代實録』貞觀二年二月十四日乙未條に「上總太守如故」とあるのに據る。この「上總太守」は「上野太守」の誤りである可能性があるか。下文も參照せよ。
貞觀二年(八六〇)二月十四日、彈正尹を兼任。
『日本三代實録』貞觀二年二月十四日乙未
四品行上總太守本康親王爲彈正尹。上總太守如故。
稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三三八頁「貞觀二年二月十四日、彈正尹ト爲ル、上總太守故ノ如シ、」の〔按〕に、
是ヨリ先、上總太守ト爲ルノ年月、三代實録記事ヲ缺クト雖モ、引文ニヨリテ之ヲ察スベシ、
とある。但し、「上總太守」は「上野太守」の誤りである可能性もある。
貞觀五年(八六三)二月十日、兵部卿に任じられる。
『日本三代實録』貞觀五年二月十日癸卯
[以]四品彈正尹本康親王爲兵部卿。
貞觀五年(八六三)二月十四日、C和天皇より帶劍を聽される。
『日本三代實録』貞觀五年二月十四日丁未
四品行兵部卿兼上總太守【ママ】本康親王 勅賜帶劔。
貞觀十一年(八六九)二月十六日、上總太守を兼任。
『日本三代實録』貞觀十一年二月十六日甲辰
[以]四品守【ママ】兵部卿本康親王爲上総太守。兵部卿如故。
貞觀十三年(八七一)正月七日、四品から三品に昇敍。
『日本三代實録』貞觀十三年正月七日甲寅
授四品行兵部卿兼上總太守本康親王三品。
貞觀十八年(八七六)十二月二十六日、太宰帥に任じられ、兵部卿と兼任。
『日本三代實録』貞觀十八年十二月廿六日己巳
[以]二【ママ】品行兵部卿本康親王爲大宰帥。[兵部]卿如故。
元慶七年(八八三)正月七日、三品から二品に昇敍。
『日本三代實録』元慶七年正月七日甲戌
授三品行兵部卿本康親王二品。
元慶八年(八八四)二月四日、讓位した陽成天皇の二條院への遷幸に供奉。
『日本三代實録』陽成天皇 元慶八年二月四日乙未
是日、 天皇出自綾綺殿、遷幸二條院。二品行兵部卿本康親王、右大臣從二位兼行左近衞大將源朝臣多、・・・・・ 中納言從三位在原朝臣行平、中納言從三位兼行左衞門督源朝臣能有、參議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王、參議正四位下行伊豫權守源朝臣冷、・・・・・ 扈從文武百官供奉如常。・・・・・
  陽成天皇のもとから、三種の~器が東二條宮の時康親王(光孝天皇)のもとに渡御した際、踐祚を再三固辭する時康親王に對して跪奏を行う。
『日本三代實録』光孝天皇 元慶八年二月四日乙未
太上天皇遷御二條院、遜皇帝位焉。于時 天皇在東二條宮。親王・公卿奉天子璽綬・~鏡・寶劒等。天皇再三辭讓、會不肯受。二品行兵部卿本康親王、起坐【座】跪奏言。「歴數攸在、謳歌是歸。昔者漢文三讓雖高、猶當大横之繇、遂應代邸之迎。伏願 陛下在此樂推、幸聽於群臣矣」。是夜、親王・公卿侍宿於行在所。
元慶八年(八八四)二月五日、東二條宮において、藤原基經が陽成天皇から賜わった劍を解いたのに倣って帶劍を解き、あらためて光孝天皇より帶劍を賜わる。
『日本三代實録』元慶八年二月五日丙申
・・・・・ 天皇將出宮、未御鸞輿之前、太政大臣詣宮奉問起居、解却太上天皇【陽成天皇】 勅賜之劔、腰底既空。兵部卿本康親王、左大臣源朝臣融、先侍猶尚帶劔、乍驚相見、各自解之。 天皇即時 勅賜三人帶劔。
元慶八年(八八四)三月九日、式部卿に任じられる。
『日本三代實録』元慶八年三月九日庚午
二品行兵部卿本康親王爲式部卿。
一品に昇敍。
稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三四五頁「延喜元年十二月十四日、薨ズ、」の〔按〕に、
是ヨリ先、一品ニ進ミシ事、日本紀略ノ文ニヨリ察スベシ、
とある。
寛平元年(八八九)十一月十九日、輦車に乘って宮中に出入するのを許される。
『公卿補任』仁和五年/寛平元年 左大臣 從一位源融(六十八) 尻付
十一月十九日勅聽乘輦車出入宮中(此日式部卿本康親王同聽之)。
稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三四五頁「寛平元年十一月十九日、輦車ヲ聽サル、」の〔按〕に、
源融、輦車ヲ聽サルルノ月日、公卿補任諸本或ハ十月十九日トシ或ハ十一月十九日ト爲ス、宇多天皇事記ハ按西宮記河海抄古今集目録爲十月、據此日有腰輿宣旨、姑從本書トシテ十一月ノ補任ニ從ヘリ、今姑ク之ニ傚ヒ後考ニ俟ツ、尚ホ本康親王勅許ノ日ヲ國史大系本ヲ始メ諸本多ク卅日ト爲ス、思フニ卅ハ此ノ字ヲ誤寫セシニ非ザルカ、
とある。
七十歳の賀を祝われる。
『古今和歌集』巻第七「賀歌」352・353歌
  本康 仁明第七【ママ】 一品式部卿 號八條宮 延喜元年薨 母從四位上紀種子【ママ】 名虎女
  もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける
                    きのつらゆき
春くれば やどにまづさく梅の花 きみが千歳のかざしとぞ見る
                      素性法師
いにしへにありきあらずは知らねども 千歳のためし君に始めむ
延喜元年(九〇一)十二月十四日、薨逝。
『日本紀略』延喜元年十二月十四日
一品式部卿本康親王薨。
『扶桑略記』延喜元年十二月十四日壬辰
一品式部卿本康親王薨。仁明天皇御子。
『一代要記』乙集 仁明天皇 皇子「本康親王」
『菅家後集』496 の七言律詩「奉哭吏部王(故一品親王)」は、本康親王の薨逝を悼んだ菅原道眞の作。
配處蒼天最極西 恩情未見阻雲泥
去年眞跡多霑潤 今日飛聞甚慘凄
元老應無朝位立 林亭只有夜禽栖
世間自此琴聲斷 不獨人啼鬼亦啼
延喜元年(九〇一)十二月十六日、薨奏あり。
『河海抄』「薄雲」所引『醍醐天皇御記』延喜元年十二月十六日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』二五頁
左大臣【藤原時平】奏。式部卿親王【本康】薨。
 
