白川雅冬


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[雅冬]

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雅冬王
 
 白川家當主
 
もと 源朝臣康起
康起王
いちじ 源朝臣雅冬
のち 源朝臣雅冬
 
【官位】
 ~祇伯
  ※ 白川~祇伯(四一)(四三)
 正三位
 
【出自】
 
雅光王の養子。
 雅喬王の二男。
 
【經歴】
延寶七年(一六七九)正月十五日(十二日)生。
源朝臣康起
貞享二年(一六八五)十二月二十四日、從五位下に敍される。七歳。
元祿五年(一六九二)六月七日または元祿九年(一六九六)、雅光王の養子となる。
『諸家傳』十一「白川」、「雅冬」
元祿〔五年六七當家相續 ○同挿入〕十年二月七日元服昇殿。
『諸家傳』十一「白川」、「雅光」
○〔同【元祿】九年月日以弟康起爲養子
葉室ョ重本『公家補略 元禄五年正月』には、「故雅喬卿末子 康起 十四」とあるのみで、雅光王の子となったという記載は見えない。日野輝光本 元禄九年『補略』においても同樣。
葉室ョ重本『公家補略 元禄五年正月
故雅喬卿末子 康起 十四
日野輝光本 元禄九年『補略』
故雅喬卿末子 康起 十八
元祿十年(一六九七)二月七日、元服、昇殿を聽許され、侍從に任じられる。十九歳。
元祿十年(一六九七)閏二月十二日、從五位上に敍される。十九歳。
康起王
元祿十一年(一六九八)六月三日、~祇伯に任じられる(侍從はもとの如し)。二十歳。
元祿十三年(一七〇〇)十二月二十五日、正五位下に敍される。二十二歳。
雅冬王
元祿十四年(一七〇一)十二月十四日、「雅冬」と改名。
元祿十四年(一七〇一)十二月二十三日、左近衞權少將に任じられる(~祇伯はもとの如し)。二十三歳。
元祿十五年(一七〇二)正月十六日、踏歌節會に參仕。
『基量卿記』元祿十五年正月十六日
リ。及暮參内。節會殊被〓【公心】之躰也。
  公卿
・・・・・ 雅冬(不書王字)・・・・・
元祿十六年(一七〇三)十二月二十二日、從四位下に敍される。二十五歳。
源朝臣雅冬
寶永元年(一七〇四)九月十七日、病氣に依り~祇伯を辭す。二十六歳。
寶永二年(一七〇五)七月六日、服忌(喪實母)。
寶永二年(一七〇五)八月二十八日、服解、出仕、復任。
雅冬王
寶永三年(一七〇六)十月九日、~祇伯に還任(左少將はもとの如し)。二十八歳。
寶永三年(一七〇六)十月十日、服忌(喪養父 雅光)。
寶永四年(一七〇七)二月三日、服解、出仕、復任。
寶永四年(一七〇七)十二月五日、右近衞權中將に轉任(~祇伯はもとの如し)。二十九歳。
寶永四年(一七〇七)十二月十八日、從四位上に敍される。二十九歳。
寶永五年(一七〇八)二月十六日、慶仁親王の立太子節會に右次將として參仕。
『基長卿記』寶永五年二月十六日
今日慶仁親王有立坊之事。・・・・・
  立太子節會
・・・・・
 參仕公卿
・・・・・
  次將
・・・・・
雅冬王(右) ・・・・・
『中御門院御昇壇記』寶永五年二月十六日(『稿本中御門天皇實録』三一頁)
立坊節會辰時。
 ・・・・・
 次將 ・・・・・ 右 雅冬王 ・・・・・
寶永六年(一七〇九)四月二十日、賀茂祭近衛使を勤仕。
『禁裏番衆所日記』寶永六年四月廿日辛酉
リ陰。賀茂祭也。・・・・・ 次近衞使右近中將雅冬王率舞人陪從等進弓場代。・・・・・
『輝光卿記』寶永六年四月廿日
陰リ。今日賀茂祭也。使右中將雅冬王。傳奏坊城中納言。奉行u光。
寶永六年(一七〇九)九月二十五日、中御門院の新造内裏遷幸無爲の御祈を松尾社・稻荷社に下知。
『光榮公記』寶永六年九月廿五日
有召參内。來月七日新造内裏遷幸リ天等御祈、七社七ヶ寺被仰出、則觸之。
