常盤井宮恒明親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[恒明]

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恒明親王
 
 常盤井宮
(一)
 
【官位】
 一品
 式部卿
 
【出自】
 龜山院の男子。
 
【生母】
 藤原朝臣瑛子
 昭訓門院
 藤原朝臣實兼[後西園寺相國入道]の女子。
 
【經歴】
乾元二年(一三〇三)五月九日生。
『公衡公記』別記「昭訓門院御着帶記(乾元二年)」
『公衡公記』別記「昭訓門院御産愚記(乾元二年)」五月九日
申半許、御氣色殊以急速也。不經幾程皇子降誕。・・・・・
『公茂公記』乾元二年五月九日丙寅
昭訓門院自夜前有御産氣。・・・・・ 今出川(【傍】禪林寺殿)(法皇本來御座彼方)就之。・・・・・ 申剋皇子降誕云々。・・・・・
乾元二年(一三〇三)五月十五日、七夜の儀。
『公茂公記』乾元二年五月十五日壬申
今日七夜也。・・・・・
乾元二年(一三〇三)七月八日、五十日の儀。
『實躬卿記』乾元二年七月八日甲子
今日今宮可有御五十日儀 ・・・・・
乾元二年(一三〇三)七月二十一日、御行始。今出川第より冷泉に移徙。
『實躬卿記』乾元二年七月廿一日丁丑
今日今宮可有御行始之間、・・・・・ 參今出川殿 ・・・・・
乾元二年(一三〇三)八月三日、立親王。
『實躬卿記』乾元二年八月三日
後聞。今夕今宮有立親王事。・・・・・
乾元二年(一三〇三)八月二十七日、百日の儀。
『實躬卿記』乾元二年八月廿七日壬子
早旦參御所。今日新宮御百日儀也。・・・・・
乾元二年(一三〇三)八月二十八日、冷泉殿より今出川西第に移徙。
『實躬卿記』乾元二年八月廿八日癸丑
法皇自今日御幸西郊、可有御如法經之故也。予參御車寄。先臨幸今出川西第(室町面)。新宮同行啓。御車寄西園寺大納言。宮御方可爲此御所之故也。
嘉元二年(一三〇四)十二月十二日、常盤井殿において魚味の儀あり。
『實躬卿記』嘉元二年十二月十二日庚寅
今日若宮御魚味也。依兼日催、申刻着束帶參常盤井殿 ・・・・・
延慶四年(一三一一)正月十四日、常盤井殿において着袴。
『槐抄』御幸
延慶四年正月十四日、先參昭訓門院(家君御同車)。今日親王於常葉井殿可有御着袴也。仍女院同御幸。
文保二年(一三一八)十二月二十日、元服。
『御遊抄』親王御元服加冠以下例
式部卿
恒明親王、文保二、十二、廿。
 無御遊。
『續史愚抄』文保二年十二月廿日
文保三年(一三一九)二月十四日、元服後、花園院のもとに初參。
『花園天皇宸記』元應元年二月十四日庚子
恒明親王元服以後初參。於東面四足門下々車。兼季卿【菊亭】以下扈從。兼季・車簾、即參院御方常御所。女院有御對面、頃之女院入御。其後召公卿等令侍座、勸盃數巡。酩酊後、於西面被引牛於親王、々々即退出。
文保三年(一三一九)三月九日、中務卿に任じられる。
『花園天皇宸記』元應元年三月十一日丁卯
抑一昨日縣召除目除書今日見之。・・・・・ 中務卿恒明親王
正中三年(一三二六)、中務卿より解任。
恒明親王に代わり、正中三年(一三二六)二月八日に元服した尊良親王が中務卿となる。
嘉暦二年(一三二七)正月五日、二品に敍される。
九條房實『嘉暦二年日記』嘉暦二年正月五日乙巳(『九条家歴世記録』一)
節分御方違 行幸常盤井殿。
九條房實『嘉暦二年日記』嘉暦二年正月六日丙午(『九条家歴世記録』一)
・・・・・ 敍位昨日(云々)。・・・・・ 敍位聞書到來。二品恒明親王。上階三四人。策勞少々敍之了。但上首一兩人各有超越。相秀一級不許。
『師守記』康永三年正月七日戊戌
・・・・・ 但式部卿親王嘉暦二年正月五日敍位令敍二品給候。・・・・・
元弘二年(一三三二)三月十日、本年の除目より以降、巡給にあずかる。
壬生家文書[壬293]叙位除目関係文書334『除目雜例鈔』
一、親王可預巡給事
 ・・・・・
元弘二年三月十日 宣旨
 二品行式部卿恒明親王
  宜従今年預巡給
    蔵人頭左大弁ーーーー
  ・・・・・
元弘四年(一三三四)正月五日、一品に敍される。
『師守記』康永三年正月七日戊戌
・・・・・ 端書云。元弘四年正月五日式部卿親王【恒明親王】令敍一品給。・・・・・
建武元年(一三三四)十二月十七日、中務卿に再任される。
『實隆公記』文明七年九月十八日甲子
 除目親王任官例
・・・・・
同【建武元年】 十二月十七日京官(執筆内大臣定房)
中務卿恒明親王
建武二年(一三三五)十一月二十六日、式部卿に任じられる。
『實隆公記』文明七年九月十八日甲子
 除目親王任官例
・・・・・
同【建武】二年十一月廿六日京官(執筆右大臣公賢)
中務卿尊良親王 式部卿恒明親王
建武三年(一三三六)正月十日、洛中に亂入した足利方の兵による放火のため、内裏と共に居所常盤井殿が燒亡。
『參考太平記』十四「長年歸洛附内裏炎上事」
其後四國西國ノ兵共洛中ニ亂入テ、行幸供奉ノ人々ノ家屋形屋形ニ火ヲ懸タレバ ・・・・・ 折節辻風烈シク吹布テ、龍樓竹苑、准后ノ御所、式部卿親王常盤井殿、・・・・・ 煙同時ニ立登リテ、炎四方ニ充滿タレバ、・・・・・
觀應二年(一三五一)九月四日、出家。
『園太暦』觀應二年九月三日
式部卿親王(恒明)御不例危急。
『公卿補任』觀應二年 前參議 從二位
藤基春(四十八) 九月四日出家。式部卿親王落餝日也。
觀應二年(一三五一)九月六日薨。四十九歳。
『園太暦』觀應二年九月六日
傳聞。入道一品式部卿恒明親王今日巳刻薨給。生年四十九歳。年來不食、寝膳卒例給。自去二月比興盛、今遂歸泉下。此親王者龜山院鍾愛之御末子、昭訓門院所奉誕給也。
『醍醐地藏院日記』觀應二年九月六日
[常]盤井親王(恒明)葬御。
 
