平随時


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[隨時]

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隨時 ユキトキ
 
 平朝臣隨時
 
『北山抄』一「年中要抄」上「正月」上「卯日獻御杖事」
天慶九年、[春宮]大夫師輔卿舁案坤角、[東宮]學士維時【大江】乾角、[春宮]權亮隨時(ユキトキ)艮角、左少將爲善巽角。・・・・・
 
【出自】
 
雅望王の三男。
 仁明天皇三世。
 本康親王の孫。
 
【母】
 藤原朝臣山蔭の女子。
『尊卑分脈』(平氏)
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
[仁明天皇曾孫【く・し】]。一品式部卿本康親王孫。右馬頭從四位下雅望[王【し】]三男。母中納言山蔭[卿【し】]女。
 
【經歴】
八九〇(寛平二年)生
逆算
内竪頭となる。
延喜十七年(九一七) 正月二十九日、美濃權大掾となる(内竪頭勞)。二十八歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
延喜十八年(九一八) 正月、治部少丞となる(内竪別當)。二十九歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
延喜二十一年(九二一)正月三十日、式部少丞(または民部少丞)となる。三十二歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
『大日本史料』第一編之五、二八七頁
延喜二十三年(九二三)正月十二日、式部大丞となる。三十四歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
『大日本史料』第一編之五、四三五頁
延長二年(九二四)正月七日、從五位下に敍される(宇多院御給、判官(または別當)代)。三十五歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
延長二年(九二四)二月一日、遠江守となる。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
延長七年(九二九)正月七日、從五位上に昇敍(治國の功により)。四十歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
延長七年(九二九)正月二十九日、備中介となる。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
承平四年(九三四)閏正月二十九日、美濃權守となる。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
承平八年/天慶元年(九三八)十月十七日、防鴨河使となる。四十九歳。
『貞信公記抄』天慶元年十月十七日
民部卿【平伊望】略定防河使令見定。使隨時、判官立身【平】、主典良邦【若江善邦】。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
『大日本史料』第一編之七、一八一頁
天慶元年(九三八)十二月十四日、左衞門權佐。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶二年(九三九)正月七日、正五位下に昇敍。五十歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶二年(九三九)正月十六日、次侍從となる。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶二年(九三九)二月一日、丹波守を兼ねる。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶五年(九四二)四月六日より以前に鴨河の治水のために獻言し、四月六日、修築。
『本朝世紀』天慶五年四月六日己未
先是防鴨河使長官左衞門權佐兼丹波守平朝臣隨時申防件河畢。
天慶五年(九四二)四月二十五日、從四位下に昇敍(左衞門權佐の勞)。五十三歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶五年(九四二)十二月、左衞門權佐を辭任。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶七年(九四四)正月二十二日、春宮權亮を兼ね、時の皇太子、成明親王(のちの村上天皇)に仕える。五十五歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶七年(九四四)閏十二月二日、東宮荷前の儀に參仕。
