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昭和四年(一九二九)三月二十四日、誕生。
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『法令全書』昭和四年三月 告示「宮内省告示第十三號 (官報 三月二十六日)」
稔彦王妃殿下本日午後八時四十分東京市麻
布區市兵衛町一丁目十三番地東久邇宮邸ニ
於テ御分娩王御誕生アラセラル
昭和四年三月二十四日
宮内大臣 一木喜コカ
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俊彦王
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昭和四年(一九二九)三月三十日、「俊彦(トシヒコ)」と命名。
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『法令全書』昭和四年三月 告示「宮内省告示第十六號 (官報 四月一日)」
本月二十四日誕生セラレタル稔彦王殿下ノ
第四男子名ヲ俊彦ト命セラル
昭和四年三月三十日
宮内大臣 一木喜コカ
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慶應義塾大學法學部に入學。
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東久邇俊彦
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昭和二十二年(一九四七)十月十四日、皇室典範第十三條の規定により、皇族の身分を離れる。
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『官報』第6226号 昭和22年10月14日 告示
○宮内府告示第十六号
恒憲王妃敏子、邦壽王、治憲王、章
憲王、文憲王、宗憲王、健憲王、邦昭
王、朝建王、朝宏王、朝子女王、通子
女王、英子女王、典子女王、守正王妃
伊都子、孚彦王、孚彦王妃千賀子、誠
彦王、冨久子女王、美乃子女王、稔彦
王妃聰子内親王、盛厚王、盛厚王妃成子
内親王、信彦王、文子女王、俊彦王、
恒コ王妃光子、恆正王、恆治王、素子
女王、紀子女王及び春仁王妃直子各殿
下は、皇室典範第十三條の規定によ
り、昭和二十二年十月十四日皇族の身
分を離れられる。
昭和二十二年十月十三日
宮内府長官 松平 慶民
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多羅間俊彦
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昭和二十六年(一九五一)、ブラジル國でコーヒー農場「多羅間耕地」を經營する、多羅間鐵輔(元サンパウロ總領事)の未亡人、キヌの養子となる。
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慶應義塾大學法學部を卒業した後、昭和二十六年(一九五一)三月、客船「プレジデント・ウィルソン」号で横浜を出航、アメリカ合衆國を經由して同年四月、ブラジル國リンス Lins 市に農業移民として移住。同時に、サンパウロ São Paulo 市にも部屋を借り、リンス市のコーヒー農場と二重生活を送る。
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移住後、約十年にして、土地の疲弊などを理由にリンス市のコーヒー農場「多羅間耕地」を手放し、サンパウロにおいて、タラマ工業不動産コンサルタントを經營。進出企業への不動産賣買やコンサルタントに從事する。また、プロドゥトーレス・コーヒー倉庫會社監査役、經營審議會副會長を務める。
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昭和四十二年(一九六七)十二月、花城勝子と結婚。
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ブラジル國籍を取得。
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ブラジル東京都友會會長、のち名譽會長。
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ブラジル日本都道府縣人會連合會(KENREN)相談役。
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ブラジル日本文化福祉協會(文協)副會長。
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學術振興會ブラジル協會副理事長。
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二〇一五年四月十五日、サンパウロ市の自宅において、心臓発作で死去。八十六歳。
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