【子女】
全仁親王
[常盤井宮]
尊守 のち尊守法親王
[仁和寺西院/蓮華光院]
深勝 のち深勝法親王
【南朝の二品法親王】
聖助
[東南院]
(または聖珍[東南院/?藤澤清淨光寺])
恒胤 のち尊信法親王
【後醍醐院の猶子】
[勸修寺]
「後寶泉院殿」
恒鎭法親王(もと嘉仁[親王])
【龜山院の猶子】
[梶井]
仁譽法親王
[聖護院]
乘朝法親王
[仁和寺上乘院]
恒助法親王
[仁和寺相應院]
もと宣助恒助【藤原朝臣季衡[大宮右大臣]の猶子】
慈明
恒守
 
【逸事等】
龜山院の常盤井殿を傳領し、「常盤井殿」と號した。
脇坂本・前田家一本・内閣文庫本『尊卑分脈』(龜山院裔)
(號常磐井)恒明親王(【右袖書】一品 式部卿)(【左袖書】母昭訓門院(実兼公女))
『實躬卿記』嘉元二年六月十三日午
今日若宮【恒明親王】(常葉井殿)可有行啓今出川第。・・・・・
『増鏡』巻第十三「秋のみ山」
あくる春(元亨二)正月三日朝覲の行幸なり。法皇【後宇多院】は御おとうとの式部卿のみこ【恒明親王】の御家、大炊御門京極(常盤井殿)といふにぞおはします。
龜山院は、晩年の子として恒明親王を寵愛した。
『園太暦』觀應二年九月六日
『増鏡』巻第十一「さしぐし」
・・・・・ やがて院号ありしかば、昭訓門院と聞えつる、その御腹に一昨年ばかり若宮生まれ給へるを限りなくかなしきものに思されつるに、今少しだに見奉らせ給はずなりぬるをいみじう思されけり。
後宇多院・後二條院によって立太子を阻止された恒明親王は、持明院統と良好な關係を保ったが、邦良親王と對立する後醍醐院とも親密な關係にあったと言われる。
『増鏡』巻第十四「春の別れ」
『花園天皇宸記』に、恒明親王が花園院のもとで蹴鞠に興じた記載が見られる。
『花園天皇宸記』元亨元年【一三二一】四月廿五日戊辰
中務卿宮【恒明親王】被參。於寝殿有内鞠。即於東面庭蹴鞠。及晩入内。着大口歸參女院御方。聊有盃酌事。及數獻、酩酊之間起座休息。有頃以兼高【藤原】被召之間、參院御方之處。中書王云。「於神〓【主カ】方可尋郭公云々」。承諾。上皇・予・中書王三人同車、公秀【三条】・國房【吉田】・兼高等卿又一車連軒、於鴨社鳥居邊下車、橋上放車。半帖爲座、連哥數句。于時、山月影昇、河水聲清、鷄樹初鳴、牛漢欲曙、郭公猶秘語、遊客空欲歸。上皇詠和哥給。予進返哥。相續又有御製。中書王奉和之、臣下又可有和哥之由有仰。國房卿詠之、公秀卿和之。此贈答狂哥也。有頃還御之間、天已曙。歸路被懸飛牛。中書王車也。仍如此、自東面對屋下車。中書王直被歸了。今夜遊覽、誠有興。但郭公遂不鳴。尤所遺恨也。
『花園天皇宸記』元亨元年六月廿二日甲子
今日、中務卿親王【恒明親王】參。有鞠。其儀大畧記于裏。鞠了於寝殿北面聊供酒膳。女房爲陪膳。此間在兼卿【菅原】所勞危急。仍鞠事如何之由、朕申之。仰云。「死去之後、暫可被止興遊。危急之間、何事有哉」云々。(裏書云々)
 雙峯宗源(源一國師圓爾の法嗣)に歸依參禪し、妃の故宮を正法山大聖寺(臨濟宗)と改め、雙峯宗源を開山とした。
『雙峯國師語録』「雙峯國師年譜畧」
元亨元年辛酉(五十五歳)・・・・・ 李部親王【恒明親王】屡詣師之室、叩入道之要。師授以話頭、機語投契。師付伽梨以證之。親王捨洛東之后妃之故宮、搆禪苑(山曰正法、寺曰大聖。勅陞官寺)、邀師爲開山祖。正中二年甲子(六十三歳)、大聖開堂。
 佐藤秀孝「入元僧古源邵元の軌跡(下)──嵩山少林寺首座から京都東福寺住持へ──」(『駒澤大學佛教學部研究紀要』第六十一集、平成十五年(二〇〇三)三月、七三〜一四〇頁)、七八頁下に、
・・・・・ これ【雙峯國師年譜畧】によれば、恒明親王はしばしば宗源の室に到って参禅入道の要旨を問い、古則公案(話頭)を授けられて参究に努めていたが、元亨元年(一三二一)についに機縁が契い、宗源より僧伽梨衣すなわち大衣の袈裟を付与されている。これを喜んだ恒明親王は洛東に存した后妃の故宮を禅苑に改め、正法山大聖禅寺を建立して宗源を開山祖師に迎えているわけである。ただし、宗源が実際に大聖寺の住持として開堂したのは、それから数年を経た正中二年(一三二五)のことであったとされる(16)
と見え、同一二〇頁注(16)に、
正法山大聖寺はもと京都東九条に存していたが、すでに廃寺となっている。今枝愛眞『中世禅宗史の研究』「第二章、中世禅林機構の成立と展開」の「中世禅林の官寺機構」によれば、
大聖寺は、もと京都東九条にあったが、いまは廃寺である。山号を正法山という。常盤井宮恒明親王はふかく禅に帰依して、東山にあった妃の故宮を禅院に改めて大聖寺とし、聖一国師円爾の法嗣双峰宗源をその開山とした。
とまとめられている。・・・・・
と見える。
 なお、この正法山大聖寺(比丘尼御所の大聖寺とは別寺)は、天明八年(一七八八)までに廢寺となっている。
 
