● |
「皇族の反逆兒」「やんちゃ皇族」と稱された。
|
● |
東久邇宮家の創設は、聰子内親王(明治天皇の九女)との結婚を前提としたものであった。稔彦王が最終的に聰子内親王との結婚を決心した時、明治天皇は「非常の御滿足にて」、稔彦王の兄邦彦王に「優渥なる御言葉」を賜わった、という。
|
● |
明治四十四年(一九一一)、身體の不調を理由に明治天皇との陪食を斷わったために、嘉仁親王[皇太子](のちの大正天皇)と言い合いになり、「皇族を辭める」と發言、騒動を起こした、という。
|
● |
大正九年(一九二〇)、「東伯」の假名で單身渡佛、フランス・パリの陸軍大學へ留學。自由な生活に触れ、画家モネ、政治家クレマンソーと親交を深めた一方で、一フランス人未亡人と關係を持ち、放蕩生活を送った。稔彦王のパリ滯在は、諸方面において苦慮されていた。大正十二年(一九二三)の陸軍大學卒業後も歸國せず、フランスに留まる。
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十一年十月八日
松井大使【慶四郎。駐佛】入來に付東久邇宮【稔彦王】の事を懇々依ョに及び置きたり。
|
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十一年十月十日
松井氏【慶四郎。駐佛大使】近々出發に付告別の爲め往訪す。・・・・・ 各宮殿下御留學中心得置くべき事を説示す。特に東久邇宮【稔彦王】の事を心得の爲め内話し置けり。
|
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十二年九月十四日
松平事務官【慶民。宮内】入來。東久邇宮【稔彦王】近況を報告す。
|
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十二年九月十五日
松平事務官【慶民。宮内】再度入來。・・・・・
東伯【稔彦王の假の名】問題に付ては十分考慮を要す。
|
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十三年七月十四日
白根男渡欧に付、東久邇宮【稔彦王】云々に付此迄の經過、今後の處理方に付考案の次第を内示し置き、場合に依りて滯歐中本件に關係の生ずる事あるべきを申含め置けり。
|
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十三年十一月二十七日
|
|
● |
兄鳩彦王[朝香宮]は、稔彦王のことを「彼の御方は替【變】はつて入らつしやる」と評している。
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十一年十月二十五日
朝香宮【鳩彦王】へ伺候。・・・・・
東久邇宮【稔彦王】の事に談及したるに彼の御方は替【變】はつて入らつしやるとの御言葉あり。
|
|
|
● |
大正天皇と不和で、大正天皇の病状惡化による宮内省からの再三の歸國命令をも無視し、關東大震災での二男師正王の薨逝にも歸國せず。大正天皇の崩御後の昭和二年(一九二七)一月、ようやく歸國。
◎ |
『倉富勇三郎日記』
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十三年十一月二十七日
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十四年一月二十一日
「舊冬及一月十七日兩度に伏見妃殿下御來車にて、博忠王【華頂宮】御在世中云々の事を端緒に御内顧の事を熱心に御話しありたるに付、自分にては如何共手出する事能はず、大臣へ傳へ置くべしと返事したり。爲念内話し置くとの事なりしに付、相當に御挨拶振り申上置きたり。尚餘談中稔彦王の事もありたり。
|
|
◎ |
『牧野伸顯日記』大正十四年三月十四日
