東久邇宮稔彦王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[稔彦]

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稔彦王 なるひこ
 東久邇宮 ひがしくにのみや
 内閣總理大臣(四三)
 のち東久邇稔彦
 
 日本史上唯一の皇族總理大臣。
 
【出自】
 
朝彦親王[久邇宮]の九男。
 
【生母】
 寺尾宇多子
 寺尾ウタ
 丹波國園部藩士 寺尾九左衞門藤原盛美モリヨシの三女。
丹波國園部小出信濃守
 藩醫師
  寺尾元長
   │   園部藩士
   ├─── 寺尾九左衞門盛美
   │     │
   タカ     │
 園部藩士今井  ├───寺尾宇多子
 甚五右衞門の女 │
         │
 丹波園部藩士  │
  松本亮昌の妹 ミネ
 文久四年(一八六四)正月十八日生。
 
【經歴】
明治二十年(一八八七)十月二日(鳩彦王の誕生日)より以前に誕生。
『牧野伸顯日記』大正十三年十二月十七日
久邇宮【邦彦王】へ伺候。春來の盡力に付特に御挨拶あり。・・・・・ 餘談に移り、稔彦王の事に付經過・現情を申上げ、御音信の被爲在度次第を御注意せり。殿下【邦彦王】は王【稔彦】の朝香宮【鳩彦王】と御誕生の前後になり居る事、宮家御創立當時の事情及び内親王【聰子】御婚約の事に付詳細御話あり。王【稔彦】の御結婚御辭退を反省御承諾を求させらるゝ爲め半日御説得あり、終に御受の決心ありたる時の御懷舊談もあり。其時は明治天皇樣非常の御滿足にて、殿下に優渥なる御言葉ありたる由なり。
公表では明治二十年(一八八七)十二月三日午後二時誕生とされる。
稔彦王
明治二十年(一八八七)十二月七日、命名屆出。
『皇親録』總務部 明治二十年
   久邇宮御男子御誕生御届
當宮本月三日午後二時御男子御誕生稔彦ナルヒコト御名附ケ相成候、依此段致御届候也、
           久邇宮家令小藤孝行代理
明治二十年十二月七日 久邇宮家扶鳥居川憲昭
 宮内大臣子爵土方久元殿
稔彦が、公表どおり十二月三日に誕生したとすれば、命名は七夜の十二月九日となるべきである。よって、稔彦の實際の誕生日は、十二月三日より以前の某日であると考えられる。
明治二十七年(一八九四)三月、學習院初等科に入學。
明治三十三年(一九〇〇)七月十五日、學習院初等科を卒業。
明治三十三年(一九〇〇)七月、學習院中等科に入學。
明治三十四年(一九〇一)八月、學習院中等科を退校。
明治三十四年(一九〇一)九月一日、東京地方幼年學校に入學。
明治三十七年(一九〇四)七月十日、東京地方幼年學校を卒業。
明治三十七年(一九〇四)九月一日、中央幼年學校に入學。
明治三十九年(一九〇六)五月三十日、中央幼年學校を卒業。
明治三十九年(一九〇六)六月五日、近衞歩兵第三聯隊に配屬される。
稔彦王[東久邇宮]
明治三十九年(一九〇六)十一月三日、「東久邇宮(ひがしくにのみや)」の稱號を賜わり、東久邇宮家を創設。
明治三十九年(一九〇六)十二月一日、陸軍士官學校に入學。
明治四十一年(一九〇八)四月二十四日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。
明治四十一年(一九〇八)五月二十七日、陸軍士官學校を卒業。
明治四十一年(一九〇八)十二月二十五日、陸軍歩兵少尉に任じられ、近衞歩兵第三聯隊附に補される。
明治四十三年(一九一〇)十二月二十五日、陸軍歩兵中尉に任じられる。
明治四十四年(一九一一)十二月十二日、陸軍御學校に入校。
大正二年(一九一三)八月三十一日、陸軍歩兵大尉に任じられ、近衞歩兵第三聯隊中隊長に補される。
大正三年(一九一四)十一月二十七日、陸軍大學校を卒業。
大正三年(一九一四)十二月四日、第二師團歩兵第二十九聯隊中隊長に補される。
大正三年(一九一四)二月五日、聰子内親王(明治天皇の九女)との結婚の儀が勅許される。
大正四年(一九一五)五月十八日、聰子内親王と結婚。
大正四年(一九一五)十二月十二日、本職を免じられ、歩兵第三聯隊附を仰せ付けられる。
大正五年(一九一六)十一月二十三日、歩兵第三聯隊附を免じられ、參謀本部附を仰せ付けられる。
大正六年(一九一七)十月三十一日、大勲位に敍され、菊花大綬章を授けられる。
大正七年(一九一八)七月二十四日、陸軍歩兵少佐に任じられ、參謀本部附を免じられ、歩兵第七聯隊大隊長に補される。
大正八年(一九一九)十一月二十五日、本職を免じられ、陸軍士官學校附を仰せ付けられる。
大正九年(一九二〇)一月二十一日、本職を免じられ、陸軍大學校附を仰せ付けられる。
大正九年(一九二〇)四月十八日、「御見學」のため渡歐。佛國に滯在。
大正十一年(一九二二)八月十五日、陸軍歩兵中佐に任じられる。
大正十三年(一九二四)二月、ルーマニアに差遣される。
大正十四年(一九二五)八月七日、陸軍歩兵大佐に任じられる。
昭和二年(一九二七)一月二十九日、歸朝。
『宣仁親王日記』昭和二年一月二十三日水曜
『宣仁親王日記』昭和二年一月二十八日金曜
昭和三年(一九二八)一月十六日、第一師團司令部附を仰せ付けられる。
昭和三年(一九二八)八月十日、近衞歩兵第三聯隊長に補される。
