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天長九年(八三二)以前に、皇太子正良親王の子として誕生。
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延喜元年(九〇一)十二月十四日に薨逝した本康親王は七十歳の賀を祝われているので、薨逝時、七十歳以上であった。そこから逆算。
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『稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三三七頁「母ハ女御從四位上滋野繩子ナリ、」の〔按〕に、
親王、誕生年月明カナラザレドモ、承和十五年ノ加冠ナレバ、凡ソ父天皇ノ踐祚前後ノ誕生ナルベシ、
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とある。
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承和三年(八三六)十一月三日、近江國野洲郡の空閑地三十五町を賜わる。
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承和四年(八三七)正月二十二日、河内國の荒廢田三十町を賜わる。
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承和十五年(八四八)四月十四日、淸涼殿において元服。
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『續日本後紀』承和十五年四月癸卯
本康親王及源朝臣冷、於淸凉殿冠焉。竝天皇之遺體也。本康親王同産柔子内親王亦初笄焉。
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嘉祥二年(八四九)正月七日、無品から四品に敍される。
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嘉祥三年(八五〇)正月十五日、上野太守となる。
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『續日本後紀』嘉祥三年正月甲午
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『日本文德天皇實録』嘉祥三年【八五〇】五月甲午【十七日】條にも、
とあるが、『稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三三八頁「嘉祥三年正月十五日、上野太守ト爲ル、」の〔按〕に、
上野太守トナルノ年月、續日本後紀、文德實録兩書共傳ヲ異ニス、今姑ク續日本後紀ノ記載ニ從ヒ後考ニ俟ツ、
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とある。なお、『日本文德天皇實録』嘉祥三年五月甲午條の「上野太守」は「上總太守」である可能性がある。
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[嘉祥三年(八五〇)五月十七日]、上總太守となる。
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『日本文德天皇實録』嘉祥三年五月甲午
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『日本三代實録』貞觀二年二月十四日乙未條に「上總太守如故」とあるのに據る。この「上總太守」は「上野太守」の誤りである可能性があるか。下文も參照せよ。
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貞觀二年(八六〇)二月十四日、彈正尹を兼任。
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『日本三代實録』貞觀二年二月十四日乙未
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『稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三三八頁「貞觀二年二月十四日、彈正尹ト爲ル、上總太守故ノ如シ、」の〔按〕に、
是ヨリ先、上總太守ト爲ルノ年月、三代實録記事ヲ缺クト雖モ、引文ニヨリテ之ヲ察スベシ、
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とある。但し、「上總太守」は「上野太守」の誤りである可能性もある。
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貞觀五年(八六三)二月十日、兵部卿に任じられる。
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貞觀五年(八六三)二月十四日、淸和天皇より帶劍を聽される。
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『日本三代實録』貞觀五年二月十四日丁未
四品行兵部卿兼上總太守【ママ】本康親王 勅賜帶劔。
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貞觀十一年(八六九)二月十六日、上總太守を兼任。
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『日本三代實録』貞觀十一年二月十六日甲辰
[以]四品守【ママ】兵部卿本康親王爲上総太守。兵部卿如故。
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貞觀十三年(八七一)正月七日、四品から三品に昇敍。
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貞觀十八年(八七六)十二月二十六日、太宰帥に任じられ、兵部卿と兼任。
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『日本三代實録』貞觀十八年十二月廿六日己巳
[以]二【ママ】品行兵部卿本康親王爲大宰帥。[兵部]卿如故。
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元慶七年(八八三)正月七日、三品から二品に昇敍。
