東久邇宮 盛厚王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[盛厚]

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盛厚王 もりひろ
 東久邇宮繼嗣
 のち東久邇盛厚
 
【出自】
 
稔彦王[東久邇宮](のち東久邇稔彦)の一男。
 
【母】
 聰子内親王
 稔彦王妃
 のち東久邇聰子
 明治天皇の九女。
 
【經歴】
大正五年(一九一六)五月六日、誕生。
『法令全書』大正五年五月 告示 宮内省告示第四號(官報 五月八日)
五月六日午前二時稔彦王妃殿下分娩王男子誕生セラル
    大正五年五月六日
                            宮内大臣 男爵波多野敬直
盛厚王
大正五年(一九一六)五月十二日、「盛厚(モリヒロ)」と命名される。
『法令全書』大正五年五月 告示 宮内省告示第五號(官報 五月十三日
五月六日午前二時誕生セラレタル稔彦王殿下ノ王男子名ヲ盛厚モリヒロト命セラル
    大正五年五月十二日               宮内大臣 男爵波多野敬直
大正十二年(一九二三)四月九日、學習院初等科に入學。
昭和四年(一九二九)三月三十一日、學習院初等科を卒業。
昭和四年(一九二九)四月八日、學習院中等科に入學。
昭和八年(一九三三)三月二十七日、學習院中等科を退校。
昭和八年(一九三三)四月一日、陸軍士官學校豫科に入學。
昭和十年(一九三五)三月十四日、陸軍士官學校豫科を卒業。
昭和十年(一九三五)三月十五日、士官候補生として野戰重砲兵第一聯隊に入隊。陸軍砲兵上等兵となる。
昭和十年(一九三五)五月十五日、陸軍砲兵伍長に昇進。
昭和十年(一九三五)七月十五日、陸軍砲兵軍曹に昇進。
昭和十年(一九三五)九月一日、陸軍士官學校本科に入學。
昭和十一年(一九三六)五月五日、成年に達す。
昭和十一年(一九三六)五月七日、成年式。
昭和十二年(一九三七)六月二十九日、陸軍士官學校本科を卒業。野戰重砲兵第一聯隊に歸隊。陸軍砲兵曹長に昇進。見習仕官を命じられる。
昭和十二年(一九三七)八月二十一日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。陸軍砲兵少尉に任じられる。
『宣仁親王日記』昭和十二年八月二十一日
「東久邇の盛樣【盛厚王】、少尉に御任官。隊がお忙しいとて、他の日御都合つかず、今日中に御敍勲のことゝなりしも、勲章ナク、御參内待つてと云ふわけで、やつと四時すぎ御參内。御親授ありたり。
昭和十三年(一九三八)三月三十日、陸軍砲兵中尉に任じられる。
昭和十三年(一九三八)十月三十一日、野戰重砲兵第一聯隊中隊長職務心得を仰せ付けられる。
昭和十四年(一九三九)八月一日、阿城重砲兵聯隊中隊長を仰せ付けられる。
昭和十四年(一九三九)十二月一日、陸軍砲工學校普通科に入校。
昭和十五年(一九四〇)四月二十九日、支那事變に於ける功により、功四級に敍され、金鵄勲章ならびに金四千七百圓を下賜される。支那事變從軍記章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)七月二十九日、陸軍砲工學校普通科を卒業。原隊へ歸任する。
昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。
昭和十五年(一九四〇)九月十五日、陸軍武官の官等制定により陸軍中尉となる。
昭和十五年(一九四〇)十二月二日、陸軍野戰砲兵學校附に補される。
昭和十六年(一九四一)二月一日、現職のまま、陸軍砲工學校高等科に入校。
昭和十六年(一九四一)三月一日、陸軍大尉に任じられる。
昭和十六年(一九四一)七月二十六日、陸軍砲工學校高等科を卒業。
