東久邇宮 盛厚王
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稔彦王妃 のち東久邇聰子 明治天皇の九女。 |
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大正五年(一九一六)五月六日、誕生。
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盛厚王 | |||||||||||||||||||||||||
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大正五年(一九一六)五月十二日、「盛厚(モリヒロ)」と命名される。
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大正十二年(一九二三)四月九日、學習院初等科に入學。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和四年(一九二九)三月三十一日、學習院初等科を卒業。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和四年(一九二九)四月八日、學習院中等科に入學。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和八年(一九三三)三月二十七日、學習院中等科を退校。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和八年(一九三三)四月一日、陸軍士官學校豫科に入學。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十年(一九三五)三月十四日、陸軍士官學校豫科を卒業。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十年(一九三五)三月十五日、士官候補生として野戰重砲兵第一聯隊に入隊。陸軍砲兵上等兵となる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十年(一九三五)五月十五日、陸軍砲兵伍長に昇進。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十年(一九三五)七月十五日、陸軍砲兵軍曹に昇進。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十年(一九三五)九月一日、陸軍士官學校本科に入學。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十一年(一九三六)五月五日、成年に達す。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十一年(一九三六)五月七日、成年式。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十二年(一九三七)六月二十九日、陸軍士官學校本科を卒業。野戰重砲兵第一聯隊に歸隊。陸軍砲兵曹長に昇進。見習仕官を命じられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十二年(一九三七)八月二十一日、勲一等に敍され、旭日桐花大綬章を授けられる。陸軍砲兵少尉に任じられる。
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昭和十三年(一九三八)三月三十日、陸軍砲兵中尉に任じられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十三年(一九三八)十月三十一日、野戰重砲兵第一聯隊中隊長職務心得を仰せ付けられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十四年(一九三九)八月一日、阿城重砲兵聯隊中隊長を仰せ付けられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十四年(一九三九)十二月一日、陸軍砲工學校普通科に入校。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十五年(一九四〇)四月二十九日、支那事變に於ける功により、功四級に敍され、金鵄勲章ならびに金四千七百圓を下賜される。支那事變從軍記章を授與される。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十五年(一九四〇)七月二十九日、陸軍砲工學校普通科を卒業。原隊へ歸任する。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十五年(一九四〇)八月十五日、紀元二千六百年祝典記念章を授與される。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十五年(一九四〇)九月十五日、陸軍武官の官等制定により陸軍中尉となる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十五年(一九四〇)十二月二日、陸軍野戰砲兵學校附に補される。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十六年(一九四一)二月一日、現職のまま、陸軍砲工學校高等科に入校。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十六年(一九四一)三月一日、陸軍大尉に任じられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十六年(一九四一)七月二十六日、陸軍砲工學校高等科を卒業。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十七年(一九四二)十二月十二日、陸軍大學校に入學。
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昭和十八年(一九四三)五月十五日、成子内親王(昭和天皇の一女)との結婚の儀を勅許される。
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昭和十八年(一九四三)十月十三日、成子内親王(昭和天皇の一女)と成婚。
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昭和十八年(一九四三)十一月二十五日、國境事變從軍記章を贈進される。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十八年(一九四三)十二月一日、陸軍少佐に任じられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和十九年(一九四四)七月三十一日、陸軍大學校を卒業。富士一八〇〇部隊三六軍參謀に補される。(千葉に赴任) | ||||||||||||||||||||||||
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昭和二十年(一九四五)五月二十四日、米軍機の空襲により、鳥居坂の盛厚王邸が全燒する。
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昭和二十年(一九四五)十月十日、陸軍省附參謀に補される。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和二十年(一九四五)十一月三十日、待命を仰せ付けられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和二十年(一九四五)十二月一日、豫備役を仰せ付けられる。 | ||||||||||||||||||||||||
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昭和二十一年(一九四六)六月十四日、勅令第三一九號陸軍武官官等表等廢止。 | ||||||||||||||||||||||||
東久邇盛厚 | |||||||||||||||||||||||||
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昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族の身分を離れる。
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昭和三十九年(一九六四)、寺尾佳子と結婚。
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昭和四十四年(一九六九)二月一日、肺癌のため歿。
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盛厚王妃。 のち東久邇成子 昭和天皇の一女。 |
東久邇盛厚の後妻。 寺尾幸吉(東久邇稔彦の生母 寺尾宇多子の甥)の一女。 高山義三京都市長の姪。 昭和二年(一九二七)生。 「準ミス京都」に選ばれる。 昭和三十九年(一九六四)、東久邇盛厚と結婚。
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信彦王 のち東久邇信彦 | |||||||
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文子女王 のち東久邇文子、大村文子、東久邇文子、高木文子 | |||||||
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東久邇秀厚 ひでひこ のち壬生基博 みぶ もとひろ
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東久邇眞彦 なおひこ
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東久邇優子 のち東優子 ゆうこ
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東久邇厚彦 のち寺尾厚彦 あつひこ
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東久邇盛彦 もりひこ
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昭和十四年(一九三九)七月十八日、野戰重砲兵第一聯隊中隊長として、聯隊と共に「ノモンハン事件」戰場に到着。盛厚王は八月の異動で阿城重砲兵聯隊に轉補される豫定であったため、發令にさきだちハイラルに移っていた。そのため、軍司令部關係者一同は困惑した。盛厚王は戰鬪に加わったが、七月二十四日、盛厚王の御附として隨行していた宮内屬官が敵飛行機による爆撃により重傷を負い死亡、盛厚王は七月二十七日、ハイラルに歸還するに至った。
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昭和天皇は、昭和二十年(一九四五)六月、軍需工場の視察報告と、盛厚王から本土決戰の不可能であるとの報告を受け、降伏を決意したという。
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動物を愛好。成婚の頃は、魚が好きであった。
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『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 四二頁 |
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