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『 日本の親王 ・ 諸王 』 より

 
臣 籍 降 下 ・ 賜 姓 表
自大同元年 至天長十一年
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臣籍降下・賜姓日時 臣籍降下・賜姓者 官位・出自 氏 姓 備考 典據
弘仁五年(八一四)五月八日



嵯峨天皇の男子
貞姫
潔姫
全姫
善姫
嵯峨天皇の女子
源朝臣弘仁六年(八一五)六月十九日、貫附左京(左京一條一坊)。『新撰姓氏録』左京皇別上「源朝臣」
『日本後紀』弘仁六年六月戊午
弘仁五年(八一四)五月八日以後まもなくか 嵯峨天皇の男子 源朝臣『日本三代實録』貞觀十八年五月廿七日癸卯(源朝臣寛卒傳)より弘仁四年(八一三)生と逆算される。これでは、弘仁五年五月八日に賜姓された源朝臣明よりも年長となるので、この生年には疑問があるが、いずれにせよの賜姓は、弘仁五年五月八日以後まもなくのことであろう。『日本三代實録』貞觀十八年五月廿七日癸卯
弘仁六年(八一五)以後、天長四年(八二七)二月二十八日以前 嵯峨天皇の男子(源氏之第六郎
淳和天皇の猶子
源朝臣弘仁六年出生直後の賜姓か。『日本三代實録』貞觀五年正月三日丙寅
弘仁七年(八一六)以降、天長三年(八二六)以前 善淵
安貞
高岳親王の男女 在原朝臣 『日本三代實録』貞觀十七年二月二日丙辰
『日本三代實録』元慶三年閏十月三日己丑
『日本三代實録』元慶四年五月廿八日辛巳
『日本三代實録』元慶五年十月十三日戊子
弘仁九年(八一八)八月二十三日 明日香親王の男女四人 久賀朝臣久賀朝臣三夏はこの時に賜姓されたものと推測されている。『日本紀略』弘仁九年八月甲戌
弘仁九年(八一八)八月二十三日以降、齊衡三年(八五六)正月七日以前 三常明日香親王の男子と推定されている。 久賀朝臣 『日本文徳天皇實録』齊衡三年正月辛未【亥】
  嵯峨天皇の男子 源朝臣  
弘仁十二年(八二一)直後歟 嵯峨天皇の男子 源朝臣弘仁十二年(八二一)生と逆算される。『公卿補任』
  嵯峨天皇の男子 源朝臣  
弘仁十三年(八二二)直後歟 嵯峨天皇の男子 源朝臣弘仁十三年(八二二)生と逆算される。『日本文徳天皇實録』仁壽三年四月戊子
  C嵯峨天皇の男子 源朝臣  
弘仁十三年(八二二)直後歟 嵯峨天皇の男子
仁明天皇の子となる
源朝臣弘仁十三年(八二二)生。『續日本後紀』承和五年十一月辛巳
『日本紀略』寛平七年八月廿五日己酉
弘仁十五年/天長元年(八二四)直後歟 嵯峨天皇の男子 源朝臣弘仁十五年/天長元年(八二四)生と逆算される。『日本紀略』元慶五年五月十六日癸亥
天長二年(八二五)閏七月(勅許) 高棟王大學頭從四位下
葛原親王の男子
平朝臣天長二年(八二五)七月六日上表。
貫左京
善棟王春香も同時に賜姓されたか。
『日本紀略』天長二年三月丁卯
『日本紀略』天長二年七月丁未
『新撰姓氏録』巻末補記
天長二年(八二五)閏七月以降、天長六年(八二九)六月二十一日以前 善棟王從四位下
葛原親王の二男
平朝臣高棟王と同時に賜姓されたか。『類聚國史』九九「敍位」天長二年正月辛亥
『類聚國史』六六「薨卒」天長六年六月庚午
天長二年(八二五)閏七月以降、承和七年(八四〇)正月七日以前 (春香) 平朝臣葛原親王の男子にして、學生として出身したか。
高棟王と同時に賜姓されたか。
『續日本後紀』承和七年正月甲申
天長二年(八二五)閏七月以降、嘉承三年(八五〇)正月八日以前 (可賀子)  平朝臣二世賜姓者(無位より敍從五位下
葛原親王の女子か。
高棟王と同時に賜姓されたか、または、高棟王賜姓後の出生であろう。
『續日本後紀』嘉承三年正月丁亥
天長三年(八二六)以前 仲平
行平
守平
業平
阿保親王の子息 在原朝臣 『日本三代實録』元慶四年五月廿八日辛巳
  嵯峨天皇の男子 源朝臣  
天長六年(八二九)直後歟 嵯峨天皇の男子
源朝臣常の養子
源朝臣天長六年(八二九)生 『日本三代實録』貞觀十一年八月廿七日壬子
  嵯峨天皇の男子 源朝臣  
  嵯峨天皇の男子 源朝臣  
天長九年(八三二)二月十五日 (敦子)
忠子
(尚子)
淳和天皇の女子 統朝臣天長九年二月十五日に賜姓された人名について、『類聚三代格』に明記なし。統朝臣忠子についてのみ、天長九年の賜姓であることが知られるが、賜姓の月日については不記。統朝臣敦子統朝臣尚子については、初敍の位階から一世賜姓者であることが知られるのみ。
※ 詳細は、林陸朗 「賜姓源氏の成立事情」 二六七〜二七四頁 を見よ。
『類聚三代格』十七 天長九年二月十五日淳和天皇勅
『日本三代實録』貞觀二年十一月廿六日壬寅
『日本三代實録』貞觀四年正月八日丁丑
『日本三代實録』貞觀五年正月八日辛未
『日本三代實録』貞觀五年正月廿五日戊子
×天長十年(八三三)六月 ×美能王  C原眞人美能王は後の岑成王で、嘉祥二年十一月二日の賜姓。『日本三代實録』貞觀三年二月廿九日癸酉に「十年六月、賜姓C原眞人、改名爲岑成」とあるうち「賜姓C原眞人」は衍か。
天長十年(八三三)五月二十八日
長岡[王]
岡於王
六世
他男女二十五人
 
C原眞人 『續日本後紀』天長十年五月甲寅
天長十年(八三三)十二月七日 豐宗[王]
豐方[王]
他五人
左京人六世王 C原眞人※ 承和十三年(八四六)十二月二十日にC原眞人を賜姓された豐宗王豐方王等は、これらと同一人か。ならば、この天長十年の賜姓の後に復屬籍か。『續日本後紀』天長十年十二月己丑
弘仁五年(八一四)五月八日以降、天長年内(八二四〜八三四)歟 盈姫
端姫
密姫
更姫
~姫
容姫
吾姫
聲姫
良姫
年姫
若姫
嵯峨天皇の女子 源朝臣  


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更新日時 : 2012.07.17.
公開日時 : 2000.10.22.


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