梶井宮 恒鎮法親王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[恒鎭]

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【僧】恒鎭親王
 
 恒鎭法親王
 
 梶井門跡(梶井圓融坊)
 天台座主(第一三七代)
 
 もと
嘉仁[親王]
醍醐寺本『帝系圖』裏書、「恒明親王」の子

├恒 鎭 法 親 王 天台座主
│        嘉仁
 
【稱號】
 「梶井新宮」「梶井宮
 「梨下宮
 
【出自】
 恒明親王[常磐井宮]の男子。
 龜山院の孫。
 龜山院の猶子。
 承鎭法親王の資。
『本朝帝系抄』、「恒明親王」の子
上乗│院
  ├恒鎮法親王
  │
 
【經歴】
*嘉仁親王
亡祖父 龜山院の猶子として親王宣下をこうむったと推定される。
醍醐寺本『帝系圖』裏書、「恒明親王」の子
『諸門跡譜』「梶井殿」、「恒鎭親王(天台座主)」
恒明親王男。龜山院爲御子。
『天台正嫡梶井門跡略系譜』「恒鎭親王」
恒明親王息。龜山院猶子。無品。
恒鎭[法]親王
承鎭親王の資となり、梶井圓融坊に入室し、落飾。
『梶井圓融坊在住親王傳』「恒鎭法親王(號梨下宮。第三十一世)」
龜山院御猶子。常盤井宮一品恒明親王男。後宇多帝孫【ママ】。承鎭法親王資。
『新座主傳』「第百三十七 無品恒鎭親王(梨本)」
龜山院御猶子。常盤井中務卿恒明親王男。承鎭親王弟子。
延文五年(一三六〇)二月二十三日から三月二日まで、十日間、天下靜謐御祈のため、禁中で七佛藥師法を修す。
『天台正嫡梶井門跡略系譜』「恒鎭親王」
延文五年二月廿三日ヨリ於禁中修七佛藥師法(天下靜謐御祈。三月二日結願)。
『梶井圓融坊在住親王傳』「恒鎭法親王(號梨下宮。第三十一世)」
延文五年二月廿三日修七佛藥師法於禁中、祈天下靜寧。至三月二日結願。
貞治元年(一三六二)九月二十三日、天台座主に補される。
『迎陽記』康安二年九月廿三日乙丑
今日改元定也。・・・・・ 先有(【右傍】天台)座主宣下事(梶井新宮無品恒鎭法親王御補任)。上卿坊城中納言。奉行職事行知、仰宣下事於上卿退。後上卿移端座、以官人召内記。予進軾。仰詞、無品恒鎭法親王爲天台座主。宣命草進。予退。・・・・・
『貞治改元定記』所引『官記(兼治宿禰記)』康安二年九月廿三日(乙丑)
改元定也。・・・・・ 及子刻先有座主宣下(以二品承胤親王御辭退替、無品恒鎭親王令補給)。上卿坊城中納言俊冬卿、參著仗座(奧)。職事右中辨行知進奧座、仰之。次上卿移端座、召官人令置軾。次召大内記秀長(先是來著床子。依少納言也)仰宣命草事。・・・・・
『後深心院關白記(愚管記)』康安二年九月廿三日乙丑 裏書
傳聞。今夜右府【鷹司冬通】先着陣、次條事定、次改元【貞治元年】定云々。仗議以前、以承珍法親王【ママ】爲天台座主宣下云々。上卿可尋記。
『祇園執行日記拔萃』「第百卅九恒鎭法親王」
梨本。恒明親王御子。梨本承胤親王御弟子。貞治元年九月廿三日宣下。御拜堂(貞治三)。
『大日本史料』第六編之二十四、正平十七年/貞治元年九月二十日(壬戌)「北朝、天台座主承胤法親王ノ職ヲ罷メ、尋デ、恆鎭法親王ヲ之ニ補ス、」(四二六〜四二八頁)
貞治二年(一三六三)四月七日、天台座主補任の宣命を請ける。
『華頂要略』百二十四「天台座主記」五、「(無品)恒鎭法親王 龜山院御猶子、常盤井中務卿恒明親王息、承鎭親王弟子」
貞治二年四月七日(【傍注】イ元年九月廿一日)補座主、請宣命。同四年辭座主。應安五年正月三日丑時薨。
