白川雅富


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[雅富]

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雅富王
 
 白川家當主
 
もと 源朝臣英方
英方王
曾根研三「改訂伯家家譜」、曾根研三「増補訂正伯家系譜」に「元英方、康英」とあるが、「康英」の名は未確認。
いちじ 源朝臣雅富
のち 源朝臣雅富
 
【官位】
 ~祇伯
  ※ 白川~祇伯(四四)(四六)
 從二位
 
【出自】
 
雅冬王の養子。
 實は源朝臣通條[梅溪]の二男。
 源朝臣通躬[中院]の養子となり白川家を相續。
 
【母】
 實は家女房。
 
【經歴】
元祿十五年(一七〇二)三月十二日生。
源朝臣英方
寶永五年(一七〇八)正月二十日、「通條卿次男」として從五位下に敍される(去五日分)。七歳。
葉室ョ胤本『公家補略 正コ二年正月』從五位下
通條卿次男 英方 十一
享保元年(一七一六)十一月二十四日、雅冬王の子となる。十五歳。
『諸家傳』十一「白川」
享保元十一廿四〔爲雅冬子〕當家相續。
享保元年(一七一六)十二月二十一日、元服、昇殿を聽許され、侍從に任じられ、從五位上に敍される。十五歳。
享保三年(一七一八)十一月八日、服忌(實母)。
享保三年(一七一八)十二月二十九日、服解、出仕、復任。
享保五年(一七二〇)十二月二十八日、正五位下に敍される。十九歳。
葉室本『公家補略 享保五年』從五位上
十二廿八叙正下 英方 侍従/十九
享保九年(一七二四)正月二十六日、從四位下に敍される(去年十二月二十六日分)。二十三歳。
英方王
享保十年(一七二五)十二月二十三日、~祇伯に任じられる(侍從はもとの如し)。二十四歳。
享保十一年(一七二六)十二月二十四日、右近衞權少將に任じられる(~祇伯はもとの如し)。二十五歳。
享保十二年(一七二七)正月七日、白馬節會に右次將として參仕。
『通兄公記』享保十二年正月七日(甲午)【白馬節會散状/次將】
 右 ・・・・・ 英方王 ・・・・・
享保十三年(一七二八)正月七日、白馬節會に右次將として參仕。
『通兄公記』享保十三年正月七日戊午【白馬節會/次將】
 右 ・・・・・ 英方王 ・・・・・
雅富王
享保十三年(一七二八)三月二十三日、雅富と改名。二十七歳。
享保十三年(一七二八)六月十一日、昭仁親王立太子節會に右次將として參仕。
『昭仁親王立太子記』享保十三年六月十一日庚寅
  次將
   左
 ・・・・・
   右
 隆英朝臣  雅富王  □【公】梁
『資方朝臣記抄』享保十三年六月十一日
昭仁親王立太子節會也。・・・・・ 次將左 ・・・・・ 右隆英朝臣、雅富王、公梁 ・・・・・
『基驪ィ記』享保十三年六月十一日庚寅
・・・・・ 次將左 ・・・・・ 右隆英朝臣 雅富王 公梁朝臣
享保十三年(一七二八)十二月二十一日、從四位上に敍される。二十七歳。
享保十四年(一七二九)正月七日、白馬節會に右次將として參仕。
『資方朝臣記抄』享保十四年正月七日
白馬節會。・・・・・ 次將 ・・・・・ 右實全朝臣、通貫朝臣、隆英朝臣、雅富王、重煕朝臣、公梁也。・・・・・
享保十五年(一七三〇)六月二十六日、左近衞權中將に轉任(~祇伯はもとの如し)。二十九歳。
享保十六年(一七三一)正月七日、白馬節會に左次將として參仕。
『資方朝臣記抄』享保十六年正月七日
白馬節會。・・・・・ 次將左 基康朝臣 雅富王 ・・・・・
『憲臺記』享保十六年正月七日
申刻計着束帶參内。・・・・・
   節會公卿
 ・・・・・
   次將左
 基康朝臣 雅富王 ・・・・・
享保十七年(一七三二)正月十六日、踏歌節會に左次將として參仕。
『日野西資敬日記』享保十七年正月十六日甲戌
天陰、申刻許雨下、及暮色リ、入夜リ。踏歌節會陣之間雨儀、節會之前爲リ儀被改。出御。物召已後入御。
  公卿
・・・・・
  少【次】將左
實長朝臣(【傍注】臨期不參)、雅富王(【傍注】劒内侍扶持)、隆廉朝臣、家季(【傍注】臨期不參)
    右
・・・・・
享保十七年(一七三二)十二月二十七日、正四位下に敍される。三十一歳。
享保十八年(一七三三)正月一日、元日節會の左次將となるが不參。
『憲臺記』享保十八年正月一日
・・・・・
  節會公卿
・・・・・
  次將左