昭和三年(一九二八)十一月十日附で、大禮紀念章を授與される。
昭和四年(一九二九)十二月十日、陸軍少將に任じられ、參謀本部附を仰せ付けられる。
昭和五年(一九三〇)八月一日、歩兵第五旅團長に補される。
昭和六年(一九三一)十二月二十四日、帝都復興記念章を授與される(昭和五年(一九三〇)十二月五日付)。
『官報』第一四九九號 昭和六年十二月二十八日 敍任及辭令
◎昭和六年十二月二十四日
      陸軍歩兵大尉大勲位 雍仁親王
        海軍大尉大勲位 宣仁親王
     陸軍大將大勲位功二級 載仁親王
     海軍大將大勲位功四級 博恭王
        海軍少佐大勲位 博義王
        海軍少佐勲一等 武彦王
      陸軍騎兵大尉勲一等 恒憲王
        海軍大尉勲一等 朝融王
            勲一等 邦英王
(各通) 陸軍大將大勲位功四級 守正王
        ~宮祭主大勲位 多嘉王
        陸軍少將大勲位 鳩彦王
        同       稔彦王
                永久王
      陸軍騎兵少尉勲一等 恒コ王
      陸軍騎兵中尉勲一等 春仁王
      陸軍歩兵少佐大勲位 李王垠
      陸軍騎兵少尉勲一等 李鍵公
            大勲位 李堈
昭和五年勅令第百四十八號ノ旨ニ依リ帝都
復興記念章ヲ授與セラル(五年十二/月五日 賞勲局)
昭和七年(一九三二)十二月七日、參謀本部附を仰せ付けられる。
昭和八年(一九三三)八月一日、陸軍中將に任じられ、參謀本部附を免じられ、第二師團長に補される。
昭和九年(一九三四)八月一日、第四師團長に補される。
昭和十年(一九三五)十二月二日、第四師團長を免じられ、軍事參議官に補される。
『官報』第二六七六號 昭和十年十二月三日 敍任及辭令
           陸軍中將大勲位 鳩彦王
           同       稔彦王
    補軍事參議官
           ・・・・・
    (各通)   近衞師團長陸軍中將 鳩彦王
           第四師團長陸軍中將 稔彦王
    免本職
昭和十二年(一九三七)八月二日、陸軍航空本部長に兼補される。
『宣仁親王日記』昭和十二年八月一日
二日の陸軍移【異】動にて東久邇宮【稔彦王】、航空本部長とならる。陸軍の意氣込み、オクレを取返さんとする熱は、眞面目に支援すべきものなるが、一方從來の陸軍者流の吾第一主義、獨りよがりの協調主義は、皇族をフリかざしてなす時、一層の無理を生ずべく注意を要【五一二頁】すと思はる。
昭和十三年(一九三八)四月三十日、第二軍司令官(北支那)に補される。
昭和十四年(一九三九)一月十三日、軍事參議官に補される。
『入江相政日記』昭和十四年一月十三日(金)
[※午後]二時四十五分稔彦王の軍事參議官の親補式。
昭和九年(一九三四)四月二十九日附で、昭和六年乃至九年事變の功により金杯一組を賜わり、昭和六年乃至九年事變從軍記章を授與される。
昭和十四年(一九三九)八月一日、陸軍大將に任じられる。
『官報』第三七七二號 昭和十四年八月二日 敍任及辭令
◎昭和十四年八月一日
        故正四位下 二條 爲冬
贈從三位
        陸軍中將大勲位 鳩彦王
(各通)    同       稔彦王
任陸軍大將
昭和十五年(一九四〇)八月十五日附で、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
對米英戰爭開戰直後の昭和十六年(一九四一)十二月九日、防衛總司令官(本土防衛のため新設)に補され、軍事參議官を兼ねる。
昭和十五年(一九四〇)四月二十九日附で、支那事變に於ける功により、功一級に敍され、金鵄勲章並びに金一萬一千五百圓を下賜され、支那事變從軍記章を授與される。
『官報』第四五七〇號 昭和十七年四月七日 宮廷録事
◎勲章親授式 本月四日午後二時勲章親授
式ヲ行ハセラレ元帥陸軍大將載仁親王元帥
海軍大將博恭王兩殿下ニ功一級金鵄勲章ヲ
元帥陸軍大將守正王殿下ニ大勲位菊花章頚
飾ヲ陸軍大章鳩彦王同稔彦王兩殿下 ・・・・・
・・・・・ ニ功一級金鵄勲章
ヲ授ケラレタリ
昭和二十年(一九四五)四月十五日、軍事參議官に補される。
同日夜の空襲で、東久邇宮邸が全燒する。
『宣仁親王日記』昭和二十年四月十六日(月)上欄
昨夜ノ空襲ニテ兩御所御障リナシ。東久邇宮邸全燒セリ。
東久邇樣【稔彦】、鳥居坂【盛厚王邸】ニ移ルノハイヤダトテ、オ庭ノ防空壕ニガンバツテラツシヤル由。おば樣【聰子内親王】と照宮樣【成子内親王】ハ昨日伊香保ニ行ラシタアトノコトナリ。
ポツダム宣言受諾後の昭和二十年(一九四五)八月十七日、内閣總理大臣に任じられ、陸軍大臣を兼ね(特に現役に列される)、組閣。
『宣仁親王日記』昭和二十年八月十六日(木)上欄
東久邇宮【稔彦王】ニ組閣ノ御命ジアリ。
『入江相政日記』昭和二十年八月十六日(木)
朝、鳩彦王、恒徳王、春仁王をお召し、十時二分稔彦王をお召し、大命降下。
『入江相政日記』昭和二十年八月十七日(金)
午前十一時五十分稔彦王總理大臣の親任式。
『官報(號外)』昭和二十年八月十七日 敍任及辭令
◎昭和二十年八月十七日
  陸軍大將大勲位功一級 稔 彦 王
任内閣總理大臣兼陸軍大臣

