平希世


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[希世]

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希世 まれよ
 
 平朝臣希世
 
【出自】
 
雅望王の一男。
 仁明天皇の三世。
 本康親王の孫。
少外記平田家本『本朝皇胤紹運録』雅望王の子
  右中弁
  従四上
平 希 世

『尊卑分脈』雅望王の子
  後撰玉等作者
  右少將
  内藏頭
  右中弁従四上

希 世───

 
【經歴】
昌泰元年(八九八)秋、亭子院女郎花合後宴において、歌一首を奉る。
『昌泰元年秋亭子院女郎花合』後宴歌
延喜七年(九〇七)四月十六日、醍醐天皇が斎院恭子内親王の疾を平希世に問わせた。
『西宮記』四月「賀茂祭」裏書、『延喜御記』延喜七年四月十六日
祭使命婦源信子復命。自餘等未奏。使希世【平】令問齋院親王【恭子】所惱也。
延喜十一年(九一一)六月十五日、宇多上皇の亭子院賜宴(酒豪八人を集めて開催した飮み比べ大宴會)に參加。平希世は一番最初に脱落し、フラフラになって門外の地べたに寝てしまった。時に散位。
紀長谷雄「亭子院賜飲記」(『紀家集』所收)
『大日本史料』第一編之四、延喜十一年六月十五日条所收「伏見宮御記録」新冩本
『本朝文粹』卷十二「亭子院賜飲記」
『扶桑略記』延喜十一年六月十五日
延喜十五年(九一五)四月十八日、齋院長官として齋王恭子内親王の状況を申す。
『西宮記』五「賀茂祭」裏書所引『醍醐天皇御記』延喜十五年四月十八日
齋院長官希世【平】申。齋内親王【恭子内親王】自昨有月事。・・・・・
右兵衞佐となる。
延喜十九年(九一九)四月十七日、藏人に補される。時に從五位下守右兵衞佐兼行内藏權助。
『藏人補任』殘闕
藏人從五位下守右兵衞佐兼行内藏權助平希世。延喜十九年四月十七日補。同廿年九月廿一日遷任左近少將。
『職事補任』醍醐天皇 五位藏人
内藏權佐
右兵衞佐從五位下平希世 [延喜]十九年四月十七日補。延長六年正月七日從四位下。
延喜二十年(九二〇)九月二十一日、左近衞少將に任じられる。
『藏人補任』殘闕
藏人從五位下守右兵衞佐兼行内藏權助平希世。延喜十九年四月十七日補。同廿年九月廿一日遷任左近少將。
内藏助となる。
延長元年(九二三)六月、内藏助から内藏頭に轉任。時に從五位上。
『師守記』貞和五年三月五日丙申 裏書
内藏頭兼近衛司例
・・・・・
平希世
 延長元年六月 日任内藏頭(于時從五位上)
 同三年正月 日兼左近少將(内藏頭如元)
・・・・・
『官職秘鈔』上「諸寮頭」内藏
自助轉任例(・・・・・ 希世)
延長三年(九二五)正月、左近衞少將となる。内藏頭はもとの如し。
『師守記』貞和五年三月五日丙申 裏書
内藏頭兼近衛司例
・・・・・
平希世
 延長元年六月 日任内藏頭(于時從五位上)
 同三年正月 日兼左近少將(内藏頭如元)
・・・・・
延長三年(九二五)三月十二日、藤原忠平のもとを訪れ、相撲召合の白丁使の事を話した。
『貞信公記抄』延長三年三月十二日「相撲」
少將希世朝臣【平】來云。可召相撲。白丁使事云々。
以後、たびたび藤原忠平のもとを訪れる。
 ● 延長五年(九二七)正月二十四日。藏人・右少將
 ◎『貞信公記抄』
 ● 延長五年(九二七)二月八日、觸穢により大原野祭使を改める旨を傳達。藏人・右少將
 ◎『貞信公記抄』
 ● 延長五年(九二七)三月四日、諸公事に關し恩問。藏人・右少將
 ◎『貞信公記抄』
 ● 延長五年(九二七)五月十四日、節日に關する仰せを傳達。藏人・右少將
 ◎『貞信公記抄』
延長六年(九二八)正月七日、従四位下に敍される。
『職事補任』醍醐天皇 五位藏人
内藏權佐
右兵衞佐從五位下平希世 [延喜]十九年四月十七日補。延長六年正月七日從四位下。
右中辨兼内藏頭。
延長八年(九三〇)六月二十六日、宮中への落雷により卒去。時に従四位下行右中辨兼内藏頭。
『日本紀略』延長八年六月廿六戊午
午三剋從愛宕山上K雲起、急有陰澤、俄而雷聲大鳴、墮C凉殿坤第一柱上、有霹靂~火、侍殿上之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣C貫衣燒胸裂夭亡(年六十四)。又從四位下行右中辨兼内藏頭平朝臣希世顏燒而臥。又登紫宸殿者、右兵衞佐美努忠包髪燒死亡、紀蔭連腹燔悶亂、安曇宗仁膝燒而臥。民部卿朝臣【藤原C貫】載半蔀、至陽明門外載車。希世朝臣載半蔀、至修明門外載車。時兩家之人悉亂入侍、哭泣之聲禁止不休。自是天皇不豫。
『扶桑略記』延長八年六月廿六日
未時、大納言民部卿藤原C貫(年六十四。參議保則之四男也)并右中辨兼内藏頭平希世、及近衞二人、於C凉殿爲雷被震。主上惶怖、玉躰不悆、遷幸常寧殿。座主尊意、依勅候於禁中、毎夜獻于加持。・・・・・
『扶桑略記』裏書、延長八年六月廿六日戊午
申一刻雲薄雷鳴。諸衞立陣。左大臣以下群卿等起陣、侍C凉殿、々上近習十餘人連膝。但左丞相近御前。同三刻、旱天曀々、陰雨濛々、疾雷風烈、閃電照臨。即大納言C貫卿、右中辨平希世朝臣震死。傍人不能仰瞻、眼眩魂迷、或呼或走云々。先是、登殿之上舍人等、倶於C凉殿逢霹靂、右近衞忠兼死、形躰如焦。二人衣服燒損、死活相半、良久遂無恙。又雷火著C凉殿南簷。右近衞茂景獨撲滅。申四刻、雨リ雷止。臥故C貫卿於蔀、數人肩舁、出式乾門、載車還家。又荷希世出脩明門外、載車將去。上下之人觀如堵墻。如此騒動未嘗有矣。
『九條殿遺誡』遺誡日中行事
貞信公語云。延長八年六月二十六日、霹靂C凉殿之時、侍臣失色、吾心中歸依三寶、殊無所懼。大納言C貫、右中辨希世、尋常不尊佛法、此兩人已當其殀。
『體源抄』十二下
延長八年六月廿六日、~なりおそろしかりけるとき、C凉殿の未申の柱の上に、~火いてきてもえけり。大納言C貫卿の上のきぬに火付て、ふしまろひ、おめきさけへともきへす。右中辨希世朝臣はかほやけて、柱のもとにたうれふす。此二人は、つねに佛~をかろしむる故に、此災にあたるよし、貞信公かたり給けり。是茂朝臣弓をとりむかひたりけれと、立所にけころされぬ。美好【ママ】忠兼は鬢やけて死ぬ。紀蔭連はほのほにむせひて悶絶す。これかきりある天下の禍なりけれと、佛法を信し奉ほとの人は、其節にありなから、ことゆへなかりけり。貞信公は時平の御弟にておはしけれとも、このかみに同意し給はす、ことに天~の御ことをなけき給けり。其故に當座におはしけれとも、いさゝかのわつらひなし。可ゝれにや。
『太平記』十二
・・・・・ 遂ニ雷電大内ノC凉殿ニ落テ、大納言C貫卿ノ表ノ衣ニ火燃附テ、伏轉ヘトモ消ス。右大辨希世朝臣ハ心剛ナル人ナリケレハ、縱如何ナル天雷ナリトモ、王威ニ怖サランヤトテ、弓ニ矢ヲ取副テ向ヒ給ヘハ、五體スクミテ覆ニ倒ニケリ。近衞忠包、鬂髪ニ火附燒死シヌ。紀蔭連ハ煙ニ咽テ絶入ニケリ。・・・・・
午三刻、C凉殿の坤(未申)第一柱の上に落雷した際、おそらく藤原C貫と共に柱のすぐそばに座っていた希世は、雷電の直撃を受けて顏が燒け、倒れ伏した。希世の家人たちは、同じく震死した藤原C貫の家人たちと共に宮中に亂入し、主人の遺体のそばで泣き叫び、禁止しても止まなかった。申四刻、雨があがり雷が止み、希世の遺体は半蔀に載せられ、修明門外で車に載せられて、野次馬による衆人環視の中、家に戻った。
藤原忠平が言うには、C凉殿への落雷の際、自身は心中、佛教に歸依し、ことさら恐ろしくはなかったが、藤原清貫と平希世は常日頃、佛法を尊崇しなかったために震死の災いに遭った、という。
『太平記』では、希世は「心剛なる人」であったため、弓矢を執って天雷に立ち向かったが、五體がすくんで倒れ伏した、とされるが、『體源抄』では、これは是茂朝臣のこととされる。
 