・・・・・ 此程三内親王方御揃鎌倉にて御相談の結果、泰宮樣【稔彦王妃聰子内親王】より巴里の王殿下【稔彦】へ一層適切なる御書信を御差出の上御注意を御促がし被遊る事に相成たりとの報告あり。
|
|
|
● |
昭和八年七月に檢擧された「神兵隊事件」では、稔彦王の私設秘書となっていた安田銕之助退役中佐(學習院大學名譽教授安田元久の父)が首謀者の一人であり、首班として稔彦王を擁立、または、載仁親王[閑院宮]・博恭王[伏見宮]・守正王[梨本宮]・鳩彦王[朝香宮]・稔彦王から成る諸皇族の連立政權を樹立する計畫であったという。
|
● |
二・二六事件における稔彦王の態度について、昭和天皇は、鳩彦王[朝香宮]と比較して「東久邇宮の方が御判[り]になって居る」と述べている。
◎ |
『木戸幸一日記』昭和十一年二月二十八日(金)
廣幡より左の如き内話あり。
・・・・・[※昭和天皇は]各皇族の御態度につき廣幡に御感想を御漏になり、參考に總裁にも傳へよとのことなりしと。
高松宮【宣仁親王】が一番御宜しい。秩父宮【雍仁親王】は五・一五事件の時よりは余程お宜しくなられた。梨本宮【守正王】は泣かぬ許りにして御話であった。春仁王は宜しい。朝香宮【鳩彦王】は大義名分は仰せになるが、尖鋭化して居られて宜しくない。東久邇宮【稔彦王】の方が御判[り]になって居る。
|
|
|
● |
「皇族親睦會」等では飲むと醉拂って見苦しい樣を呈した。
◎ |
『宣仁親王日記』昭和十年一月一日
午後一時すぎ、秩父宮【雍仁親王】へ御年賀に上りしところ御留守にて少時まつ。御歸りあり。今澄宮【崇仁親王】のところにて朝香【鳩彦王】・東久邇【稔彦王】・竹田【恒コ王】・北白川【永久王】各宮皆さまにて散々およひになり、私【宣仁親王】のところへいらつしつたとのことに、他家をまはるのをやめて、御祝をいたゞくのもソコ々々に歸る。
朝香樣【鳩彦王】シタヽカに御酒まはり「私は獨りモノダ」とて散々オナキ出シニナリ、東さん【稔彦王】がまたツラレてボロ々々泣き出すサワギ。やつとおかへしす。
何んでも宮城より秩父さん・澄宮と連續でトテモオ酒が入つたらしかつた。コンナのも珍しいお正月なり。
|
|
◎ |
『入江相政日記』昭和十一年十二月二十三日(水)
十一時から皇族の拜賀、皇太子殿下第三回の御誕辰である。この時の朝香【鳩彦王】、特に東久邇さん【稔彦王】の態度等は實に問題にならない。反省すべきである。
|
|
◎ |
『梨本伊都子日記』昭和十六年十一月四日
|
|
● |
皇族のなかではリベラル派と見做されていた。對米英戰爭の開戰には反對であり、戰時中も、東條英機内閣に批判的であった。
◎ |
『昭和天皇獨白録』「近衞の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
十月の初伏見宮が來られて意見を述べられた。即近衛、及川【古志郎】、永野【修身】、豐田【貞次郎。外相】、杉山【元】、東條の六人を並べて戰爭可否論をさせ、若し和戰兩論が半々であつたらば、戰爭論に決定してくれとの事であつた。私【昭和天皇】は之には大藏大臣【小倉正恒】を參加せしむべきだと云つて不贊成を表明した。高松宮も砲術學校に居た爲、若い者にたき付けられ戰爭論者の一人であつた。・・・・・ 皇族その他にも戰爭論多く、平和論は少くて苦しかつた。/ 東久邇宮【稔彦王】、梨本宮【守正王】、賀陽宮【恒憲王】は平和論だつた、表面には出さなかつた。
|
|
◎ |
近衞文麿『第二次及第三次近衞内閣ニ於ケル日米交渉ノ經過(草稿)』、「日米交渉と陛下及御直宮方」(『近衛日記』二五〇頁)
|
|
● |
對米英戰爭開戰前の近衞文麿内閣總辞辭職の後、稔彦王を内閣總理大臣に推す動きもあった。
◎ |
『昭和天皇獨白録』「近衞の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
|
|
● |
