常盤井宮恒明親王
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昭訓門院 藤原朝臣實兼[後西園寺相國入道]の女子。 |
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乾元二年(一三〇三)五月九日生。
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乾元二年(一三〇三)五月十五日、七夜の儀。
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乾元二年(一三〇三)七月八日、五十日の儀。
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乾元二年(一三〇三)七月二十一日、御行始。今出川第より冷泉に移徙。
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乾元二年(一三〇三)八月三日、立親王。
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乾元二年(一三〇三)八月二十七日、百日の儀。
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乾元二年(一三〇三)八月二十八日、冷泉殿より今出川西第に移徙。
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嘉元二年(一三〇四)十二月十二日、常盤井殿において魚味の儀あり。
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延慶四年(一三一一)正月十四日、常盤井殿において着袴。
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文保二年(一三一八)十二月二十日、元服。
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文保三年(一三一九)二月十四日、元服後、花園院のもとに初參。
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文保三年(一三一九)三月九日、中務卿に任じられる。
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正中三年(一三二六)、中務卿より解任。
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嘉暦二年(一三二七)正月五日、二品に敍される。
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元弘二年(一三三二)三月十日、本年の除目より以降、巡給にあずかる。
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元弘四年(一三三四)正月五日、一品に敍される。
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建武元年(一三三四)十二月十七日、中務卿に再任される。
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建武二年(一三三五)十一月二十六日、式部卿に任じられる。
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建武三年(一三三六)正月十日、洛中に亂入した足利方の兵による放火のため、内裏と共に居所常盤井殿が燒亡。
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觀應二年(一三五一)九月四日、出家。
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觀應二年(一三五一)九月六日薨。四十九歳。
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全仁親王 [常盤井宮] |
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尊守 のち尊守法親王 [仁和寺西院/蓮華光院] |
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深勝 のち深勝法親王 【南朝の二品法親王】 |
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聖助 [東南院] (または聖珍[東南院/?藤澤清淨光寺]) |
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恒胤 のち尊信法親王 【後醍醐院の猶子】 [勸修寺] 「後寶泉院殿」 |
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恒鎭法親王(もと嘉仁[親王]) 【龜山院の猶子】 [梶井] |
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仁譽法親王 [聖護院] |
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乘朝法親王 [仁和寺上乘院] |
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恒助法親王 [仁和寺相應院] もと宣助、恒助【藤原朝臣季衡[大宮右大臣]の猶子】 |
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慈明 |
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恒守 |
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龜山院の常盤井殿を傳領し、「常盤井殿」と號した。
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龜山院は、晩年の子として恒明親王を寵愛した。
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後宇多院・後二條院によって立太子を阻止された恒明親王は、持明院統と良好な關係を保ったが、邦良親王と對立する後醍醐院とも親密な關係にあったと言われる。
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『花園天皇宸記』に、恒明親王が花園院のもとで蹴鞠に興じた記載が見られる。
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雙峯宗源(源一國師圓爾の法嗣)に歸依參禪し、妃の故宮を正法山大聖寺(臨濟宗)と改め、雙峯宗源を開山とした。
なお、この正法山大聖寺(比丘尼御所の大聖寺とは別寺)は、天明八年(一七八八)までに廢寺となっている。 |
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龜山院は病が重くなると、嘉元三年(一三〇五)七月二十日および八月二十八日、八條院領の大部分を恒明親王と昭訓門院(恒明親王の母)に讓り、藤原朝臣公衡[西園寺](昭訓門院の兄弟)には遠江國濱松庄を賜わり、恒明親王の後見とした。
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龜山院の崩後まもなく、後宇多院は恒明親王の後見である藤原朝臣公衡[西園寺]と對立し、嘉元三年(一三〇五)閏十二月、公衡を勅勘し、公衡の分國(伊豫國・伊豆國)を収公した。しかし、鎌倉幕府の介入によって、公衡への勅勘は二箇月で解けた。 | |||||