昭和十七年(一九四二)十二月十二日、陸軍大學校に入學。
『宣仁親王日記』昭和十七年十二月十三日(日)
盛樣【盛厚王。大尉】陸大御入校。
昭和十八年(一九四三)五月十五日、成子内親王(昭和天皇の一女)との結婚の儀を勅許される。
『官報』第四九〇〇號 昭和十八年五月十七日 宮廷録事
○結婚勅許 盛厚王殿下成子内親王殿下ト
結婚ノ儀一昨十五日勅許相成リタリ
『入江相政日記』昭和十八年五月十五日(土)
・・・・・ 多摩陵へ行く。今日盛厚王、照宮【成子内親王】御婚儀勅許の御報告の御使である。
昭和十八年(一九四三)十月十三日、成子内親王(昭和天皇の一女)と成婚。
『官報』第五〇二八號 昭和十八年十月十四日 告示
宮内省告示第十九號
盛厚王殿下ト成子内親王殿下ト本日結婚セ
ラル
 昭和十八年十月十三日
        宮内大臣 松平 恒雄
『官報』第五〇二八號 昭和十八年十月十四日 宮廷録事
○盛厚王成子内親王兩殿下結婚式中妃氏入
第ノ儀 昨十三日午前七時三十分盛厚王
成子内親王兩殿下結婚式中妃氏入第ノ儀ヲ
濟マセラレタリ
○盛厚王成子内親王兩殿下結婚式竝朝見
昨十三日午前九時盛厚王成子内親王兩殿下
結婚式中賢所大前ノ儀ヲ行ハセラレ訖テ
皇靈殿神殿ニ謁スルノ儀同日午後三時參内
朝見ノ儀同四時皇太后ニ朝見ノ儀ヲ濟マセ
ラレタリ
『入江相政日記』昭和十八年十月十三日(水)「盛厚王、照宮御婚儀」
『宣仁親王日記』昭和十八年十月十三日(水)
・・・・・ 一四四〇、朝見ニ御出マシヲ見送リ皈ル。盛樣モ無邪氣、よき御夫婦、永く御幸福ナレト祈ル心地ス。盛樣、賢所ノ御奏文ノ聲シツカリト中々よく聞えタリ。
『宣仁親王日記』昭和十八年十月十三日(水)上欄
〇九〇〇賢所。大御前儀。盛樣余猶シヤク々々々トシテ現ハル。照宮樣美シクシツクリト愛ラシク見ユ。御拜ヲ終リ、盛樣御簾ヲ出テ縁ノ角ニテ振リカヘリ、照宮樣ノ出テコラレルノヲ見カヘシタかたチ、マコトニ優ニヤサシク男ブリナリシ(盛樣ハ參列ノ私達ヲ見タノダト云フガ、アテニナラズ)。・・・・・
昭和十八年(一九四三)十一月二十五日、國境事變從軍記章を贈進される。
昭和十八年(一九四三)十二月一日、陸軍少佐に任じられる。
昭和十九年(一九四四)七月三十一日、陸軍大學校を卒業。富士一八〇〇部隊三六軍參謀に補される。(千葉に赴任)
昭和二十年(一九四五)五月二十四日、米軍機の空襲により、鳥居坂の盛厚王邸が全燒する。
『高松宮日記』昭和二十年五月二十四日(木)上欄
鳥居坂ノ東久邇宮【盛厚王】モ全燒。泉岳寺、慶應病院モ燒失。
昭和二十年(一九四五)十月十日、陸軍省附參謀に補される。
昭和二十年(一九四五)十一月三十日、待命を仰せ付けられる。
昭和二十年(一九四五)十二月一日、豫備役を仰せ付けられる。
昭和二十一年(一九四六)六月十四日、勅令第三一九號陸軍武官官等表等廢止。
東久邇盛厚
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族の身分を離れる
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示
○宮内府告示第十六号
 恒憲王妃敏子、邦壽王、治憲王、章
憲王、文憲王、宗憲王、健憲王、邦昭
王、朝建王、朝宏王、朝子女王、通子
女王、英子女王、典子女王、守正王妃
伊都子、孚彦王、孚彦王妃千賀子、誠
彦王、冨久子女王、美乃子女王、稔彦
王妃聰子内親王、盛厚王、盛厚王妃成子
内親王、信彦王、文子女王、俊彦王、
恒コ王妃光子、恆正王、恆治王、素子
女王、紀子女王及び春仁王妃直子各殿
下は、皇室典範第十三條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和三十九年(一九六四)、寺尾佳子と結婚。