昭和十九年(一九四四)七月には、東條英機首相の參謀總長兼任を罷免すべく、宣仁親王[高松宮]、鳩彦王[朝香宮]と策動した。しかし、戰爭の早期終結のために直接的に活動したわけではなかった。
◎ |
『近衞文麿日記』昭和十九年七月八日午前十時三十分「内大臣官邸に木戸内府を往訪」(『近衛日記』五〇頁)
|
|
● |
戰時中、特に昭和十九年(一九四四)六〜七月における、東條英機首相更迭後の皇族内閣計畫においては、稔彦王が總理大臣の最適任者と見做された。
◎ |
『宣仁親王日記』昭和十八年七月二十二日(木)上欄
|
◎ |
『宣仁親王日記』昭和十八年七月三十一日(土)の次、日記帳第十四册の卷末(『高松宮日記』六ノ五〇九〜五一一頁)
秩父宮【雍仁親王】ニシテ些カニテモ活動シ得ラルヽトセバ、三年ノ命ヲ一年ニツメテモ國家ノ危急ニ應ゼラルベキハ明カナルモ、未ダ之ヲタノムベク體力ノ快復シ給ハザルヲ惜ム。三笠宮【崇仁親王】ハ餘リニ幼稚【編者注「若年の意」】ナリ。數年後ヲ委スルニ足ルベキモ、今直ニモノノ役ニ立ツトハ思ヘズ。軍人タラントシテ已ニ命ヲ保ツニ專念シテ今日アリ。政治家タラントシテ未ダ機運ノ熟セザルモノアリ。モトヨリ政治に關與スルニハ東久邇宮【稔彦王】ヲ先ヅオサントスルモ、他ノ皇族ニシテョムニ足ルモノナキ觀アリ。竹田宮【恒コ王】ハ一臂ノ力トナルベシ。北白川宮【永久王】ハ已ニナシ。
|
|
◎ |
『細川護貞日記』昭和十九年二月十五日(『細川日記』一二六頁)
|
◎ |
『細川護貞日記』昭和十九年二月十七日(『細川日記』一三〇頁)
|
◎ |
『細川護貞日記』昭和十九年四月十二日(『細川日記』一八〇〜一八一頁)
公【近衞文麿】は昨夜、東久邇宮殿下に拜謁し、自分としてはこのまゝ東條にやらせる方がよいと思ふと申し上げた。夫れは若し替へて戰爭がうまく行く樣ならば當然替へるがよいが、若し萬一替へても惡いと云ふことならば、せつかく東條がヒットラーと共に世界の憎まれ者になつてゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ。・・・・・ 又殿下【稔彦王】は此の際御出まし遊ばさぬ方がよい樣思ひますと申し上げたる處、「自分もさう思ふ」との仰せあり、「自分としては最惡の事態に到りたるとき最後の御奉公の積りで出る考へだ」との仰せであつた。そこで殿下が若し今日御出ましになれば石原【莞爾】がかつぎ廻つて居るときではあり、石原に對する怨みはすべて殿下に歸する樣なりますから、その方が宜しいと思ひますと申し上げた、とのことなりき。
|
|
◎ |
『近衞文麿日記』昭和十九年六月二十二日夜「長尾邸招宴」(『近衛日記』一〇〜一一頁)
午後六時の案内なりしに東久邇宮殿下、六時半頃來着あり。「近衞一寸來てくれ」と予を別室に誘引せられ一時間半程會談せらる。
殿下【稔彦王】は予の顔を見られるや、イキナリ、
東條も今度は弱ったようだ。實は今遅れたのは東條の使が來たためだ。・・・・・
東條は「私も今日まで全力を擧げて來ましたが、とてももうやって行けません」と言って來たのだ。(註、案ずるに殿下に後繼内閣を以来せるならん)
・・・・・
予【近衛文麿】 最悪の場合はとても臣下では納まりませぬ。殿下か高松宮樣【宣仁親王】にお願いしなければならないでしょう。/殿下【稔彦王】 それは覺悟はしている。
|
|
◎ |
『近衞文麿日記』昭和十九年七月八日午前十時三十分「内大臣官邸に木戸内府を往訪」(『近衛日記』五一〜五二頁)
|
◎ |
『細川護貞日記』昭和十九年七月八日(『細川日記』二五九頁)
|
◎ |
『近衞文麿日記』昭和十九年七月八日午後(『近衛日記』五四〜五五頁)
・・・・・ なお、内府【木戸幸一】が最後の場合「高松宮殿下【宣仁親王】より殿下【稔彦王】が御適任なり」と話しいたりと言上せしに殿下【稔彦王】は、
伏見元帥宮はどうだろう
との御言葉。予【近衛文麿】は「伏見宮殿下は御老年なれば、矢張り殿下をおいて他に御適任なし」と申上げ置きたり。
|
|
◎ |
『細川護貞日記』昭和十九年九月四日(『細川日記』三〇一頁)