【子女】
 平朝臣忠孝
 大宰少監
 平朝臣忠依
 從五位下
『尊卑分脈』(仁明平氏)希世の子
 大宰少監
忠 孝

彳五下
忠 依 拾作者
 (女子)
 少僧都信慶(藤原朝臣助信の男子)の母。
『尊卑分脈』藤原 攝家相續孫「時平」の子「敦忠」の子「助信」の子「信慶」
 少僧都
信 慶
   母左【脇坂本・前田一本・内閣文庫本「右」】中弁希世女。
 
【詠歌】
『昌泰元年秋亭子院女郎花合』後宴歌
         まれよ
名にし負へば あはれと思ふを 女郎花 たれを憂しとか まだき移ろふ
『後撰和歌集』十二「戀歌」四
         あひ志りて侍る女の人に、あた名たち侍りける遣はしける、
                  平まれよの朝臣
枝もなく 人におらるゝ 女郎花 ねをたに殘せ 植ゑし我か爲
『玉葉和歌集』五「秋歌」下
         延喜の御時の菊合に、
                  平希世朝臣
きくの花 霜にうつると をしみしは こき紫に そむる也けり
 
【文獻等】
『大日本史料』第一編之六、二六二〜二六四頁


 
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更新日時: 2021.12.22.
公開日時: 2021.10.03.


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