【恒明親王の所領等相續】
龜山院は病が重くなると、嘉元三年(一三〇五)七月二十日および八月二十八日、八條院領の大部分を恒明親王と昭訓門院(恒明親王の母)に讓り、藤原朝臣公衡[西園寺](昭訓門院の兄弟)には遠江國濱松庄を賜わり、恒明親王の後見とした。
『公衡公記』別記「龜山院御凶事記」嘉元三年九月廿三日
龜山院の崩後まもなく、後宇多院は恒明親王の後見である藤原朝臣公衡[西園寺]と對立し、嘉元三年(一三〇五)閏十二月、公衡を勅勘し、公衡の分國(伊豫國・伊豆國)を収公した。しかし、鎌倉幕府の介入によって、公衡への勅勘は二箇月で解けた。
安樂壽院領と歡喜光院領(共に八條院領の一部)は、崩御直前の龜山院が恒明親王に讓與したものであるが、安樂壽院領は、それより以前に、後宇多院が父 龜山院から讓與されていたものであり、崩御直前の龜山院が「錯亂」によって恒明親王に讓進したものとされた。結局、鎌倉幕府の取り計らいにより、徳治三年(一三〇八)閏八月三日、後宇多院は安樂壽院領を恒明親王に管領させた。また、歡喜光院領は、鎌倉幕府から恒明親王の取り分であるとされたものの、安樂壽院領に立て替えられ、結局、尊治親王に讓與されることとなった。
「後宇多院被進先朝御讓状案」(東山御文庫記録(宮内廳書陵部所藏)/『宸翰集』五。村田正志『風塵録』三九頁、『皇室制度史料 皇族四』三三〜三四頁)
處分
・・・・・
安樂壽院 (寺領目録在別)
龜山院自御在世被許官領【管領】畢。而有錯亂子細、稱有改變御讓。爰關東有計申旨、管領之後、同又可分進恒明親王之由重申之間、當時爲處分、若達【違】子細者、專可付惣領歟。
クワム喜光院 (寺領目録在別)
依關東申状支配恒明親王分。然而又重有申旨、被立替安樂壽院畢。仍當時管領。
智惠光院 (子細同前)
・・・・・
 コ治三年閏八月三日       御判
龜山院が崩御直前に昭慶門院(憙子内親王)に讓與した所領は、昭慶門院の死後、恒明親王が相續するものとされた。しかし、龜山院の崩御後、昭慶門院は後醍醐院の男子、世良親王を養子として、所領を世良親王に讓與した。
『公衡公記』「龜山院御凶事記」嘉元三年【一三〇五】九月廿三日丁卯(『皇室制度史料 皇族四』、二五〜三一頁)
 