『官報』號外 昭和二十年八月十七日 敍任及辭令
  陸軍大將大勲位功一級 稔 彦 王
特に現役ニ列セシム
     ・・・・・
・・・・・(以上八月十七日内
閣)
空前絶後の皇族内閣
昭和二十年(一九四五)八月二十三日、兼官(陸軍大臣)を免じられる。
昭和二十年(一九四五)九月二十一日、豫備役を仰せ付けられる。
GHQの急進的な民主化政策に對應しきれず、一連の終戰處理の一段落を理由に、昭和二十年(一九四五)十月五日、内閣總辭職。
史上最短命内閣。
昭和二十年(一九四五)十月九日、願により本官(内閣總理大臣)を免じられる。
『官報(號外)』昭和二十年十月九日 敍任及辭令
      内閣總理大臣 稔 彦 王
        ・・・・・
依願免本官
      ・・・・・
・・・・・(以上十月九日内閣)
昭和二十一年(一九四六)六月十四日、勅令第三一九號陸軍武官官等表等が廢止される。
東久邇稔彦
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十一條の規定により、皇族の身分を離れる
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示 「宮内府告示第十五号」
 博明王、光子女王、章子女王、武彦
王、恒憲王、朝融王、守正王、鳩彦王、
稔彦王、故成久王妃房子内親王、道久
王、肇子女王、恒コ王及び春仁王各殿
下は、皇室典範第十一條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和三十九年(一九六四)四月二十九日、銀杯一組を賜わる。
平成二年(一九九〇)一月二十日、歿。百二歳。
當時、史上最高齢皇族
平成二年(一九九〇)一月二十三日の閣議で、二十日付で從二位に敍することが決定。
 