 七社
  ・・・・・
  ・・・・・ 松尾 (【傍注】傳奏)雅冬王
  ・・・・・ 稻荷 (【傍注】傳奏)雅冬王
  ・・・・・
先以書状示之。
・・・・・
寶永六年(一七〇九)十一月四日、中御門院の新造内裏遷幸無爲の御祈を松尾社・稻荷社に下知。
『光榮公記』寶永六年十一月四日
今日新内裏遷幸日時定陣儀。・・・・・
今日、來十六日遷幸リ天之御祈、七社七ヶ寺へ可愛觸由、被仰出。七社傳奏へ以状示遣。
 ・・・・・ 稻荷・松尾雅冬王 ・・・・・
・・・・・
寶永六年(一七〇九)十一月二十三日、新院(東山院)の新造内裏御幸に、殿上人として參仕。
『資堯朝臣記』寶永六年十一月廿三日
今日新院御幸于新造内裏。・・・・・
 殿上人 ・・・・・
  ・・・・・ 雅冬王(同上【隨身二人。沓持、笠持】)。
  ・・・・・
寶永八年(一七一一)正月二日、小朝拜に參仕。また、元日節會に右次將として參仕。
『資堯朝臣記』寶永八年正月二日辛卯
『基長卿記』寶永八年正月二日
寶永八年(一七一一)二月十一日、正四位下に敍される(去正月五日分)。三十三歳。
正コ二年(一七一二)正月七日、白馬節會に右次將として參仕。
『禁裏番衆所日記』正コ二年正月七日辛卯
『輝光卿記』正コ二年正月七日
正コ三年(一七一三)正月七日、白馬節會に右次將として參仕。
『禁裏番衆所日記』正コ三年正月七日甲酉
『輝光卿記』正コ三年正月七日
正コ三年(一七一三)九月十一日、伊勢例幣發遣において、輕服の攝政の代官として參仕。
『禁裏番衆所日記』正コ三年九月十一日乙卯
例幣發遣也。・・・・・ 陣儀畢、上卿以下向~祇官代。・・・・・ 巳半刻許、~宮上卿辨等、從~祇官代歸參、御幣無異無事發遣之由言上之。攝政不參(依輕服也)。御代官之事(攝政依服~祇伯雅冬王於里第勤之)。
正コ四年(一七一四)正月七日、白馬節會に右次將として參仕。
『禁裏番衆所日記』正コ四年正月七日辛戌
『輝光卿記』正コ四年正月七日庚戌
正コ四年(一七一四)五月、武命により出仕を止められ、閉門。三十六歳。
正コ五年(一七一五)十二月九日、從三位に敍される(~祇伯はもとの如し)。三十七歳。
正コ五年(一七一五)十二月二十一日、中御門院[當今]に御拜傳授。
『禁裏番衆所日記』正コ五年十二月廿一日癸未
稿本中御門天皇實録』二七三頁 正コ五年十二月二十一日「御拜御傳授ノ儀アリ、~祇伯白川雅冬、之ヲ授ケ奉ル、」
正コ六年(一七一六)二月四日、直衣を聽許される。三十八歳。
享保七年(一七二二)十二月二十五日、正三位に敍される。四十四歳。
源朝臣雅冬
享保十年(一七二五)十二月二十三日、勅勘により~祇伯を辭し、蟄居。四十七歳。
享保十九年(一七三四)十月十五日、勅免。
享保十九年(一七三四)十一月九日、薨逝。五十六歳。
 
【子女】
喬子女王
 中御門院即位式の褰帳女王
雅富王
 もと源朝臣英方英方王
 雅冬王の養子。
 實は源朝臣通條[梅溪]の二男。
 源朝臣通躬[中院]の養子となり、白川家を相續。
 
【日記】
『雅冬王記』二十册 元祿十二年(一六九九)〜享保八年(一七二三
曾根研三『伯家記録考』二五六〜二五七頁
 
【文獻等】
『諸家傳』十一「白川」
曾根研三「改訂伯家家譜」(曾根研三『伯家記録考』附録)
曾根研三「増補訂正伯家系譜」(曾根研三『伯家記録考』附録)
川田貞夫「しらかわまさふゆ 白川雅冬」(『國史大辭典』第七巻(吉川弘文館、一九八六年月第一版)七三七頁)


 
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公開日時: 2017.01.30.

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