昭和四十四年(一九六九)二月一日、肺癌のため歿。
『入江相政日記』昭和四十三年一月五日(金)
午后一時半から式部官長の所で會議。盛厚さんはやはり肺がんの由。それも大分進んだとの事。やはり駄目だつた。
『入江相政日記』昭和四十三年九月二十七日(金)
・・・・・ 長官の所で東久邇さん【盛厚】を常盤松の官舍に引取ることについて打合せ。
『入江相政日記』昭和四十三年十月一日(火)「福井第二日」
・・・・・ 九時過ぎに出る。昨夜のお召しは何かと思つたら東久邇さん【盛厚】のこと、よし子さん【東久邇佳子】に對することだつた。
『入江相政日記』昭和四十三年十月三日(木)「福井第四日」
東京の松平君から電話。常盤松の東久邇さん【盛厚】はすつかりお落ちつき、信彦さんもお泊りになり、今後、月の三分の一は、こゝに泊つてもいゝかとおつしやつた由。
『入江相政日記』昭和四十四年一月十一日(土)
小川さん來。盛厚さんの健康のこと、眞彦さんの玉川大學のことなどの報告。
『入江相政日記』昭和四十四年一月三十日(木)
十一時から長官室で會議。盛厚さん容態急變についてゞある。・・・・・
『入江相政日記』昭和四十四年一月三十一日(金)
盛厚さんの關係で葉山の行幸啓お取止めといふことになる。
『入江相政日記』昭和四十四年二月一日(土)「盛厚樣薨去」
東京駅で盛厚さんの薨去を知りすぐ出勤。
 
【配偶】
 
成子内親王 しげこ
 盛厚王妃。
 のち東久邇成子
 昭和天皇の一女。
 東久邇佳子 よしこ
 東久邇盛厚の後妻。
 寺尾幸吉(東久邇稔彦の生母 寺尾宇多子の甥)の一女。
 高山義三京都市長の姪。
 昭和二年(一九二七)生。
 「準ミス京都」に選ばれる。
 昭和三十九年(一九六四)、東久邇盛厚と結婚。
「東久邇盛厚氏の後妻「元準ミス京都」の孤閨30年」(『週刊新潮』第四十四巻第十七号 通巻二二〇〇号(四月二九日号)、一九九九年四月、一四四頁)
 