【墓所】
 豐島岡皇族墓地
 
【配偶】
 ○
聰子内親王[稔彦王妃]
 のち東久邇聰子
 明治天皇の九女。「泰宮」
 
【子女】
 □
盛厚王 のち東久邇盛厚
 □ 師正王
 □ 彰常王 のち粟田彰常
 □ 俊彦王 のち東久邇俊彦、多羅間俊彦
 
【逸事等】
「皇族の反逆兒」「やんちゃ皇族」と稱された。
東久邇宮家の創設は、聰子内親王(明治天皇の九女)との結婚を前提としたものであった。稔彦王が最終的に聰子内親王との結婚を決心した時、明治天皇は「非常の御滿足にて」、稔彦王の兄邦彦王に「優渥なる御言葉」を賜わった、という。
『牧野伸顯日記』大正十三年十二月十七日
明治四十四年(一九一一)、身體の不調を理由に明治天皇との陪食を斷わったために、嘉仁親王[皇太子](のちの大正天皇)と言い合いになり、「皇族を辭める」と發言、騒動を起こした、という。
大正九年(一九二〇)、「東伯」の假名で單身渡佛、フランス・パリの陸軍大學へ留學。自由な生活に触れ、画家モネ、政治家クレマンソーと親交を深めた一方で、一フランス人未亡人と關係を持ち、放蕩生活を送った。稔彦王のパリ滯在は、諸方面において苦慮されていた。大正十二年(一九二三)の陸軍大學卒業後も歸國せず、フランスに留まる。
『牧野伸顯日記』大正十一年十月八日
松井大使【慶四郎。駐佛】入來に付東久邇宮【稔彦王】の事を懇々依ョに及び置きたり。
『牧野伸顯日記』大正十一年十月十日
松井氏【慶四郎。駐佛大使】近々出發に付告別の爲め往訪す。・・・・・ 各宮殿下御留學中心得置くべき事を説示す。特に東久邇宮【稔彦王】の事を心得の爲め内話し置けり。
『牧野伸顯日記』大正十二年九月十四日
松平事務官【慶民。宮内】入來。東久邇宮【稔彦王】近況を報告す。
『牧野伸顯日記』大正十二年九月十五日
松平事務官【慶民。宮内】再度入來。・・・・・
東伯【稔彦王の假の名】問題に付ては十分考慮を要す。
『牧野伸顯日記』大正十三年七月十四日
白根男渡欧に付、東久邇宮【稔彦王】云々に付此迄の經過、今後の處理方に付考案の次第を内示し置き、場合に依りて滯歐中本件に關係の生ずる事あるべきを申含め置けり。
『牧野伸顯日記』大正十三年十一月二十七日
兄鳩彦王[朝香宮]は、稔彦王のことを「彼の御方は替【變】はつて入らつしやる」と評している。
『牧野伸顯日記』大正十一年十月二十五日
朝香宮【鳩彦王】へ伺候。・・・・・
東久邇宮【稔彦王】の事に談及したるに彼の御方は替【變】はつて入らつしやるとの御言葉あり。
大正天皇と不和で、大正天皇の病状惡化による宮内省からの再三の歸國命令をも無視し、關東大震災での二男師正王の薨逝にも歸國せず。大正天皇の崩御後の昭和二年(一九二七)一月、ようやく歸國。
『倉富勇三郎日記』
『牧野伸顯日記』大正十三年十一月二十七日
『牧野伸顯日記』大正十四年一月二十一日
「舊冬及一月十七日兩度に伏見妃殿下御來車にて、博忠王【華頂宮】御在世中云々の事を端緒に御内顧の事を熱心に御話しありたるに付、自分にては如何共手出する事能はず、大臣へ傳へ置くべしと返事したり。爲念内話し置くとの事なりしに付、相當に御挨拶振り申上置きたり。尚餘談中稔彦王の事もありたり。
『牧野伸顯日記』大正十四年三月十四日
・・・・・ 此程三内親王方御揃鎌倉にて御相談の結果、泰宮樣【稔彦王妃聰子内親王】より巴里の王殿下【稔彦】へ一層適切なる御書信を御差出の上御注意を御促がし被遊る事に相成たりとの報告あり。
昭和八年七月に檢擧された「神兵隊事件」では、稔彦王の私設秘書となっていた安田銕之助退役中佐(學習院大學名譽教授安田元久の父)が首謀者の一人であり、首班として稔彦王を擁立、または、載仁親王[閑院宮]・博恭王[伏見宮]・守正王[梨本宮]・鳩彦王[朝香宮]・稔彦王から成る諸皇族の連立政權を樹立する計畫であったという。
二・二六事件における稔彦王の態度について、昭和天皇は、鳩彦王[朝香宮]と比較して「東久邇宮の方が御判[り]になって居る」と述べている。
『木戸幸一日記』昭和十一年二月二十八日(金)
廣幡より左の如き内話あり。
 ・・・・・[※昭和天皇は]各皇族の御態度につき廣幡に御感想を御漏になり、參考に總裁にも傳へよとのことなりしと。
 高松宮【宣仁親王】が一番御宜しい。秩父宮【雍仁親王】は五・一五事件の時よりは余程お宜しくなられた。梨本宮【守正王】は泣かぬ許りにして御話であった。春仁王は宜しい。朝香宮【鳩彦王】は大義名分は仰せになるが、尖鋭化して居られて宜しくない。東久邇宮【稔彦王】の方が御判[り]になって居る。
「皇族親睦會」等では飲むと醉拂って見苦しい樣を呈した。