定俊朝臣、雅富王(【傍注】臨期不參)、・・・・・
享保十九年(一七三四)正月七日、白馬節會に左次將として參仕。
『八槐記』享保十九年正月七日甲申
・・・・・
  公卿【白馬節會】
・・・・・
  次將
左 實長朝臣 雅富王 ・・・・・
享保十九年(一七三四)十一月九日、服忌(養父 雅冬)。
享保十九年(一七三四)十二月十日、服解、出仕、復任(内々依別勅爲輕服)。
享保二十年(一七三五)正月七日、白馬節會に左次將として參仕。
『資方朝臣記抄』享保二十年正月七日
節會雨儀。・・・・・ 次將左 實長朝臣、雅富王、・・・・・
享保二十年(一七三五)閏三月十五日、櫻町院に御拜傳授。
『通兄公記』享保廿年閏三月十五日乙卯
今朝上【櫻町院】有御拜御傳受(~祇伯雅富王奉授之)。
『御湯殿上日記』享保二十年後三月十五日
はるゝ。御み間にて伯中將【雅富王】より御はい御でんじゆ有。
『ョ言卿記』享保二十年後三月十五日乙卯
御拜御傳受。白川中將【雅富王】被申上候。
享保二十年(一七三五)六月十七日、除服、出仕。
享保二十年(一七三五)十月二十六日、即位由奉幣陣儀における櫻町院の出御において御劔を奉持。
『ョ言卿記』享保二十年十月廿六日壬辰
辰剋于C凉殿出御。々劒雅富王。・・・・・
享保二十一年(一七三六)正月七日、白馬節會に左次將として參仕。
『稙房卿記』享保廿一年正月七日壬寅
 白馬節會
  公卿
・・・・・
  次將左
・・・・・ 雅富王 ・・・・・
享保二十一年(一七三六)正月十二日、中御門院(仙洞)の御幸始に供奉。
『稙房卿記』享保廿一年正月十二日丁未
今日御幸始供奉公卿雲客如左。
 ・・・・・ 雅富王(位袍紅單) ・・・・・
享保二十一年(一七三六)正月十六日、從三位に敍される(~祇伯はもとの如し)。三十五歳。
元文二年(一七三七)二月十一日、直衣を聽許される。三十六歳。
元文二年(一七三七)七月八日、除服、出仕。
元文五年(一七四〇)正月八日、正三位に敍される(~祇伯はもとの如し。去六日分)。三十九歳。
源朝臣雅富
元文五年(一七四〇)二月二十九日、~祇伯を辭す。三十九歳。
元文五年(一七四〇)三月十七日、服忌(實父)。
元文五年(一七四〇)五月九日、服解、出仕。
雅富王
寛保元年(一七四一)四月十六日、~祇伯に還任。四十歳。
寛延四年(一七五一)五月十八日、桃園院[當今]に御拜傳授。
『八槐記』寛延四年五月十八日甲寅
參内(候御手習)。此日有御拜御傳授之儀。~祇伯雅富王奉授之。
『ョ言卿記』寛延四年五月十八日甲寅
後聞。今日御拜御傳授云々。着御々服、御引直衣紅、御打衣紅。御袴永秀朝臣奉仕。御前葉室中納言。御手水コ大寺中納言。役送益房、丹波ョ亮。
出御于御三間。御劔永秀朝臣。御裾攝政。伯三位(雅富王)被奉授御拜之儀了云々。
稿本桃園天皇實録』三八三頁 寛延四年五月十八日「御拜御傳授アリ、~祇伯白川雅富、之ヲ授ケ奉ル、」
寛延四年(一七五一)九月十一日、例幣發遣の儀において、當今(桃園院)の御拜がなく、攝政に代って代拜。
『八槐記』寛延四年九月十一日甲戌
參内。今日例幣發遣也。如例上卿飛鳥井大納言【雅香】、辨u房【C閑寺】等。向~祇官代。无御拜。攝政依故障、伯三位(雅富王)勤御手代。宣命如放生會。攝政不覽之。有天覽。
寶暦二年(一七五二)正月二十二日、從二位に敍される(~祇伯はもとの如し)。五十一歳。
葉室本『公家補略 寶暦二年正月一日』非参議 正三位
正廿二叙従二位 雅富(神祇伯/五十一)
源朝臣雅富
寶暦九年(一七五九)三月十九日、~祇伯を辭す。五十八歳。
寶暦九年(一七五九)五月十七日、薨逝。五十八歳。
 
【配偶】
喬子女王
 雅冬王の女子。
 雅辰王の母。
 
【子女】
雅辰王
資顯王
富子女王
 櫻町院即位式の褰帳女王
 實は藤原朝臣永ai永房)[高倉]の女子。
[源朝臣]雅子
佐子女王
 桃園院即位式の褰帳女王
 實は藤原朝臣實全[滋野井]の女子。
 
【文獻等】
『諸家傳』十一「白川」
曾根研三「増補訂正伯家系譜」(曾根研三『伯家記録考』附録)


 
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更新日時: 2020.11.24.
公開日時: 2017.01.06.


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