『華頂要略』百四十一「諸門跡傳」二「延暦寺 圓融坊」、「第百三十七 無品恒鎭親王(梨本)、龜山院御猶子、常盤井中務卿恒明親王男、承鎭親王弟子」
貞治元年九月廿一日補任。同二年四月七日請宣命。同四年月日(【傍注】イ九月五日)辭。
『新撰座主傳』「第百三十七 無品恒鎭親王(梨本)」
貞治元年九月廿一日補任。同二年四月七日請宣命。
『天台座主記』「第百卅八親王恒鎭(梨本) 治山三年」
貞治二年四月七日、宣命。
『諸門跡傳』法「梶井殿」、「恒鎭法親王」
貞治二年四月七日、補百卅七代座主。
『天台正嫡梶井門跡略系譜』「恒鎭親王」
貞治二年四月七日、補天台座主。
『梶井圓融坊在住親王傳』「恒鎭法親王(號梨下宮。第三十一世)」
貞治二年四月七日、補天台座主。
貞治四年(一三六五)九月五日、天台座主を辭す。
『天台座主祇園別當竝同執行補任次第』「第百卅九恆鎭法親王(梨本。恆明親王御子。梨本承胤親王御弟子)」
同【貞治】四年八月十八日御上表。
『天台座主記』「第百卅八親王恒鎭(梨本) 治山三年」
貞治四年月日(【傍注】九月五日イ)、辭。
『大日本史料』第六編之二十七、正平二十年/貞治四年九月五日(庚申)「恆鎭法親王、天台座主ヲ辭セラル、尋デ、北朝、入道尊道親王ヲ天台座主ニ還補ス、」(一八〜一九頁)
應安元年(一三六八)五月一日、初めて禁中の御修法に參仕し、佛眼法を修して彗星を祈禳する。
『後深心院關白記(愚管記)』應安元年五月一日庚午
恒鎭法親王(梶井。故式部卿恒明親王子)自今夜被候御修法。初度云々。參内之儀刷行粧云々。
『大日本史料』第六編之二十九、正平二十三年/應安元年五月一日(庚午)「北朝、恆鎭法親王ヲシテ、禁中ニ佛眼法ヲ修シテ彗星ヲ祈禳セシム、」(二五二頁)
應安五年(一三七二)正月四日(三日丑刻)、侍法師「但馬上座」に殺害される。
『後愚昧記』應安五年正月四日
後聞。今曉梶井宮(無品法親王恒鎭。故一品式部卿恒明子)入滅云々(梶井宮事、侍法師(但馬上座云々)奉殺害之由有其説等。言語道斷事也)。
『後深心院關白記(愚管記)』應安五年正月六日乙卯 裏書
傳聞。梶井恒鎭法親王去三日丑刻入滅云々。
『後愚昧記』應安五年二月廿三日
今日故梶井宮四十九日佛事也。願文予【三條公忠】書之。依任繼示之也。導師安居院良憲法印也。昨日實音卿【三條】爲彼宮於本所修佛事。諷誦文可C書之旨示之。而本所願文C書了。一身相兼之條先規不審。仍稱其由返遣之處、既及闕如。抂而可書送之旨再三懇望。仍今朝書遣了。先規可勘知事也。
『天台正嫡梶井門跡略系譜』「恒鎭親王」
應安五年正月三日、遷化(但馬上座奉殺害)。
『梶井圓融坊在住親王傳』「恒鎭法親王(號梨下宮。第三十一世)」
應安五年正月三日、寂。不詳壽算。
應安五年(一三七二)二月六日、梶井に前門主承胤法親王が還住する。
 
【文獻等】
稿本龜山天皇實録』一〇七三〜一〇七七頁「皇孫恒鎭親王」
『大日本史料』第六編之三十五、文中元年/應安五年正月四日(癸丑)「前天台座主梶井宮恒鎭法親王薨ゼラル、」(二一四〜二一六頁)
『皇室制度史料 皇族一』 一六三頁
森茂暁『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ334)(講談社、二〇〇五年六月) 一六九〜一七〇頁


 
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更新日時:2023.05.28.
公開日時:2023.05.18.

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