『宣仁親王日記』昭和十年一月一日
 午後一時すぎ、秩父宮【雍仁親王】へ御年賀に上りしところ御留守にて少時まつ。御歸りあり。今澄宮【崇仁親王】のところにて朝香【鳩彦王】・東久邇【稔彦王】・竹田【恒コ王】・北白川【永久王】各宮皆さまにて散々およひになり、私【宣仁親王】のところへいらつしつたとのことに、他家をまはるのをやめて、御祝をいたゞくのもソコ々々に歸る。
 朝香樣【鳩彦王】シタヽカに御酒まはり「私は獨りモノダ」とて散々オナキ出シニナリ、東さん【稔彦王】がまたツラレてボロ々々泣き出すサワギ。やつとおかへしす。
 何んでも宮城より秩父さん・澄宮と連續でトテモオ酒が入つたらしかつた。コンナのも珍しいお正月なり。
『入江相政日記』昭和十一年十二月二十三日(水)
十一時から皇族の拜賀、皇太子殿下第三回の御誕辰である。この時の朝香【鳩彦王】、特に東久邇さん【稔彦王】の態度等は實に問題にならない。反省すべきである。
『梨本伊都子日記』昭和十六年十一月四日
皇族のなかではリベラル派と見做されていた。對米英戰爭の開戰には反對であり、戰時中も、東條英機内閣に批判的であった。
『昭和天皇獨白録』「近衞の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
十月の初伏見宮が來られて意見を述べられた。即近衛、及川【古志郎】、永野【修身】、豐田【貞次郎。外相】、杉山【元】、東條の六人を並べて戰爭可否論をさせ、若し和戰兩論が半々であつたらば、戰爭論に決定してくれとの事であつた。私【昭和天皇】は之には大藏大臣【小倉正恒】を參加せしむべきだと云つて不贊成を表明した。高松宮も砲術學校に居た爲、若い者にたき付けられ戰爭論者の一人であつた。・・・・・ 皇族その他にも戰爭論多く、平和論は少くて苦しかつた。/ 東久邇宮【稔彦王】、梨本宮【守正王】、賀陽宮【恒憲王】は平和論だつた、表面には出さなかつた。
近衞文麿『第二次及第三次近衞内閣ニ於ケル日米交渉ノ經過(草稿)』、「日米交渉と陛下及御直宮方」(『近衛日記』二五〇頁)
對米英戰爭開戰前の近衞文麿内閣總辞辭職の後、稔彦王を内閣總理大臣に推す動きもあった。
『昭和天皇獨白録』「近衞の辭職と東條の組閣(昭和十六年)」
昭和十九年(一九四四)七月には、東條英機首相の參謀總長兼任を罷免すべく、宣仁親王[高松宮]、鳩彦王[朝香宮]と策動した。しかし、戰爭の早期終結のために直接的に活動したわけではなかった。
『近衞文麿日記』昭和十九年七月八日午前十時三十分「内大臣官邸に木戸内府を往訪」(『近衛日記』五〇頁)
戰時中、特に昭和十九年(一九四四)六〜七月における、東條英機首相更迭後の皇族内閣計畫においては、稔彦王が總理大臣の最適任者と見做された。
『宣仁親王日記』昭和十八年七月二十二日(木)上欄
『宣仁親王日記』昭和十八年七月三十一日(土)の次、日記帳第十四册の卷末(『高松宮日記』六ノ五〇九〜五一一頁)
秩父宮【雍仁親王】ニシテ些カニテモ活動シ得ラルヽトセバ、三年ノ命ヲ一年ニツメテモ國家ノ危急ニ應ゼラルベキハ明カナルモ、未ダ之ヲタノムベク體力ノ快復シ給ハザルヲ惜ム。三笠宮【崇仁親王】ハ餘リニ幼稚【編者注「若年の意」】ナリ。數年後ヲ委スルニ足ルベキモ、今直ニモノノ役ニ立ツトハ思ヘズ。軍人タラントシテ已ニ命ヲ保ツニ專念シテ今日アリ。政治家タラントシテ未ダ機運ノ熟セザルモノアリ。モトヨリ政治に關與スルニハ東久邇宮【稔彦王】ヲ先ヅオサントスルモ、他ノ皇族ニシテョムニ足ルモノナキ觀アリ。竹田宮【恒コ王】ハ一臂ノ力トナルベシ。北白川宮【永久王】ハ已ニナシ。
『細川護貞日記』昭和十九年二月十五日(『細川日記』一二六頁)
『細川護貞日記』昭和十九年二月十七日(『細川日記』一三〇頁)
『細川護貞日記』昭和十九年四月十二日(『細川日記』一八〇〜一八一頁)
公【近衞文麿】は昨夜、東久邇宮殿下に拜謁し、自分としてはこのまゝ東條にやらせる方がよいと思ふと申し上げた。夫れは若し替へて戰爭がうまく行く樣ならば當然替へるがよいが、若し萬一替へても惡いと云ふことならば、せつかく東條がヒットラーと共に世界の憎まれ者になつてゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ。・・・・・ 又殿下【稔彦王】は此の際御出まし遊ばさぬ方がよい樣思ひますと申し上げたる處、「自分もさう思ふ」との仰せあり、「自分としては最惡の事態に到りたるとき最後の御奉公の積りで出る考へだ」との仰せであつた。そこで殿下が若し今日御出ましになれば石原【莞爾】がかつぎ廻つて居るときではあり、石原に對する怨みはすべて殿下に歸する樣なりますから、その方が宜しいと思ひますと申し上げた、とのことなりき。
