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[顯孝院]
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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
顯
[顯康]
フレームなし
□
〔
顯康
〕
源朝臣顯康
もと
顯康王
か
※
『寺門傳記補録』に、公顯の父として「安藝權守顯康王」と見える。
【出自】
康資王
(花山院の二世孫王)の男子。
實系では、花山院の玄孫にして、C仁親王の曾孫。
源朝臣顯房の子となる。
◎
『尊卑分脈』「寛和
華山
」、康資王の子
右大臣顯房公
爲【「爲」脇坂本・前田一本・内閣文庫本在「右大臣」上】子賜源姓
正親正
安藝權頭 從五上
──顯康───────────
母右中弁[藤【脇坂本・前田一本・内閣文庫本】]髟[朝臣【脇坂本・前田一本・内閣文庫本】]女
【母】
藤原朝臣髟の女子。
【經歴】
●
從五位下に敍されたと考えられる。
●
安藝權守に任じられる。
◎
『尊卑分脈』「寛和
華山
」、「顯康」
●
正親正に任じられる。
◎
『尊卑分脈』「寛和
華山
」、「顯康」
●
從五位上に敍される。
◎
『尊卑分脈』「寛和
華山
」、「顯康」
●
~祇伯に任じられた可能性がある。
※
久保田収「伯家の成立と分流」175頁に、
顕広王は、康資王の孫であり、源顕康の子であつて、永萬元年(一一六五)正月二十四日、七十一歳で神祇伯に任ぜられ、王号を称した。『顕広王記』(『古事類苑』官位部所収)に、・・・・・「命長、于
レ
今続
二
三代職
一
。」と記して、喜びの思ひを述べてゐる。ただ、ここに「三代の職を続ぐ。」と記してゐるが、曽祖父の延信王、祖父の康資王の二人は、共に神祇伯に任ぜられたから、三代のうちに数へて問題はないが、父の顕康王は神祇伯となつたといふ確証がない。『白河家系譜』(『神道叢書』所収)には神祇伯に任ずと記してゐるが、『尊卑分脉』やその他の記録には、このことがみえない。顕康は右大臣顕房の子となつたから、顕房の実子顕仲が神祇伯となつたことを踏まへて、三代の職といつたのであらうか。
とある。
【子女】
□
顯廣王
(
もと
源朝臣顯廣
歟
)
□
公顯
【顯廣王の子となる】[本覺院][園城寺長吏][天台座主]
【備考】
●
『尊卑分脈』「内大臣高藤孫」髟の子「女子(康資王室)」の尻付「顯資王母」について、『
新訂増補
國史大系 尊卑分脉 第二篇』六三頁頭注に「資、恐當據下文
花山源氏
作康」とあり、
顯資王
を恐らく顯康王の誤りであるとする。
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公開日時: 2012.01.07.
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