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元慶八年(八八四)二月四日、讓位した陽成天皇の二條院への遷幸に供奉。
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『日本三代實録』陽成天皇 元慶八年二月四日乙未
是日、 天皇出自綾綺殿、遷幸二條院。二品行兵部卿本康親王、右大臣從二位兼行左近衞大將源朝臣多、・・・・・ 中納言從三位在原朝臣行平、中納言從三位兼行左衞門督源朝臣能有、參議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王、參議正四位下行伊豫權守源朝臣冷、・・・・・ 扈從文武百官供奉如常。・・・・・
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陽成天皇のもとから、三種の神器が東二條宮の時康親王(光孝天皇)のもとに渡御した際、踐祚を再三固辭する時康親王に對して跪奏を行う。
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『日本三代實録』光孝天皇 元慶八年二月四日乙未
太上天皇遷御二條院、遜皇帝位焉。于時 天皇在東二條宮。親王・公卿奉天子璽綬・神鏡・寶劒等。天皇再三辭讓、會不肯受。二品行兵部卿本康親王、起坐【座】跪奏言。「歴數攸在、謳歌是歸。昔者漢文三讓雖高、猶當大横之繇、遂應代邸之迎。伏願 陛下在此樂推、幸聽於群臣矣」。是夜、親王・公卿侍宿於行在所。
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元慶八年(八八四)二月五日、東二條宮において、藤原基經が陽成天皇から賜わった劍を解いたのに倣って帶劍を解き、あらためて光孝天皇より帶劍を賜わる。
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『日本三代實録』元慶八年二月五日丙申
・・・・・ 天皇將出宮、未御鸞輿之前、太政大臣詣宮奉問起居、解却太上天皇【陽成天皇】 勅賜之劔、腰底既空。兵部卿本康親王、左大臣源朝臣融、先侍猶尚帶劔、乍驚相見、各自解之。 天皇即時 勅賜三人帶劔。
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元慶八年(八八四)三月九日、式部卿に任じられる。
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一品に昇敍。
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『稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三四五頁「延喜元年十二月十四日、薨ズ、」の〔按〕に、
是ヨリ先、一品ニ進ミシ事、日本紀略ノ文ニヨリ察スベシ、
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とある。
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寛平元年(八八九)十一月十九日、輦車に乘って宮中に出入するのを許される。
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『公卿補任』仁和五年/寛平元年 左大臣 從一位源融(六十八) 尻付
十一月十九日勅聽乘輦車出入宮中(此日式部卿本康親王同聽之)。
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『稿本仁明天皇實録』「皇子本康親王」三四五頁「寛平元年十一月十九日、輦車ヲ聽サル、」の〔按〕に、
源融、輦車ヲ聽サルルノ月日、公卿補任諸本或ハ十月十九日トシ或ハ十一月十九日ト爲ス、宇多天皇事記ハ按西宮記河海抄古今集目録爲十月、據此日有腰輿宣旨、姑從本書トシテ十一月ノ補任ニ從ヘリ、今姑ク之ニ傚ヒ後考ニ俟ツ、尚ホ本康親王勅許ノ日ヲ國史大系本ヲ始メ諸本多ク卅日ト爲ス、思フニ卅ハ此ノ字ヲ誤寫セシニ非ザルカ、
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とある。
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七十歳の賀を祝われる。
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『古今和歌集』巻第七「賀歌」352・353歌
本康 仁明第七【ママ】 一品式部卿 號八條宮 延喜元年薨 母從四位上紀種子【ママ】 名虎女
もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける
きのつらゆき
春くれば やどにまづさく梅の花 きみが千歳のかざしとぞ見る
素性法師
いにしへにありきあらずは知らねども 千歳のためし君に始めむ
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延喜元年(九〇一)十二月十四日、薨逝。
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『日本紀略』延喜元年十二月十四日
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『扶桑略記』延喜元年十二月十四日壬辰
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『一代要記』乙集 仁明天皇 皇子「本康親王」
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『菅家後集』496 の七言律詩「奉哭吏部王(故一品親王)」は、本康親王の薨逝を悼んだ菅原道眞の作。
配處蒼天最極西 恩情未見阻雲泥
去年眞跡多霑潤 今日飛聞甚慘凄
元老應無朝位立 林亭只有夜禽栖
世間自此琴聲斷 不獨人啼鬼亦啼
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延喜元年(九〇一)十二月十六日、薨奏あり。
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『河海抄』「薄雲」所引『醍醐天皇御記』延喜元年十二月十六日(『三代御記逸文集成』所收『御記纂』二五頁)
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