【子女】
信彦王 のち東久邇信彦
文子女王 のち東久邇文子、大村文子、東久邇文子、高木文子
東久邇秀厚 ひでひこ
のち壬生基博 みぶ もとひろ
 東久邇盛厚・成子の二男。
 昭和二十四年(一九四九)生。
 壬生基泰の養子となり、壬生基博と改姓名。
平成新修 旧華族家系大成 下巻』 六九六頁
「「皇籍剥奪」風雪五十年抄」(『週刊新潮』第四十巻第二号(一月十二日号)、一九九五年一月) 四七頁
「お家断絶もある「皇籍離脱」男系男子リスト 女性宮家で脚光!「愛子さま」ご結婚相手にも急浮上!」(『週刊新潮』第五十六巻第四十八号 通巻二八二一号、二〇一一年十二月八日) 28頁
東久邇眞彦 なおひこ
 東久邇盛厚・成子の三男。
 昭和二十八年(一九五三)生。
 玉川大學農學部を卒業、伊藤ハムに就職。
「お家断絶もある「皇籍離脱」男系男子リスト 女性宮家で脚光!「愛子さま」ご結婚相手にも急浮上!」(『週刊新潮』第五十六巻第四十八号 通巻二八二一号、二〇一一年十二月八日) 28頁
東久邇優子 のち東優子 ゆうこ
 東久邇盛厚・成子の二女。
 昭和二十九年(一九五四)生。
 昭和五十四年(一九七九)、伊藤忠商事勤務の東作興(さくおき)と結婚(式)。
『入江相政日記』
東久邇厚彦 のち寺尾厚彦 あつひこ
 東久邇盛厚の四男。母は東久邇佳子。
 昭和四十一年(一九六六)。
 母方の寺尾家へ養子入籍。
東久邇盛彦 もりひこ
 東久邇盛厚の五男。母は東久邇佳子。
 昭和四十二年(一九六七)生。
 同志社大學商學部を卒業、電通に入社。
『「皇籍剥奪」風雪五十年抄』(『週刊新潮』第四十巻第二号(一月十二日号)、一九九五年一月) 五一〜五二頁
保阪正康「新宮家創設 八人の「皇子候補」」(『文藝春秋』第八十三巻第三号、平成十七年(二〇〇五)三月、一四六〜一五八頁) 一五六〜一五七頁
 
【逸事等】
昭和十四年(一九三九)七月十八日、野戰重砲兵第一聯隊中隊長として、聯隊と共に「ノモンハン事件」戰場に到着。盛厚王は八月の異動で阿城重砲兵聯隊に轉補される豫定であったため、發令にさきだちハイラルに移っていた。そのため、軍司令部關係者一同は困惑した。盛厚王は戰鬪に加わったが、七月二十四日、盛厚王の御附として隨行していた宮内屬官が敵飛行機による爆撃により重傷を負い死亡、盛厚王は七月二十七日、ハイラルに歸還するに至った。
『現代史資料(一〇)』(みすず書房、昭和三十九年十二月) 八一〜八二頁、一二二〜一二三頁
昭和天皇は、昭和二十年(一九四五)六月、軍需工場の視察報告と、盛厚王から本土決戰の不可能であるとの報告を受け、降伏を決意したという。
『昭和天皇獨白録』「鈴木内閣」
・・・・・ この時、盛厚王が來て色々具體的な報告をした。
 私【昭和天皇】が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が惡いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戰師團さへ、武器が滿足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。
 敵の落した爆彈の鐵を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ。これでは戰爭は不可能と云ふ事を確認した。
〔參考〕『井上成美』(東京都新宿区、井上成美伝記刊行会、昭和五十七年(一九八二)十月)資七〜四八頁所收、井上成美「思い出の記 続編」(三十七期会会誌『海軍生活の思い出 続編 ― 古稀号』(昭和三十二年十月)掲載)資四一頁
(三)『「油はこんなにございます」 嶋田
   「油はこれだけしかございません」 米内』

昭和十九年八月、私が着任して間もなく大臣から、
「陛下から燃料の現状を御下問になったので、奉答するから資料を」とのお話あり。
軍需局長に、その目的を告げ、資料を求めたる所、軍需局長は私に、
「ほんとうの事を書きますか」
と尋ねる故、私は、
「変な事をきくね。陛下にはうそは申し上げられない。勿論ほんとうの事さ。何故ナゼそんな事をきくのか」
と問うと、
「実は嶋田大臣の時は何時イツでも『メーキング』した資料を作っておりましたもので」
動物を愛好。成婚の頃は、魚が好きであった。
『宣仁親王日記』昭和十八年十月十三日(水)
盛樣【盛厚王】ハ魚、アキチヤン【粟田彰常】ハ犬、トシチヤン【俊彦王】ハ佛像トカ美術ガ御趣味トカ。
 
工事中 【文獻等】

平成新修 旧華族家系大成 上巻』 四二頁


 
次頁 「 盛 [盛子@]
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公開日時: 2014.12.01.

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