【恒明親王立太子問題】
最晩年の龜山院には、恒明親王を立太子させようとの意思があり、それを後宇多院に諮った。後宇多院は、嘉元三年(一三〇五)七月二十八日、恒明親王の立太子を應諾し、父龜山院に對し「心安らかに思しめされるの條、年來孝行の所存、此の時に顯れるべく候か」と述べている。
嘉元三年七月廿八日後宇多院宸筆(久邇宮舊藏文書(宮内廳書陵部所藏)。村田正志『風塵録』二五頁)
恒明親王儲貳間事、當時后宮女院等之間、可備其器之仁無所生之上者、承候之趣非無謂候歟。今度沙汰之時、以此旨可被仰合關東之由承候了。毎事被仰置之趣、不可有相違之條勿論、心安被思食之條、年來孝行所存、可顯此時候歟。恐惶謹言。
  (嘉元三)七月廿八日            世−【世仁】
病床にあった龜山院は、嘉元三年(一三〇五)八月五日、恒明親王に書置を殘し、その中で、親王の立太子には後宇多院と伏見院の兩上皇が應諾し、この旨を鎌倉幕府に通知すべきであり、萬事、昭訓門院の兄 藤原朝臣公衡[西園寺]と相談するように、と遺言した(龜山院は同年九月十五日崩御)。
嘉元三年八月五日龜山院宸筆(佐佐木信綱舊藏文書(宮内廳書陵部所藏)。村田正志『風塵録』二五頁)
立坊【恒明親王の立坊】之間事、院【後宇多院】并持明院殿【伏見院】御返事如此。不絶夜鶴之思奔波、以至孝之志可被謝者也。且以此旨必可被仰關東者也。毎事前右府【西園寺公衡】候へは可被仰合也。雖不及成人、如此書置、可被達遠方也。
  嘉元三年八月五日 
後宇多院は、龜山院の遺詔を無視して、恒明親王ではなく、自身の子息、邦治親王(のちの後二條院)を後伏見院の東宮に立てた。その後、伏見院・後伏見院は、後宇多院・後二條院と對抗するため、恒明親王を「龜山院御流」の正嫡として、東宮富仁親王即位後の皇太子に恒明親王を推した。即ち、徳治二年、伏見院は、「恒明親王立坊事書案」(筆者は藤原朝臣爲兼[京極]か藤原朝臣公衡[西園寺]と推定される)を鎌倉に送付した。その内容は、先ず、東宮富仁親王の踐祚を促し、後伏見院の在位があまりに短すぎたことへの不滿を述べる。次に、天變地異の頻發や世上不穩、後深草院・龜山院の相次ぐ崩御等は、政道が天意にかなっていないためか、と論じ、當今(後二條院)は讓位すべきであるとする。更に、「後深草院・龜山院兩方御流」の迭立は鎌倉幕府によって承認されたものであると述べ、龜山院は恒明親王を正嫡として東宮に立てるようにと後宇多院に申し置いたが、後宇多院は龜山院の素意を無視したので、恒明親王が正嫡とならなければ「龜山院御流」はここに斷絶することとなる、と論じている。そして、「不孝之君」即ち後宇多院の政務を止めて、嫡庶の差別を立てて兩統迭立をすみやかにすることが天意にかなう、と結んでいる。しかし、富仁親王の皇太子には、尊治親王が立てられた。
『經親卿記』「徳治二年恒明親王立坊事書案」(宮内廳書陵部所藏伏見宮文書)(村田正志『風塵録』三四〜三六頁、『皇室制度史料 皇族四』三一〜三三頁)
