平随時
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『北山抄』一「年中要抄」上「正月」上「卯日獻御杖事」
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『尊卑分脈』(平氏) | |
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『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
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八九〇(寛平二年)生
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内竪頭となる。 | |||||||||||
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延喜十七年(九一七) 正月二十九日、美濃權大掾となる(内竪頭勞)。二十八歳。
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延喜十八年(九一八) 正月、治部少丞となる(内竪別當)。二十九歳。
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延喜二十一年(九二一)正月三十日、式部少丞(または民部少丞)となる。三十二歳。
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延喜二十三年(九二三)正月十二日、式部大丞となる。三十四歳。
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延長二年(九二四)正月七日、從五位下に敍される(宇多院御給、判官(または別當)代)。三十五歳。
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延長二年(九二四)二月一日、遠江守となる。
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延長七年(九二九)正月七日、從五位上に昇敍(治國の功により)。四十歳。
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延長七年(九二九)正月二十九日、備中介となる。
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承平四年(九三四)閏正月二十九日、美濃權守となる。
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承平八年/天慶元年(九三八)十月十七日、防鴨河使となる。四十九歳。
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天慶元年(九三八)十二月十四日、左衞門權佐。
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天慶二年(九三九)正月七日、正五位下に昇敍。五十歳。
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天慶二年(九三九)正月十六日、次侍從となる。
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天慶二年(九三九)二月一日、丹波守を兼ねる。
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天慶五年(九四二)四月六日より以前に鴨河の治水のために獻言し、四月六日、修築。
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天慶五年(九四二)四月二十五日、從四位下に昇敍(左衞門權佐の勞)。五十三歳。
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天慶五年(九四二)十二月、左衞門權佐を辭任。
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天慶七年(九四四)正月二十二日、春宮權亮を兼ね、時の皇太子、成明親王(のちの村上天皇)に仕える。五十五歳。
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天慶七年(九四四)閏十二月二日、東宮荷前の儀に參仕。
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天慶八年(九四五)十月十四日、修理大夫を兼ねる。春宮權亮はもとのごとし。五十六歳。
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天慶九年(九四六)四月二十一日、(村上天皇の踐祚に伴い)昇殿を聽される。五十七歳。
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天慶九年(九四六)四月二十三日、中使として藤原忠平のもとを訪れる。
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天慶九年(九四六)四月二十六日、藏人頭となる。
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天慶九年(九四六)四月二十八日、正四位下に昇敍(前坊亮の功)。
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天慶九年(九四六)七月十七日、内藏頭を兼ねる。
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天暦二年(九四八)正月三十日、參議となる。修理大夫はもとのごとし。五十九歳。
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天暦三年(九四九)正月二十四日、伊豫守を兼ねる。
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天暦四年(九五〇)正月二十日、大宰大貳を兼任。修理大夫を退任。六十一歳。大宰府に赴任。
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天暦七年(九五三)十二月十八日、大宰府に於いて卒去。六十四歳。時に參議正四位下行大宰大貳。
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安藝守 正五位下 |
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合香の名人として知られる。
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『薫集類抄』下巻 裏書「和合次第 下」には、「合香法」の名人として、源朝臣公忠と共に名を擧げられており、「隨時者以八條李部王之孫得名」と記される。また、『薫集類抄』上巻に、「曾昌薫衣法」を獻じたことが見える。
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『大日本史料』第一編之十、二七〜二九頁、天暦七年十二月十八日(甲子)「參議大宰大貳正四位下平隨時任所ニ卒ス、」 |
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