又公【近衞文麿】は、賀陽宮殿下【恒憲王】に拜謁せられたる所、殿下は、パレンバンの石油が殆ど來たらざること、パレンバン港外に機雷を設置され居ること、タンカーの沈沒甚だしきこと、油は後三ヶ月分を殘すのみなること、東京近郊には三百機しか飛機なきこと等を云はれ、これ以上戰を繼續することは我國體を傷つくるのみにて、何等益なきを以て、重臣等は轉換に努力すべきことを仰せらる。・・・・・ そこで陸軍を抑へるには、東久邇宮殿下【稔彦王】に出て頂く以外にはないとのことなり。是を要するに殿下の御意見は、海軍が決戰で敗れゝば戰爭を止めろとのことなり。・・・・・
|
|
|
● |
重慶の中華民國政府との休戰をめぐる繆斌問題に關與。
|
● |
昭和二十年(一九四五)八月十二日の皇族會議では、無條件降伏論であった。
◎ |
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」
[昭和二十年八月]十二日、皇族の參集を求め私【昭和天皇】の意見を述べて大體贊成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和には贊成だが、國體護持が出來なければ、戰爭を繼續するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた。
賀陽宮【恒憲王】、東久邇宮【稔彦王】、久邇宮【朝融王】は終始一貫、弱い意見であつたが、賀陽宮は松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎を推薦したりする樣な時には、本人自身の氣持と違つた事を口にした。
秩父宮は日獨同盟は主張したが、その后病氣となつたので意見は判らぬ。
高松宮はいつでも當局者の意見には餘り贊成せられず、周圍の同年輩の者や、出入の者の意見に左右され、日獨同盟以來、戰爭を謳歌し乍ら、東條内閣では戰爭防止の意見となり、其后は海軍の意見に從はれた。開戰后は悲觀論で、陸軍に對する反感が強かつた。
東久邇宮と朝香宮【鳩彦王】とは兄弟であり乍ら、終始反對の意見を持つてゐた。
|
|
|
● |
東久邇内閣組閣後、八月十八日の初閣議では、政治犯の釋放、言論結社の自由などを指示したが、實行されないまま、その政策方針は占領政策の陰に隱れた。
|
● |
東久邇内閣は、降伏文書の調印、軍の武装解除、進駐軍の受け入れなど、敗戰處理を行なったが、國民生活安定には全く無策で、戰後のインフレを招いた。また、内閣總理大臣としての稔彦王の力量に疑問が持たれた。
◎ |
『細川護貞日記』昭和二十年九月十二日(『細川日記』四三九〜四四〇頁)
議會後、此の内閣【東久邇内閣】に對する評判急激に惡化す。第一の理由は、宮樣内閣はよからぬこと、宮樣【稔彦王】自體に對する不滿、危懼等なり。首相宮は戰爭犯罪者逮捕のことありしより、此の内閣中の戰時内閣閣員を更迭せしむべし、との御意見もある由。
|
|
◎ |
『細川護貞日記』昭和二十年九月二十三日(『細川日記』四四三頁)
・・・・・[※近衞文麿の東久邇内閣からの退陣は]是實に公【近衞文麿】の爲のみならず、皇室の爲、東久邇宮殿下の御爲にして、一日も速かに退かるべきなり。唯殿下【稔彦王】は依然、退陣を御好みなく、むしろ御得意の樣にも拜察さる。・・・・・
|
|
|
● |
東久邇内閣總辭職後、皇族離脱を希望し、昭和天皇の退位を提議した。(昭和二十年十一月十一日、道義的責任を感じて皇族としての處遇を拜辭すると表明。)
◎ |
『讀賣報知』昭和二十一年二月二十七日(木下道雄『側近日誌』(文藝春秋、一九九〇年六月)一六〇頁、脚注2)
また多くの皇族方も陛下の御退位に賛成だという。東久邇宮もそのひとりであるといわれる。総辞職後まもなく、同殿下は陛下との御会見において皇族の御身分の放棄を申出られ、かつ御退位を提議されたが、当時『時機がまだ熟していない』との理由で、この両提案とも採用にならなかったという。