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安樂壽院領と歡喜光院領(共に八條院領の一部)は、崩御直前の龜山院が恒明親王に讓與したものであるが、安樂壽院領は、それより以前に、後宇多院が父 龜山院から讓與されていたものであり、崩御直前の龜山院が「錯亂」によって恒明親王に讓進したものとされた。結局、鎌倉幕府の取り計らいにより、徳治三年(一三〇八)閏八月三日、後宇多院は安樂壽院領を恒明親王に管領させた。また、歡喜光院領は、鎌倉幕府から恒明親王の取り分であるとされたものの、安樂壽院領に立て替えられ、結局、尊治親王に讓與されることとなった。
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龜山院が崩御直前に昭慶門院(憙子内親王)に讓與した所領は、昭慶門院の死後、恒明親王が相續するものとされた。しかし、龜山院の崩御後、昭慶門院は後醍醐院の男子、世良親王を養子として、所領を世良親王に讓與した。
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最晩年の龜山院には、恒明親王を立太子させようとの意思があり、それを後宇多院に諮った。後宇多院は、嘉元三年(一三〇五)七月二十八日、恒明親王の立太子を應諾し、父龜山院に對し「心安らかに思しめされるの條、年來孝行の所存、此の時に顯れるべく候か」と述べている。
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病床にあった龜山院は、嘉元三年(一三〇五)八月五日、恒明親王に書置を殘し、その中で、親王の立太子には後宇多院と伏見院の兩上皇が應諾し、この旨を鎌倉幕府に通知すべきであり、萬事、昭訓門院の兄 藤原朝臣公衡[西園寺]と相談するように、と遺言した(龜山院は同年九月十五日崩御)。
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後宇多院は、龜山院の遺詔を無視して、恒明親王ではなく、自身の子息、邦治親王(のちの後二條院)を後伏見院の東宮に立てた。その後、伏見院・後伏見院は、後宇多院・後二條院と對抗するため、恒明親王を「龜山院御流」の正嫡として、東宮富仁親王即位後の皇太子に恒明親王を推した。即ち、徳治二年、伏見院は、「恒明親王立坊事書案」(筆者は藤原朝臣爲兼[京極]か藤原朝臣公衡[西園寺]と推定される)を鎌倉に送付した。その内容は、先ず、東宮富仁親王の踐祚を促し、後伏見院の在位があまりに短すぎたことへの不滿を述べる。次に、天變地異の頻發や世上不穩、後深草院・龜山院の相次ぐ崩御等は、政道が天意にかなっていないためか、と論じ、當今(後二條院)は讓位すべきであるとする。更に、「後深草院・龜山院兩方御流」の迭立は鎌倉幕府によって承認されたものであると述べ、龜山院は恒明親王を正嫡として東宮に立てるようにと後宇多院に申し置いたが、後宇多院は龜山院の素意を無視したので、恒明親王が正嫡とならなければ「龜山院御流」はここに斷絶することとなる、と論じている。そして、「不孝之君」即ち後宇多院の政務を止めて、嫡庶の差別を立てて兩統迭立をすみやかにすることが天意にかなう、と結んでいる。しかし、富仁親王の皇太子には、尊治親王が立てられた。
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邦良親王(後醍醐院の皇太子)の薨逝後、皇太子に、後醍醐院は中務卿尊良親王を推し、持明院統は量仁親王を推した。また、恒明親王と邦省親王(邦良親王の弟)も立太子を望んだ。結局、鎌倉幕府は後深草院・龜山院兩流迭立の原則に従って、量仁親王を皇太子に立てさせた。
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『鎌倉・室町人名事典』四〇四頁「つねあきしんのう 恒明親王」によると、延元元年(一三三六)六月、鎌倉で擧兵して京都へ進撃した源朝臣尊氏[足利]を、大將軍として迎え撃ち、尊氏を西走させた、という。 |
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『花園院六首歌合』に出詠。 | ||||||
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『續千載和歌集』に二首入集。 | ||||||
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『續後拾遺和歌集』に一首入集。 | ||||||
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『風雅和歌集』に五首入集。 | ||||||
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『新千載和歌集』に三首入集。 | ||||||
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『新拾遺和歌集』に一首入集。 | ||||||
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『拾遺現藻和歌集』巻第三「秋哥」一六六歌
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『續現葉和歌集』に入集。 | ||||||
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『臨永集』に入集。 | ||||||
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『松花集』に入集。 |
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『稿本龜山天皇實録』九三三〜九五五頁「皇子恒明親王」 |
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C水正健『皇族考證』第肆巻、三五二頁、三六九頁、三七一〜三七二頁 |
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『皇室制度史料 皇族四』 二五〜三五頁 |
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小川剛生編『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、平成八年(一九九六)五月) 三一頁、五七頁、八二頁、一七八頁 |
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『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、平成二年(一九九〇)九月コンパクト版)四〇四頁上中「つねあきしんのう 恒明親王」(瀬野精一郎) |
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網野善彦「ある貴族が記録した出産」(『いまは昔 むかしは今 第五巻 人生の階段』 福音館書店、一九九九年) |
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森茂暁「「恒明親王立坊事書案」について」(『東アジアと日本』歴史編(田村圓澄先生古稀記念会編。吉川弘文館、昭和六十二年(一九八七)十二月)五四三〜五六九頁。採録、森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』第二章第三節「皇統の対立と幕府の対応」) |
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金井静香「中世における皇女女院領の形成と伝領 ──昭慶門院領を中心に──」(金井静香『中世公家領の研究』(京都、思文閣出版、一九九九年二月)、一八六〜二〇五頁) |
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