東宮【富仁親王】踐祚事、於今者尤可有其沙汰歟。正安新院【後伏見院】御脱屣之次第、就境觸事、猶難被散御愁鬱、纔雖被行冠禮、如敍位・除目未及御前之儀、宇佐宮勅使雖進發、不被待參宮之期、忽以轉變、凡代始有限之公事等大略未被遂行之處、楚忽之沙汰、今更被述子細者、再以【風:似】被表御恥辱歟。猥依一方之御競望、輙及其沙汰者、向後之濫吹、更不可有懸【風:盡】期之間、只任天運、偏以穩便之儀、于今未被出御一言之處、近曾天變地妖連綿而無絶、世上更不靜謐。兩法皇【後深草院・龜山院】相續崩御、男女貴種大臣公卿等多以【風:以ナシ】歸泉、先規定稀歟。災殃之甚何過之哉。政道若有不叶天意之故歟。就之被【風:彼(被カ)】廻攘災之計略者尤可在斯時乎。新院【後伏見院】御在位纔三个年、雖無指御科、忽以推讓。當今【後二條院】登極以後已七个年、更不可謂早速。况於比正安之儀哉。抑後深草院・龜山院兩方御流不可有斷絶之由、關東先々被申了。此條於後嵯峨院【風:院ナシ】叡慮重々有子細、度々被申關東了。定有御存知歟。蹔先就龜山院御素意、可立一方之御流之處、御存日之間、萬里小路殿【後宇多院】偏御向背、孝道被缺了。此條世以謳歌、都鄙所知【皇:和】也。倩案事情、事莫大於不孝。明王以孝治天下、古典之所載也。而御不孝之至。御遺跡事遂不及御委附、被申置昭訓門院了。依之今方及御訴訟之上者、云御在生、云御沒後、併被毀破御素意之條、旁以露顯了。且親王【恒明】立坊事、[※龜山院は]被申置萬里小路殿【後宇多院】并此御方【伏見院】、被整置兩方御承諾之御返事。以之可被仰關東之由被推置慇懃之御書於親王【恒明】云々。凡御所并御文書以下始終可爲親王【恒明】御管領之由被仰置歟。然者以親王【恒明】可爲御正嫡之條御素意之趣旁以分明歟。此上者萬里小路殿【後宇多院】難被奉用一方之御正流乎。於親王【恒明】御事者、法皇【龜山】御存日偏可被扶持申之由、慇懃被申置之間、當時即不被奉見放者也。就之彼御生涯之安否、自昭訓門院重々有被歎申之旨、且直雖被仰遣關東、于今無被計申旨之間、已被失御安堵之謀云々。凡不依尊卑、皆以父母之攘爲規模之處、今被破分明之御素意者、向後傍例可爲何樣哉。所詮如先々沙汰、兩御流共不可有斷絶之儀者、一方可在彼親王【恒明】歟。但雖爲法皇【龜山院】之【風:之ナシ】御素意、親王【恒明】若難被備御正嫡者、龜山院御流爰可斷絶歟。然者就根源尋後嵯峨院御素意、可歸正統長嫡之御一流乎。文永法皇【後嵯峨院】崩御之刻、於御素意者雖爲分明、只以髣髴之御自稱、龜山院知【風:被】食天下事了。今龜山院崩御之時、被破顯然之御素意、上皇【後宇多院】毎事御管領之條、彼是以【風:似】有用捨、且御存日被申置之趣、崩御以後有相違事者可爲御不孝之由、被載御遺書云々。不孝之君爭可知【風:被】食天下事哉。凡尋後嵯峨院御素意者、無可被分兩流之所見。守龜山院之御遺勅者、親王【恒明】可爲繼嗣之正嫡。云彼云是當時之儀不叶其理乎。抑勘兩方御治天之年紀、龜山院御流前後廿三年(自文永九年至弘安十年、自正安三年至當時)。於後深草院御流者纔十四年(自弘安十年至正安三年)。兩御流雖相竝、尤可有嫡庶之差別、况於爲玄隔之年紀哉。就中正安卒【風:率(マゝ)】爾之推讓、于今未被慰御愁吟【風:呤】。此上任道理、早速被計申者、且【風:早】叶天意、且可爲攘災之最哉。
邦良親王(後醍醐院の皇太子)の薨逝後、皇太子に、後醍醐院は中務卿尊良親王を推し、持明院統は量仁親王を推した。また、恒明親王と邦省親王(邦良親王の弟)も立太子を望んだ。結局、鎌倉幕府は後深草院・龜山院兩流迭立の原則に従って、量仁親王を皇太子に立てさせた。
『後伏見院勅書案』(『近衛家文書』。村田正志『風塵録』五九頁)
 