『九條殿記(九暦)』荷前 天慶七年閏十二月二日(庚午)
午後殿下【成明親王】着幄御座。御監澆(【傍】盥洗)後、權亮平隨時朝臣、備後權守藤原朝臣C正(殿上人)舁幣物案立於土敷上啓。内舍人C原至行取下幣筥、置於案下。殿下奉拜了。・・・・・
天慶八年(九四五)十月十四日、修理大夫を兼ねる。春宮權亮はもとのごとし。五十六歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶九年(九四六)四月二十一日、(村上天皇の踐祚に伴い)昇殿を聽される。五十七歳。
『貞信公記抄』天慶九年四月□【廿】日庚辰
有讓位宣命。事了、今上【村上天皇】降殿拜舞、即辞讓表奉於天皇【朱雀天皇】、令不許。今日雨儀也。今上使隨時有殿上人事。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
『大日本史料』第一編之八、六一四頁
天慶九年(九四六)四月二十三日、中使として藤原忠平のもとを訪れる。
『貞信公記抄』天慶九年四月廿三日
中使随時朝臣云。殿上人可定申者、令奏曰。先可被奏上皇【朱雀上皇】。々々命師尹朝臣仰曰。中宮今日御病猶重。願出禁中云々。
以下、中使として度々『貞信公記抄』に所見あり。
天慶九年(九四六)四月二十六日、藏人頭となる。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶九年(九四六)四月二十八日、正四位下に昇敍(前坊亮の功)。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
天慶九年(九四六)七月十七日、内藏頭を兼ねる。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
『中右記』嘉承二年十月廿二日
・・・・・ 坊官除目之次、被成内藏頭。是天暦御時、平随時例也。
天暦二年(九四八)正月三十日、參議となる。修理大夫はもとのごとし。五十九歳。
『公卿補任』天暦二年、參議正四位下「平隨時(五十九)」
延木十七正廿九美乃權大掾(内竪頭勞)。十八年正ー治部少丞(内竪別當)。廿一正月式【くし「民」】部少丞。廿三年正月大丞。延長二正七從五下(宇多院御給、別當【し「判官」】代)。二月一日遠江守。同七正月七日從五上(治國)。同廿九日備中介。承平四閏正廿九美乃權守。天慶元正月防鴨河使。十二十四左衛門權佐。同二正七正五下。同十六日次侍從。二月一日兼丹波守。同五年十二【し「正」】月停權佐。同【し無】五四廿五從四下(佐勞)。[同七年【し】]正月廿二日兼春宮權亮。同八十十四兼修理大(亮如元)。同九四廿一昇殿。同廿六補藏人頭。廿八日正四下(前坊亮)。七月十七日兼内藏頭。天暦二正卅任三木(修理大夫如元)。
天暦三年(九四九)正月二十四日、伊豫守を兼ねる。
『公卿補任』天暦三年、參議正四位下「平隨時(六十)」
修理大夫。正月廿四日兼伊與守。
天暦四年(九五〇)正月二十日、大宰大貳を兼任。修理大夫を退任。六十一歳。大宰府に赴任。
『公卿補任』天暦四年、參議正四位下「平隨時(六十一)」
正月廿日兼太宰大貳、止修理大夫。
『大日本史料』第一編之九、五一五頁
『公卿補任』天暦五年、參議正四位下「平隨時(六十二)」
大貳。
『公卿補任』天暦六年、參議正四位下「平隨時(六十三)」
大貳。
天暦七年(九五三)十二月十八日、大宰府に於いて卒去。六十四歳。時に參議正四位下行大宰大貳。
『公卿補任』天暦七年、參議正四位下「×平隨時(六十四)」
太宰大貳。十二月十八日於任所卒(六十四。頭三年。三木六年)
 
【子女】
 平朝臣眞正
 安藝守
 正五位下
 
【香道】
合香の名人として知られる。
『薫集類抄』下巻「煎甘葛」
隨時朝臣(和合蜜與千歳蔓汁、混合用之)
炮甲香
隨時朝臣
 漬酒經一宿、以C水洗、和千歳藁【蔓】汁滴炙、待朝搗用、今試一度以千歳蔓汁代蜜。但推尋其意。依蜜非好。蓋相轉用乎。
合春
隨時朝臣
 和蜜投鐵臼中、擣數以多爲好。
『薫集類抄』下巻 裏書「和合次第 下」には、「合香法」の名人として、源朝臣公忠と共に名を擧げられており、「隨時者以八條李部王之孫得名」と記される。また、『薫集類抄』上巻に、「曾昌薫衣法」を獻じたことが見える。
藤河家利昭「梅枝の巻の薫物合わせと仁明帝」(『広島女学院大学大学院言語文化論叢』第二号、一九九九年三月)
 
【文獻等】
『大日本史料』第一編之十、二七〜二九頁、天暦七年十二月十八日(甲子)「參議大宰大貳正四位下平隨時任所ニ卒ス、」


 
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公開日時: 2021.10.05.

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