『近衞文麿日記』昭和十九年六月二十二日夜「長尾邸招宴」(『近衛日記』一〇〜一一頁)
午後六時の案内なりしに東久邇宮殿下、六時半頃來着あり。「近衞一寸來てくれ」と予を別室に誘引せられ一時間半程會談せらる。
 殿下【稔彦王】は予の顔を見られるや、イキナリ、
 東條も今度は弱ったようだ。實は今遅れたのは東條の使が來たためだ。・・・・・
 東條は「私も今日まで全力を擧げて來ましたが、とてももうやって行けません」と言って來たのだ。(註、案ずるに殿下に後繼内閣を以来せるならん)
・・・・・
予【近衛文麿】  最悪の場合はとても臣下では納まりませぬ。殿下か高松宮樣【宣仁親王】にお願いしなければならないでしょう。/殿下【稔彦王】 それは覺悟はしている。
『近衞文麿日記』昭和十九年七月八日午前十時三十分「内大臣官邸に木戸内府を往訪」(『近衛日記』五一〜五二頁)
『細川護貞日記』昭和十九年七月八日(『細川日記』二五九頁)
『近衞文麿日記』昭和十九年七月八日午後(『近衛日記』五四〜五五頁)
・・・・・ なお、内府【木戸幸一】が最後の場合「高松宮殿下【宣仁親王】より殿下【稔彦王】が御適任なり」と話しいたりと言上せしに殿下【稔彦王】は、
  伏見元帥宮はどうだろう
 との御言葉。予【近衛文麿】は「伏見宮殿下は御老年なれば、矢張り殿下をおいて他に御適任なし」と申上げ置きたり。
『細川護貞日記』昭和十九年九月四日(『細川日記』三〇一頁)
又公【近衞文麿】は、賀陽宮殿下【恒憲王】に拜謁せられたる所、殿下は、パレンバンの石油が殆ど來たらざること、パレンバン港外に機雷を設置され居ること、タンカーの沈沒甚だしきこと、油は後三ヶ月分を殘すのみなること、東京近郊には三百機しか飛機なきこと等を云はれ、これ以上戰を繼續することは我國體を傷つくるのみにて、何等益なきを以て、重臣等は轉換に努力すべきことを仰せらる。・・・・・ そこで陸軍を抑へるには、東久邇宮殿下【稔彦王】に出て頂く以外にはないとのことなり。是を要するに殿下の御意見は、海軍が決戰で敗れゝば戰爭を止めろとのことなり。・・・・・
重慶の中華民國政府との休戰をめぐる繆斌問題に關與。
『昭和天皇獨白録』「小磯内閣」(一〇七頁)
昭和二十年(一九四五)八月十二日の皇族會議では、無條件降伏論であった。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」
 [昭和二十年八月]十二日、皇族の參集を求め私【昭和天皇】の意見を述べて大體贊成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和には贊成だが、國體護持が出來なければ、戰爭を繼續するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた。
 賀陽宮【恒憲王】、東久邇宮【稔彦王】、久邇宮【朝融王】は終始一貫、弱い意見であつたが、賀陽宮は松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎を推薦したりする樣な時には、本人自身の氣持と違つた事を口にした。
 秩父宮は日獨同盟は主張したが、その后病氣となつたので意見は判らぬ。
 高松宮はいつでも當局者の意見には餘り贊成せられず、周圍の同年輩の者や、出入の者の意見に左右され、日獨同盟以來、戰爭を謳歌し乍ら、東條内閣では戰爭防止の意見となり、其后は海軍の意見に從はれた。開戰后は悲觀論で、陸軍に對する反感が強かつた。
 東久邇宮と朝香宮【鳩彦王】とは兄弟であり乍ら、終始反對の意見を持つてゐた。
東久邇内閣組閣後、八月十八日の初閣議では、政治犯の釋放、言論結社の自由などを指示したが、實行されないまま、その政策方針は占領政策の陰に隱れた。
東久邇内閣は、降伏文書の調印、軍の武装解除、進駐軍の受け入れなど、敗戰處理を行なったが、國民生活安定には全く無策で、戰後のインフレを招いた。また、内閣總理大臣としての稔彦王の力量に疑問が持たれた。
『細川護貞日記』昭和二十年九月十二日(『細川日記』四三九〜四四〇頁)
議會後、此の内閣【東久邇内閣】に對する評判急激に惡化す。第一の理由は、宮樣内閣はよからぬこと、宮樣【稔彦王】自體に對する不滿、危懼等なり。首相宮は戰爭犯罪者逮捕のことありしより、此の内閣中の戰時内閣閣員を更迭せしむべし、との御意見もある由。
『細川護貞日記』昭和二十年九月二十三日(『細川日記』四四三頁)