【配偶】
 (
蜷淵氏
 殖栗王用明天皇の男子)の後裔。
 蜷淵眞人岡田の子孫か。
 元慶六年(八八二)正月、敍位に預る。
『西宮記』「正月」中「女敍位」
『九暦記』天慶七年十月九日
 
【子女】
 □
雅望王
 □ 行忠王
 □ 脩平王
 □ 惟時王維時王
 ○ 廉子女王 【藤原朝臣時平の室】
 ○ 元子女王[伊勢齋宮(二四)]
 □ 源朝臣兼似
 □ 源朝臣兼仁
 □ 源朝臣朝鑑
 □ 源朝臣朝憲
 □ 源朝臣保望
 □ 由道王 のち源朝臣由道
 
【本康親王の日記『八條式部卿私記』(散逸)について】
『九暦記』天慶七年十月九日條に、『故八條式部卿(本康)私記』が引用されている。
『故八條式部卿(本康)私記』は、朝廷公事の記録を主目的とした私日記の先驅的存在と見做される。藤原朝臣忠平は、父(藤原朝臣基經)の宮廷儀禮の作法を、本康親王と貞保親王を介して傳承された。
竹内理三「口伝と教命」(竹内理三『律令制と貴族政権』U(御茶の水書房、一九五八年)所収)
『九暦記』天慶七年十月九日條に所引の『故八條式部卿(本康)私記』は、『岡屋關白記』建長二年十月十四日條に部分的に引用されている。
昔忠仁公、妻一世源氏關叙位日、參嵯峨院令奏慶由。太上天皇【嵯峨天皇】勅云、未聞依妻慶夫賀例。予聞此告驚之、此事先帝御時奏聞、仰曰、如此故實尤可翫好、但今依婦慶其夫必奏賀者、
 「妻一世源氏關」の「關」は『九暦記』では「預」。また、「依妻慶夫賀例」の後に『九暦記』には「云々」があり、ここまでが「中將【源興基】答云」の内容である。よって、この『岡屋關白記』の引用は、適切ではない。
 『大日本古記録 岡屋關白記』の二五七頁には、「先帝」に「(後嵯峨天皇)」と傍注が付けられているが、これはC和天皇の誤り。當該部分は『大日本史料』第五編之三十三(東京大学史料編纂所編纂、2006年3月)の四一〇頁にも引用されているが、『大日本史料』編纂者も、これが『故八條式部卿(本康)私記』の一部であることに氣づかず、『大日本古記録 岡屋關白記』の誤った傍注を踏襲している。
 
