雅望王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[雅望]

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雅望王
 
【出自】
 
本康親王の男子。
 仁明天皇の二世孫王。
 
【經歴】
元慶元年(八七七)十一月二十一日、大嘗會敍位において、無位から從四位下に敍される。
尊經閣文庫所藏『類聚國史』所引『日本三代實録』元慶元年十一月廿一日戊午(和田英松編『國書逸文』)
无位恒基王、雅望王敍從四下。
侍從となる。
元慶五年(八八一)十二月二十七日、山階山陵使となり、陽成天皇の元服を告げるために天智天皇陵に參向。時に從四位下行侍從。
『日本三代實録』元慶五年十二月廿七日辛丑
分遣使者於山階、深草、田邑山陵、告以 天皇【陽成天皇】可加元服。告文曰。 天皇恐美毛掛畏山階山陵申賜へ止。公卿等議奏セラ久加冠之事、礼有其時、來年正月奉加元服、宜叶人望世利。掛畏山陵助賜慈賜天之、平果行、天地日月寳位護供奉牟止奈毛思食不留。此状正三位行中納言兼右近衛大將皇太后宮大夫陸奥出羽按察使藤原朝臣良世、侍從從四位下雅望王差使、恐美毛申賜波久止奏。
元慶六年(八八二)六月廿六日、右相撲司に任じられる。時に從四位下行侍從。
『日本三代實録』元慶六年六月廿六日丁酉
任左[右]相撲司。・・・・・ 中納言從三位在原朝臣行平、參議正四位下[行]右兵衛督源朝臣冷(スヾシ)、參議正四位下行右衛門督兼近江權守藤原朝臣諸葛、從四位下行侍從雅望王、正四位下行右近衛中將兼美濃守源朝臣直、從四位上守大藏卿源朝臣定有、從四位下行中務大輔源朝臣至、正五位下守右中弁兼[行]大學頭巨勢朝臣文雄、右近衛少將兼[行]備中守藤原朝臣C經、右衛門佐從五位上兼行讃岐權介平朝臣「秀」季式、右兵衛權佐藤原朝臣敏行、從五位下行右馬助藤原朝臣恒興爲右司。
元慶六年(八八二)七月二十八日、右相撲司であったが病として參上せず。
『日本三代實録』元慶六年七月廿八日戊辰
右相撲司從四位下雅望王、正四位下源朝臣直、從五位下【上】藤原朝臣敏行並謝病不上。以散位從四位上實行王、正四位下平朝臣房世、侍從從五位上藤原朝臣佐名補其闕。
彈正大弼となる。
元慶八年(八八四)二月二十三日、光孝天皇即位敍位において、從四位下から從四位上に昇敍。時に彈正大弼。
『日本三代實録』元慶八年二月廿三日甲寅
[授]彈正大弼從四位下雅望王從四位上。
仁和二年(八八六)八月二十日、齋内親王入伊勢太~宮前驅となる。時に從四位上行彈正大弼。
『日本三代實録』仁和二年八月廿日丙寅
勅、以從四位上行兵部大輔四友王、從四位上行彈正大弼雅望王、散位從四位上源朝臣載有、散位從四位下源朝臣有等四人、爲斎内親王【繁子内親王】入伊勢太~宮前駈。
仁和三年(八八七)二月二日、美作權介を兼ねる。時に從四位上行彈正大弼。
『日本三代實録』仁和三年二月二日丙午
從四位上行彈正大弼雅望王爲美作權介、大弼如故。
仁和三年(八八七)五月十三日、~祇伯となる。美作權介はもとの如し。
『日本三代實録』仁和三年五月十三日丙戌
以從四位上行彈正大弼兼美作權守雅望王爲~祇伯、美作權守如故。
仁和四年(八八八)十二月二十三日、伊勢奉幣使の使王として參宮。時に~祇伯。
『太~宮諸雜事記』治暦三年二月十日
抑古記文云。・・・・・ 宇多天皇御代。仁和四年十二月廿三日、勅使參宮。王~祇伯雅望王、中臣大祐大中臣時常、忌部少祐齋部祐雄等也。而度會川御祓之間、祐雄從者童俄馬被蹈頓滅已了。仍祐雄急他馬乘替參宮已了。
『伊勢勅使部類記』「伊勢勅使雜例」勅使乘馬人蹈殺例
左馬頭となる。
少外記平田家本『本朝皇胤紹運録』本康親王の子
   【上を抹消して下と上書】
  従四下 左馬頭
┬─雅 望 王──────

 
【子女】
 □
平朝臣希世
 □
 □ 平朝臣隨時
 
【備考】
賜姓平朝臣は誤りならん。
稿本仁明天皇實録』三七四頁〔按〕
王、誕生卒年共ニ明カナラズ、本朝尊卑分脈圖脱漏ニ賜平氏トアリ、平姓ヲ賜ハリテ臣籍ニ下ロシモノノ如キモ他ニ所見ナシ、但公卿補任天暦二年平隨時ノ條ニ單ニ雅望三男ト書シテ王ノ字ヲ附セズ、大日本史ハ源氏系圖ニ云フ平姓ヲ賜フト、然レドモ他ニ見ル所ナシト註セリ、今按ヲ附シテ後考ニ俟ツ、
 
【文獻等】
稿本仁明天皇實録』三七四〜三七六頁「皇孫雅望王」


 
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更新日時: 2021.10.02.
公開日時: 2021.09.30.


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