成子内親王


前頁 「 成 [成子B]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[成子C]

フレームなし

工事中

成子内親王 しげこ
 
 
盛厚王[東久邇宮繼嗣](のち東久邇盛厚)の妃
 のち東久邇成子 ひがしくに しげこ
 
【稱號】
 「照宮」 てるのみや
 
【出自】
 昭和天皇の一女。
 
【母】
 香淳皇后
 良子 ながこ
 昭和天皇の皇后。
 邦彦王[久邇宮]の一女。
 
【經歴】
大正十四年(一九二五)十二月六日、裕仁親王[皇太子](のちの昭和天皇)の第一女子(大正天皇の孫)として出生。
成子内親王(照宮)
大正十四年(一九二五)十二月十二日、命名。
昭和十八年(一九四三)五月十五日、盛厚王(稔彦王[東久邇宮]の一男)との結婚の儀を勅許される。
『官報』第四九〇〇號 昭和十八年五月十七日 宮廷録事
○結婚勅許 盛厚王殿下成子内親王殿下ト
結婚ノ儀一昨十五日勅許相成リタリ
『入江相政日記』昭和十八年五月十五日(土)
・・・・・ 多摩陵へ行く。今日盛厚王、照宮【成子内親王】御婚儀勅許の御報告の御使である。
昭和十八年(一九四三)十月二日、納采。
『高松宮日記』昭和十八年十月二日(土)
照宮【成子内親王】御納采ニ付、一一〇〇御所、一一三〇大宮御所、一五〇〇照宮御仮邸。
昭和十八年(一九四三)十月十二日、勲一等に敍され、寶冠章を授けられる。
成子内親王[盛厚王妃]
昭和十八年(一九四三)十月十三日、盛厚王[東久邇宮繼嗣]と成婚。
『官報』第五〇二八號 昭和十八年十月十四日 告示
『官報』第五〇二八號 昭和十八年十月十四日 宮廷録事
『入江相政日記』昭和十八年十月十三日(水)「盛厚王、照宮御婚儀」
『高松宮日記』昭和十八年十月十三日(水)上欄
〇九〇〇賢所。大御前儀。盛樣余猶シヤク々々々トシテ現ハル。照宮樣美シクシツクリト愛ラシク見ユ。御拜ヲ終リ、盛樣御簾ヲ出テ縁ノ角ニテ振リカヘリ、照宮樣ノ出テコラレルノヲ見カヘシタ容(【振假名】かた)チ、マコトニ優ニヤサシク男ブリナリシ(盛樣ハ參列ノ私達ヲ見タノダト云フガ、アテニナラズ)。・・・・・
『入江相政日記』昭和十八年十月十三日(水)「盛厚王、照宮【成子内親王】御婚儀」
昭和二十年(一九四五)三月十日、信彦王を出産。
昭和二十一年(一九四六)十二月二十二日、文子女王を出産。
東久邇成子
昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族の身分を離れる
『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示
○宮内府告示第十六号
 恒憲王妃敏子、邦壽王、治憲王、章
憲王、文憲王、宗憲王、健憲王、邦昭
王、朝建王、朝宏王、朝子女王、通子
女王、英子女王、典子女王、守正王妃
伊都子、孚彦王、孚彦王妃千賀子、誠
彦王、冨久子女王、美乃子女王、稔彦
王妃聰子内親王、盛厚王、盛厚王妃成子
内親王、信彦王、文子女王、俊彦王、
恒コ王妃光子、恆正王、恆治王、素子
女王、紀子女王及び春仁王妃直子各殿
下は、皇室典範第十三條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
 昭和二十二年十月十三日
     宮内府長官 松平 慶民
昭和二十四年(一九四九)七月二十九日、東久邇秀厚を出産。
昭和二十八年(一九五三)二月一日、東久邇眞彦を出産。
昭和二十九年(一九五四)八月三十日、東久邇優子を出産。
昭和三十六年(一九六一)七月二十三日歿。三十五歳。
 