【詠歌】
『續後撰和歌集』に、一首、入撰。
『續後撰和歌集』巻九「~祇歌」
 元慶二【六】年日本紀の竟宴、彦波瀲武鸕鷀羽葺不合尊
            兵部卿本康親王
渡つ海 波かき分けて顯れし たけうのみこと いく世へぬらむ
『勅撰作者部類』自帝王至庶人之部
本康親王(一品式部卿。號八條宮。仁明天皇御子) 續後撰集(~一、兵部卿本康親王)
 
【逸事等】
有職家として知られる。
右京七條に「池侍從領」を開發、經營した。

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【樂道】
琴の名手として知られる。
『菅家後集』474 の七言絶句「感吏部王〔式部卿本康親王〕彈琴、應制(一絶)」は、本康親王の琴の演奏に感動した菅原道眞の作。
内閣文庫本『菅家後集』「感吏部王彈琴、應製一絶」
榮啓後身吏部王 七條絲上百愁忘
酒酣莫奏蕭々曲 峽水松風惣斷膓
高橋朝臣文屋麻呂は嵯峨太上天皇に仕え、太上天皇自身により「鼓琴」を教えられたが、嵯峨太上天皇の崩御後、仁明天皇に仕え、勅により、「鼓琴」を時康親王(のちの光孝天皇)と本康親王に教えた。
『日本三代實録』貞觀六年【八六四】二月二日己未
從五位下行越後介高橋朝臣文室麻呂卒。文室麻呂者左京人。・・・・・ 仁明天皇徴爲藏人。・・・・・ 有 勅奉ヘ鼓琴於諱(光孝天皇)親王・本康親王。・・・・・
 
【香道】
「高名薫物合」即ち香合の名人として有名であった。
『河海抄』卷十二「梅枝」
本康親王(一品式部卿。號八條宮。仁明天王【天皇】第七【ママ】御子。・・・・・)高名薫物合也。
『薫集類抄』「梅花(擬梅枝之香。春尤可用之。・・・・・)」
八條宮 (本康 一品式部卿 仁明天皇第五親王 母從四位上滋野繩子 貞主女也)。
 沈八兩二分  蘑唐一分三朱 甲香三兩二分 甘松一分
 白檀二分三朱 丁子二兩三分 麝香二分   薫陸一分
田中圭子「西園寺文庫所蔵『薫集類抄』翻刻と校異」(上)(『広島女学院大学大学院言語文化論叢』第六号、二〇〇三年三月) 一二一/一〇頁
外孫の藤原朝臣保忠(八條大將)も、『原中最秘抄』「薫物合高名人數」に「八條式部卿宮、同孫子左大將保忠」とあり、「薫物合」の名人であった。また、香合の名人として『原中最秘抄』「薫物合高名人數」に擧げられている「四條大納言公任」は、父 藤原朝臣頼忠が保忠の養子であった關係で、保忠の薫法を傳えられたと考えられている(『薫集類抄』上巻 裏書)。
藤河家利昭「梅枝の巻の薫物合わせと仁明帝」(『広島女学院大学大学院言語文化論叢』第二号、一九九九年三月
 
【備考】
延喜八年(九〇八)正月十七日の是忠親王の乘輦出入宮中は、葛原親王と本康親王の前例によった。
『西宮記』十三「臨時一」裏書所引『醍醐天皇御記』延喜八年正月十七日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』四四頁
勅聽式部卿是忠乘輦出入宮中。諸節不立行列。此日左大臣【藤原時平】令勘之。故葛原親王・本康親王例奏之。則令因彼例了。
 
【文獻等】
稿本仁明天皇實録』三三七〜三四六頁「皇子本康親王」
『大日本史料』第一編之三、一四〜一九頁、延喜元年十二月十四日(壬辰)「一品式部卿本康親王薨ズ、」
清水正健『皇族考證』第參巻、六〜七頁、一九〜二一頁
佐藤信一「読む 菅原道真と本康親王 ──「琴」の叙述を通して──」(『日本文学』第五十四巻第八号、二〇〇五年八月)


 
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更新日時: 2022.01.19.
公開日時: 2008.04.26.


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