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仁安三年(一一六八)九月から治承二年(一一七八)正月五日までの間に、顯行王から改名したと考えられる。
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治承二年(一一七八)正月五日、正月敍位において、王氏の上臈として王氏爵を推擧したが、異母弟の~祇伯 仲資王も王氏爵を推擧し、結局、王氏爵は行われなかった。
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『山槐記』治承二年正月五日
又聞。王氏申文不入筥文。執筆被問外記。申云。『顯行【顯綱王の前名であろう】以云位階上臈放擧。仲資以云正親正【~祇伯の誤りであろう】又放擧。仍申文二通出來。爲隨仰所不入也』者。執筆被仰云。『先例如何。又不奉宣旨猥各放擧、不可然歟』。外記申云。『先例不分明。可在勅定。放擧事、近代不承殊宣旨。只上臈致自由沙汰可被擧也』者。今夜無沙汰被止王氏爵。
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『玉葉』治承二年正月五日(庚子)「敍位事。執筆余。初度」「敍位議」「頼業令申條々事」
一、王氏爵事
往昔第一親王擧之。中古以來、諸王之中爲長者之者擧之。年來神祇伯顯廣王所擧也。而出家之間、今年有違亂。其故者、顯綱王(顯廣嫡男)依□【イ爲】位階上臈上擧状。仲資王(顯廣二男。即顯綱弟也)當時依父讓執務彼氏事。又稱爲神祇伯上擧状者。兩人共擧事、古今未聞。然而外記不能進止。臨期奏事由可左右云々。
愚案。依神祇伯不可擧王氏爵。仲資王申旨可謂濫吹。抑往代被下宣旨所擧申也。何有自由之論哉。
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次余【藤原兼實】欲敍王氏之處、申文不見硯筥。仍申關白【藤原基房】。々々云。『可問外記』。余召男共。藏人參入。仰光能朝臣可召之由。光能參上。居長押下。余云。王氏爵名簿不見硯筥如何。可問外記。光能退下之間、余申關白云。『且敍藏人如何』(敍二省之後、或先敍王氏、或先敍藏人、共有例。而康和四年『殿暦』云、二省之後必可敍王氏云々。又關白云、先可敍王氏也。仍雖存此儀、事依可遲々、且敍他者。是又故實也)。關白云。『可然』。余問申其名。關白云。『長俊【源】』(一臈檢非違使)。余取續紙・筆等敍之(源朝臣長俊。尻付曰藏人。書式部上、不置其間也。先敍王氏之時、置中一行書之。爲敍藏人也)。置筆・續紙等。
此間光能參上、申云。『顯綱王・仲資王兩人共上申文。可隨御定』。即申文二通進之。余取之置前、申關白。々々云。『可問子細於外記』。余仰此旨。光能退下、即歸參、申外記申旨(今朝頼業如示余)。關白云。『先例可擧氏爵之由被下宣旨之後所擧申也。今兩方上奏状如何』。外記重申云。『先々數年之間、有不被敍王氏之例。然者今夜不可有沙汰歟。可在御定者』。關白云。『自由上擧状太無謂。後日可有其沙汰者』。仍余返給名簿二通於光能朝臣了。
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治承三年(一一七九)正月五日、正月叙位において、弟 仲資王と王氏爵の擧を爭う。王氏爵は行われず。
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『玉葉』治承三年正月五日甲子
此日敍位議也。・・・・・ 先欲敍王氏之處、無名簿。仍召兼光問之。此間、且敍藏人(・・・・・)。兼光歸參申云。「顯綱王・仲資王相論之間、不被仰下左右之間、不可取進擧状之由。去年敍位之時、被仰下了。仍不進之者」。關白云。「然者、兼可申此旨也。臨期被尋問之時、申此由、尤懈怠也。但今夜不可敍者」。次氏爵等 ・・・・・
敍位書樣 敍人總三十九人
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從五位下
(一行置之。爲敍王氏置之。而依無敍人、不敍之也)
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治承三年正月五日
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治承四年(一一八〇)正月五日、正月叙位において、弟 仲資王と王氏爵の擧を爭う。結局、王氏爵には顯綱王が推擧した康信王があずかった。
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『玉葉』治承四年正月五日戊午
此日敍位議也。余【藤原兼實】候執筆。・・・・・
亥刻著束帶(蒔繪劔、紺地平緒)參内。・・・・・ 染筆書從五位下(先問敍人數於關白也)。・・・・・ 次敍王氏(名簿在硯上。付短册不加封也)。余先取笏、奏曰。「王氏爵四・五年來不被敍。是則正親正顯綱與~祇伯仲資(已上兩人共、顯廣王入道子也。顯綱ハ兄、位階上臈也)、王氏之長者相論、其事未決之故也。而今上擧状(顯綱状也)、若被宣下歟。不然者自由上擧、頗以不穩。敍否之間、可在勅定者」。仰云。「可問外記」。余召通親云。「問外記」。外記申云。「可擧王氏之由、未被宣下。但去秋奉幣使之時、顯綱王可爲王氏之長者由被仰了。加之、父顯廣王在俗之時、雖不蒙可擧氏爵之勅宣、以爲王氏之長者、年來上擧。隨又所被敍來也。但此上左右可有御定者」。余奏此由。勅云。「共有何事哉。且又可計奏者」。余申云。「古昔親王蒙宣旨擧之。雖然、顯廣之時、年來上擧状。又被叙畢。今不可異彼例。何况奉幣之時、五位之王備其役、積年不被叙者、尤不便歟。但今夜不被叙、追宣下之後雖被叙、又何事之有哉。左右之間、可隨勅定者」。重仰云。「顯廣之時、有蒙殊宣旨上擧状、任彼例、可叙之者」。仍叙了。・・・・・
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從四位下に敍される。
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寿永二年(一一八三)十二月二十二日以前に卒去または出家したと推定される。
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寿永二年(一一八三)十二月二十二日に、資遠王が正親正に任じられているので、おそらく顕綱王は、これより少し以前に死去または出家したのであろう。
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