|
|
◎ |
木下道雄『側近日誌』昭和二十一年三月六日(水)(一六五頁)
|
|
● |
再び内閣總理大臣になろうとGHQに畫策。政治的不安定や社會不安を排除するため、平和條約締結までは東久邇宮を首班とする擧國一致内閣をつくり、新憲法制定後に昭和天皇は退位の意思・時期を表明する、と提案する書簡を、昭和二十一年(一九四六)一月初にGHQに手渡した。しかし、その直後の一月四日、稔彦王は公職追放に處された。
◎ |
木下道雄『側近日誌』昭和二十年十二月二十五日(火)(八七頁)
|
◎ |
『朝日新聞』平成七年(一九九五)二月二十一日「首相復帰、GHQに直訴/東久邇氏の「使者」、公職追放直前に/米の外交文書で判明 天皇退位にも言及」
・・・・・ この書簡が書かれたのは、衆議院が解散した当日の四五年十二月十八日。当時は「翌年一月に実施」と思われていた総選挙をにらみ、マッカーサー最高司令官に「直訴」して東久邇内閣の復活を図ったものといえる。書簡はマッカーサー最高司令官のほか、一月五日付で米国務長官にも回された。アチソン政治顧問は同司令官あてのメモで「提案の一部には有用な部分があるかも知れないが、東久邇氏が民主主義の理想を示すのに適切な人物とは思えない」としている。
|
|
|
● |
皇族の皇籍離脱を強く主張。皇族籍離脱後、新宿駅西口マーケットにおいて、乾物商、喫茶店經營、古美術商、ポン煎餅機販売などを次々と試みるが、ことごとく失敗に終わる。
|
● |
戰前より、松本出身の新興宗教活動家 小原龍海を信奉した。
◎ |
『木戸幸一日記』昭和十一年一月十四日(火)(上巻四五六頁上)
|
◎ |
『木戸幸一日記』昭和十一年〔月日不明〕「小原唯雄聽取書」(上巻五二八頁上)
昭和十年十一月二十二日、あかねに呼ばる。
東久邇宮【稔彦】、清浦末雄。
○○【ママ】が最近頭の工合がすぐれない樣です。そう云ふ病氣は觀音さんの力で、四十二才を超える迄健康を保って戴けるかどうか、とのお話があった。
「一心に御祈願申上て、必ず御健康になられる樣に致します」
とお答へ致しました。
|
|
|
● |
昭和二十五年(一九五〇)四月十五日、小原龍海の入知惠によって、新興宗教「禪宗ひがしくに教」の開祖となり、世間を驚かせた。しかし、法務廳(現、法務省)からの異議により、一説では、公職追放中の身にふさわしからずとのGHQの意向により、取りやめさせられる。
|
● |
昭和二十四年(一九四九)九月、昭和三十七年(一九六二)六月の二度にわたり、國を相手に、高輪の土地所有權確認をめぐる訴訟を起こす。
◎ |
『入江相政日記』昭和三十四年十二月二日(水)
「三井さんの所へ行き東久邇さん【稔彦】の地所のことについて意見交換。色々互に得る所が多かつたしこれで長官【宇佐美毅】に田中社長を引合はせるのは考へものといふこともはつきりした。
|
|
◎ |
『入江相政日記』昭和三十五年九月七日(水)
「三井さんの所へ行き御哥會のこと、高輪の東久邇さん【稔彦】の事について話合ふ。途中で切れてしまつたので午食後又續ける。
|
|
|
● |
妻 東久邇聰子の沒後、「東久邇の妻」を稱す女性がいるとの噂を聞き戸籍を調べたところ、昭和五十三年(一九七八)九月一日、知人(茶飲み友達)の女性「増田きぬ」(神奈川縣足柄下郡箱根町)が東京都港區役所に無斷で婚姻屆を出して入籍していたことが判明。東京家裁に婚姻無効の申し立てをするが決着がつかず、昭和五十四年(一九七九)、東京地裁に婚姻無効確認を求めて民事訴訟を起こす。時に九十二歳。最終的に、昭和六十二年(一九八七)六月二十六日の最高裁判決により、結婚無効が確認された。
◎ |
『入江相政日記』昭和五十四年二月八日(木)
「夕食の席に小川宮務課長から電話、稔彦さんの再婚の件、週刊文春、朝日に出たことにつき申上げてくれとのこと。夜申上げる。長官から前にちよつと申上げたことゝて別に何とも仰せにならない。
|
|
|