・・・・・[※近衞文麿の東久邇内閣からの退陣は]是實に公【近衞文麿】の爲のみならず、皇室の爲、東久邇宮殿下の御爲にして、一日も速かに退かるべきなり。唯殿下【稔彦王】は依然、退陣を御好みなく、むしろ御得意の樣にも拜察さる。・・・・・
東久邇内閣總辭職後、皇族離脱を希望し、昭和天皇の退位を提議した。(昭和二十年十一月十一日、道義的責任を感じて皇族としての處遇を拜辭すると表明。)
『讀賣報知』昭和二十一年二月二十七日(木下道雄『側近日誌』(文藝春秋、一九九〇年六月)一六〇頁、脚注2)
また多くの皇族方も陛下の御退位に賛成だという。東久邇宮もそのひとりであるといわれる。総辞職後まもなく、同殿下は陛下との御会見において皇族の御身分の放棄を申出られ、かつ御退位を提議されたが、当時『時機がまだ熟していない』との理由で、この両提案とも採用にならなかったという。
木下道雄『側近日誌』昭和二十一年三月六日(水)(一六五頁)
再び内閣總理大臣になろうとGHQに畫策。政治的不安定や社會不安を排除するため、平和條約締結までは東久邇宮を首班とする擧國一致内閣をつくり、新憲法制定後に昭和天皇は退位の意思・時期を表明する、と提案する書簡を、昭和二十一年(一九四六)一月初にGHQに手渡した。しかし、その直後の一月四日、稔彦王は公職追放に處された。
木下道雄『側近日誌』昭和二十年十二月二十五日(火)(八七頁)
『朝日新聞』平成七年(一九九五)二月二十一日「首相復帰、GHQに直訴/東久邇氏の「使者」、公職追放直前に/米の外交文書で判明 天皇退位にも言及」
・・・・・ この書簡が書かれたのは、衆議院が解散した当日の四五年十二月十八日。当時は「翌年一月に実施」と思われていた総選挙をにらみ、マッカーサー最高司令官に「直訴」して東久邇内閣の復活を図ったものといえる。書簡はマッカーサー最高司令官のほか、一月五日付で米国務長官にも回された。アチソン政治顧問は同司令官あてのメモで「提案の一部には有用な部分があるかも知れないが、東久邇氏が民主主義の理想を示すのに適切な人物とは思えない」としている。
皇族の皇籍離脱を強く主張。皇族籍離脱後、新宿駅西口マーケットにおいて、乾物商、喫茶店經營、古美術商、ポン煎餅機販売などを次々と試みるが、ことごとく失敗に終わる。
戰前より、松本出身の新興宗教活動家 小原龍海を信奉した。
『木戸幸一日記』昭和十一年一月十四日(火)(上巻四五六頁上)
『木戸幸一日記』昭和十一年〔月日不明〕「小原唯雄聽取書」(上巻五二八頁上)
昭和十年十一月二十二日、あかねに呼ばる。
 東久邇宮【稔彦】、清浦末雄。
 ○○【ママ】が最近頭の工合がすぐれない樣です。そう云ふ病氣は觀音さんの力で、四十二才を超える迄健康を保って戴けるかどうか、とのお話があった。
 「一心に御祈願申上て、必ず御健康になられる樣に致します」
とお答へ致しました。
昭和二十五年(一九五〇)四月十五日、小原龍海の入知惠によって、新興宗教「禪宗ひがしくに教」の開祖となり、世間を驚かせた。しかし、法務廳(現、法務省)からの異議により、一説では、公職追放中の身にふさわしからずとのGHQの意向により、取りやめさせられる。
昭和二十四年(一九四九)九月、昭和三十七年(一九六二)六月の二度にわたり、國を相手に、高輪の土地所有權確認をめぐる訴訟を起こす。
『入江相政日記』昭和三十四年十二月二日(水)
「三井さんの所へ行き東久邇さん【稔彦】の地所のことについて意見交換。色々互に得る所が多かつたしこれで長官【宇佐美毅】に田中社長を引合はせるのは考へものといふこともはつきりした。
『入江相政日記』昭和三十五年九月七日(水)
「三井さんの所へ行き御哥會のこと、高輪の東久邇さん【稔彦】の事について話合ふ。途中で切れてしまつたので午食後又續ける。
妻 東久邇聰子の沒後、「東久邇の妻」を稱す女性がいるとの噂を聞き戸籍を調べたところ、昭和五十三年(一九七八)九月一日、知人(茶飲み友達)の女性「増田きぬ」(神奈川縣足柄下郡箱根町)が東京都港區役所に無斷で婚姻屆を出して入籍していたことが判明。東京家裁に婚姻無効の申し立てをするが決着がつかず、昭和五十四年(一九七九)、東京地裁に婚姻無効確認を求めて民事訴訟を起こす。時に九十二歳。最終的に、昭和六十二年(一九八七)六月二十六日の最高裁判決により、結婚無効が確認された。
『入江相政日記』昭和五十四年二月八日(木)
「夕食の席に小川宮務課長から電話、稔彦さんの再婚の件、週刊文春、朝日に出たことにつき申上げてくれとのこと。夜申上げる。長官から前にちよつと申上げたことゝて別に何とも仰せにならない。
 