【逸事等】
宣仁親王[高松宮]によると、成子内親王への幼少時の教育には問題点があったという。
『高松宮日記』昭和九年一月七日(繼宮明仁親王の御教育方法についての所感)
・・・・・ 全く新宮の御養育御教導こそ重大なる問題はあるまい。すでに照宮【成子内親王】その他の方々の御養育で經驗もある通り、早くその方策を決定し計画を立てゝかゝらねば、失敗するであらう。・・・・・
 ・・・・・
 照宮樣ですら、魚屋とか何屋とか、はてはお寺と云ふやうなものについての概念をもつてゐられないで、國語讀本等に關する興趣もおわきにならず、困るやうな話である。まして御成身后はいよ々々下情に遠〔ざ〕かられる立場の方が、自由なるべき小學時代までをそんなことでは甚だこまりものである。
幼少の頃より、動植物に興味を示し、學習院中等科在學中には、將來は結婚せずに生物學者になって父(昭和天皇)の助手になることを望んでいた、という。
聰明・活發にして朗らかな性格で、テニスを好んだ。「御學友」の酒井美意子によると、きょうだいのなかで最も成績がよかったといい、理數科が拔群であり、「實にシャープなかた」であったという。
「酒井美意子(【振假名】さかいみいこ)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)、講談社、一九六八年四月、三三一〜三三二頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、三二五〜三二六頁)
昭和二十年(一九四五)三月九日、東京大空襲の眞最中に産氣づき、翌日の早朝、六本木の東久邇宮邸の防空壕から土藏に移り、信彦王を出産した。
戰後の經濟的困難時には、非常に苦勞をして、自ら買物篭を提げ、内職に励み、動物を飼って副業をしたり、株式に投資したりして、苦境を乘り切ることができたという。
「酒井美意子(【振假名】さかいみいこ)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)。講談社、一九六八年四月、三四五頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、三三九頁)
東久邇盛厚の追悼文に、「・・・・・ 何十人という使用人にかしずかれ、名不自由なく、銭に手をふれることさえなかった生活から、戦後新たに雇った若い女中を助けとして、今日の米がなく芋を食い、来月の生活費を得るために、戦時中の結婚で、これというものもなかったが、それを二束三文で売り払い、蔵にはただ空になったタンスの並ぶのを淋しく眺める生活がはじまった。・・・・・ しかし、成子は少しもこれに屈せず、鶏を飼い、鶉(【振假名】うずら)を飼い、プラスチック加工の内職をして、戦後の人生再出発のため、薄給の私に後顧のうれいなからしめた ・・・・・」とあるという。
ようやく生活に安樂を得たという矢先、癌により死去した(結腸癒着・腹壁膿瘍と發表)。
癌の手術をしようとしたときは既に手遲れで、醫療の施しようがなかった。母 良子[皇后]は、藁にもすがる思いで、いかがわしい施療師に診療させて、かえって成子の苦痛を重くすることとなった。
杉村昌雄『天皇さまお脈拝見』(新潮社。昭和五十七年四月)一二四〜一三二頁
子どもたちのことを大變に案じつつ死去した。
「酒井美意子(【振假名】さかいみいこ)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)。講談社、一九六八年四月、三四五頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、三三九頁)
横綱吉葉山を贔屓にしていたという。
宮本徳蔵『力士漂泊 相撲のアルケオロジー』(東京、小沢書店、昭和六十年(一九八五)十二月)150〜151頁
[吉葉山は]学習院相撲部に指導に行っていた関係で、後援会にはそのOBがおおぜい会員となり、もと皇族の東久邇盛厚らも加わっていた。どの部屋でも千秋楽の晩は、近所の主婦や子ども、ファンが集まって和気あいあいと打ち上げをやる。三十分とたたぬうちに、酒豪でも鳴る吉葉山のまわりには一升壜の列ができる。東久邇の妻である成子、つまり天皇の長女照宮もその場にいて甲斐がいしく力士たちに注いでまわり、果ては、
「中尾さん、まあおひとつ」
 と銚子を気さくに差して、昔気質の会長【中尾幸雄。ゼネラル石油グループ創立者。吉葉山潤之輔の後援会長】をどぎまぎさせるのであった。
 東アジアの伝統にしたがえば、裸になりマワシをしめたとたんに普通人とはちがう、チカラビトに変身する。国王、将軍、大名の面前といえども礼法を無視し、胡坐(【振假名】あぐら)で酒杯をかたむけることが許される。・・・・・ チカラビトのいるところでは、身分や地位を越えた人びとの混在が当然のこととして容認された。・・・・・ 成子個人の資質はしばらくおき、その場の雰囲気にはそうした行動を少しも不自然に感じさせないものがふくまれていた。
 天皇がしばしば国技館におもむくのはよく知られている事実だが、そこは、酒や折詰料理を口にしている庶民と座を共にし得るただひとつのトポスとなっている。そののち間もなく夭折した内親王への偏愛からか、いつしか吉葉山贔屓となったらしく、テレヴィジョンに登場するさいはとりわけ気を入れて観戦しているといった極秘情報ももたらされたりした。
 
【おしるし】
 紅梅
成子のおしるしにちなみ、学習院女子第五十六回同級会(昭和十八年卒)は「紅梅会」と稱した。
 
【配偶】
 
盛厚王
 
【子女】
信彦王
文子女王
東久邇秀厚 ひでひこ
東久邇眞彦 なおひこ
東久邇優子 ゆうこ
 
【文獻等】
東久邇成子「父陛下のことなど」(インタビュー。『目撃者が語る昭和史 第1巻 昭和天皇 激動の時代のなかの昭和天皇の知られざる素顔』(猪瀬直樹監修。新人物往来社、一九八九年三月) 五二〜五五頁。初出、『人物往来』昭和二十九年五月)
『皇女照宮』(北条誠/酒井美意子 編。東京都新宿区赤城下町、秋元書房、昭和四十八年(一九七三)七月)
本田靖春「現代家系論 旧皇族十家族」(『文藝春秋』第五十一巻第九号、昭和四十八年(一九七三)六月、三〇二〜三一四頁) 三〇八〜三一〇頁
岩佐美代子(穂積)「照宮さまの御ことども」(『ふかみどり』第二十七号(常磐会、昭和六十年十一月)83〜84頁)
酒井美意子『元華族たちの戦後史 没落、流転、激動の半世紀』(発行:東京、宙(おおぞら)出版。発売:東京、主婦と生活社、一九九五年八月)
河原敏明『良子皇太后(【振假名】ながここうたいごう) 美智子皇后のお姑さまが歩んだ道』(ネスコ/文藝春秋、一九九三年三月) 一三二〜一四三頁
河原敏明『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社、一九七五年四月) 二〇一〜二〇四頁



 
次頁 「 成 [成淳]
『 親王 ・ 諸王略傳 』 目次 「 せ 」  『 親王 ・ 諸王略傳 』 の冒頭
『 日本の親王 ・ 諸王 』 の目次


更新日時: 2020.10.31.
公開日時: 2020.10.30.


Copyright: Ahmadjan 2020.10 - All rights reserved.