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宣仁親王[高松宮]によると、成子内親王への幼少時の教育には問題点があったという。
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『高松宮日記』昭和九年一月七日(繼宮明仁親王の御教育方法についての所感)
・・・・・ 全く新宮の御養育御教導こそ重大なる問題はあるまい。すでに照宮【成子内親王】その他の方々の御養育で經驗もある通り、早くその方策を決定し計画を立てゝかゝらねば、失敗するであらう。・・・・・
・・・・・
照宮樣ですら、魚屋とか何屋とか、はてはお寺と云ふやうなものについての概念をもつてゐられないで、國語讀本等に關する興趣もおわきにならず、困るやうな話である。まして御成身后はいよ々々下情に遠〔ざ〕かられる立場の方が、自由なるべき小學時代までをそんなことでは甚だこまりものである。
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幼少の頃より、動植物に興味を示し、學習院中等科在學中には、將來は結婚せずに生物學者になって父(昭和天皇)の助手になることを望んでいた、という。
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聰明・活發にして朗らかな性格で、テニスを好んだ。「御學友」の酒井美意子によると、きょうだいのなかで最も成績がよかったといい、理數科が拔群であり、「實にシャープなかた」であったという。
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「酒井美意子(【振假名】さかいみいこ)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)、講談社、一九六八年四月、三三一〜三三二頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、三二五〜三二六頁)
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昭和二十年(一九四五)三月九日、東京大空襲の眞最中に産氣づき、翌日の早朝、六本木の東久邇宮邸の防空壕から土藏に移り、信彦王を出産した。
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戰後の經濟的困難時には、非常に苦勞をして、自ら買物篭を提げ、内職に励み、動物を飼って副業をしたり、株式に投資したりして、苦境を乘り切ることができたという。
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「酒井美意子(【振假名】さかいみいこ)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)。講談社、一九六八年四月、三四五頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、三三九頁)
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東久邇盛厚の追悼文に、「・・・・・ 何十人という使用人にかしずかれ、名不自由なく、銭に手をふれることさえなかった生活から、戦後新たに雇った若い女中を助けとして、今日の米がなく芋を食い、来月の生活費を得るために、戦時中の結婚で、これというものもなかったが、それを二束三文で売り払い、蔵にはただ空になったタンスの並ぶのを淋しく眺める生活がはじまった。・・・・・ しかし、成子は少しもこれに屈せず、鶏を飼い、鶉(【振假名】うずら)を飼い、プラスチック加工の内職をして、戦後の人生再出発のため、薄給の私に後顧のうれいなからしめた ・・・・・」とあるという。
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ようやく生活に安樂を得たという矢先、癌により死去した(結腸癒着・腹壁膿瘍と發表)。
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癌の手術をしようとしたときは既に手遲れで、醫療の施しようがなかった。母 良子[皇后]は、藁にもすがる思いで、いかがわしい施療師に診療させて、かえって成子の苦痛を重くすることとなった。
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杉村昌雄『天皇さまお脈拝見』(新潮社。昭和五十七年四月)一二四〜一三二頁
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子どもたちのことを大變に案じつつ死去した。
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「酒井美意子(【振假名】さかいみいこ)氏との対話」(『華族 明治百年の側面史』(金沢誠・川北洋太郎・湯浅泰雄 編)。講談社、一九六八年四月、三四五頁。再刊、北洋社、一九七八年四月、三三九頁)
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横綱吉葉山を贔屓にしていたという。
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宮本徳蔵『力士漂泊 相撲のアルケオロジー』(東京、小沢書店、昭和六十年(一九八五)十二月)150〜151頁
[吉葉山は]学習院相撲部に指導に行っていた関係で、後援会にはそのOBがおおぜい会員となり、もと皇族の東久邇盛厚らも加わっていた。どの部屋でも千秋楽の晩は、近所の主婦や子ども、ファンが集まって和気あいあいと打ち上げをやる。三十分とたたぬうちに、酒豪でも鳴る吉葉山のまわりには一升壜の列ができる。東久邇の妻である成子、つまり天皇の長女照宮もその場にいて甲斐がいしく力士たちに注いでまわり、果ては、
「中尾さん、まあおひとつ」
と銚子を気さくに差して、昔気質の会長【中尾幸雄。ゼネラル石油グループ創立者。吉葉山潤之輔の後援会長】をどぎまぎさせるのであった。
東アジアの伝統にしたがえば、裸になりマワシをしめたとたんに普通人とはちがう、チカラビトに変身する。国王、将軍、大名の面前といえども礼法を無視し、胡坐(【振假名】あぐら)で酒杯をかたむけることが許される。・・・・・ チカラビトのいるところでは、身分や地位を越えた人びとの混在が当然のこととして容認された。・・・・・ 成子個人の資質はしばらくおき、その場の雰囲気にはそうした行動を少しも不自然に感じさせないものがふくまれていた。
天皇がしばしば国技館におもむくのはよく知られている事実だが、そこは、酒や折詰料理を口にしている庶民と座を共にし得るただひとつのトポスとなっている。そののち間もなく夭折した内親王への偏愛からか、いつしか吉葉山贔屓となったらしく、テレヴィジョンに登場するさいはとりわけ気を入れて観戦しているといった極秘情報ももたらされたりした。
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