【一億總ザンゲ】
組閣直後の記者會見で、「一億國民が總て懺悔することが再建の第一歩」と發言、戰爭責任を國民に轉嫁するものとして批判を受けたが、その一方、「一億總ザンゲ」は流行語となり、庶民の間で面白がって使われ、親しまれた。
 
【著作等】
東久邇宮稔彦『私の記録』(東京都板橋區練馬北町、東方書房。昭和二十二年(一九四七)四月)
東久邇稔彦「青春巴里記」(『文藝春秋』二十九巻五号、昭和二十六年(一九五一)四月)140〜145頁
東久邇稔彦「録音放送十一回」(『ダイヤモンド』40巻9号、ダイヤモンド社、一九五二年三月、5〜9頁)
東久邇稔彦「主義は主義 すべての国と仲よくしよう」(『経済往来』四巻五号、経済往来社、一九五二年五月、82〜87頁)
東久邇稔彦「やあ今日は日出造見參」(『週刊讀賣』昭和三十年(一九五五)五月二十九日號)
東久邇稔彦『やんちゃ孤独 菊のカーテンの中の一人の人間記録』(読売新聞社(読売文庫)、昭和三十年(一九五五)六月)
東久邇稔彦「殿下といわれて幾星霜」(『文藝春秋』三十五巻四号、昭和三十二年(一九五七)三月)
東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』(東京、日本週報社、一九五七年十二月)
※ 東久邇稔彦『東久邇日記 日本激動期の秘録』(東京、徳間書店、一九六八年三月)として再刊。
東久邇稔彦 他〔対談〕「やんちゃ皇族の戦争と平和」(『文芸春秋』四十六巻一号、一九六八年一月、160〜172頁)
 
【文獻等】
平成新修 旧華族家系大成 上巻』42頁
昭和新修 華族家系大成 上巻』36頁
藤原彰「ひがしくになるひこ 東久邇稔彦」(『國史大辭典』第十一巻(一九九〇年九月第一版、吉川弘文館)八四一〜八四二頁)
武部敏夫「ひがしくにのみやけ 東久邇宮家」(『國史大辭典』第十一巻(一九九〇年九月第一版、吉川弘文館)八四二頁)
波多野澄雄「ひがしくにのみやないかく 東久邇宮内閣」(『國史大辭典』第十一巻(一九九〇年九月第一版、吉川弘文館)八四二頁)
広岡裕児『皇族』(読売新聞社、一九九八年八月第一刷)
佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書1911)(講談社、二〇〇七年十月)一八四〜一八七頁
藤村道生「「八月革命」と「王様クーデタ」── 東久邇内閣をめぐって」(『月刊百科』通巻二三四号(一九八二年四月)三六〜四二頁)
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、昭和五十年(一九七五)四月)一三五〜一五二頁、二三六頁
千田夏光「消された宮家それからの数奇28年」(『現代』昭和五十年十二月號(一九七五年十二月)一一三〜一一四頁)
佐藤朝泰「東久邇家==一家離散を体験した反骨の元宮様総理」(佐藤朝泰『門閥−−旧華族階層の復権』(立風書房、一九八七年四月)第二章、三三〜四〇頁)
日本の名家『旧宮家はいま』2」東久邇家(『週刊読売』一九八八年五月二十二日、一四四〜一四九頁)



 
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公開日時: 2016.01.08.
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