【備考】
『鎌倉・室町人名事典』四〇四頁「つねあきしんのう 恒明親王」によると、延元元年(一三三六)六月、鎌倉で擧兵して京都へ進撃した源朝臣尊氏[足利]を、大將軍として迎え撃ち、尊氏を西走させた、という。
 
【作歌】
『花園院六首歌合』に出詠。
『續千載和歌集』に二首入集。
『續後拾遺和歌集』に一首入集。
『風雅和歌集』に五首入集。
『新千載和歌集』に三首入集。
『新拾遺和歌集』に一首入集。
『拾遺現藻和歌集』巻第三「秋哥」一六六歌
  たいしらす          中務卿親王
□□□□□ 松の嵐に 鹿の音を そへてかなしき 秋の山里
『拾遺現藻和歌集』巻第四「冬哥」三四二歌
  歳暮の心を          中務卿親王
□□【なに】となく すくる月日は おほえねと 暮ぬるとしに 今そおとろく
『拾遺現藻和歌集』巻第七「戀哥上」四九二歌
  □【題】しらす           中務卿親王
□□□□□ 待夜もいさや しらま弓 またひく方の あるとおもへは
『續現葉和歌集』に入集。
『臨永集』に入集。
『松花集』に入集。
 
【文獻等】
稿本龜山天皇實録』九三三〜九五五頁「皇子恒明親王」
C水正健『皇族考證』第肆巻、三五二頁、三六九頁、三七一〜三七二頁
『皇室制度史料 皇族四』 二五〜三五頁
小川剛生『拾遺現藻和歌集 本文と研究』(三弥井書店、平成八年(一九九六)五月) 三一頁、五七頁、八二頁、一七八頁
『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、平成二年(一九九〇)九月コンパクト版)四〇四頁上中「つねあきしんのう 恒明親王」(瀬野精一郎)
網野善彦「ある貴族が記録した出産」(『いまは昔 むかしは今 第五巻 人生の階段』 福音館書店、一九九九年
森茂暁「「恒明親王立坊事書案」について」(『東アジアと日本』歴史編(田村圓澄先生古稀記念会編。吉川弘文館、昭和六十二年(一九八七)十二月)五四三〜五六九頁。採録、森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』第二章第三節「皇統の対立と幕府の対応」)
金井静香「中世における皇女女院領の形成と伝領 ──昭慶門院領を中心に──」(金井静香『中世公家領の研究』(京都、思文閣出版、一九九九年二月)、一八六〜二〇五頁


 
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更新日時:2023.08.26.
公開日時:2006.02.13.

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