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大正六年(一九一七)十一月三日、生誕。
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『法令全書』大正六年十一月 告示 宮内省告示第十八號(官報 十一月五日)
十一月三日午前二時五十分稔彦王妃殿下分娩王男子誕生セラル
大正六年十一月三日
宮内大臣 子爵波多野敬直
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大正六年(一九一七)十一月九日、命名。
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『法令全書』大正六年十一月 告示 宮内省告示第二十號(官報 十一月十日)
十一月三日誕生セラレタル稔彦王殿下ノ王男子名ヲ師正ト命セラル
大正六年十一月九日 宮内大臣 子爵波多野敬直
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大正十二年(一九二三)九月一日、鵠沼の吉村鐵之助別邸に避暑中、關東大地震に遭い、倒壞家屋の下敷きとなり薨逝。遺體は午後五時發見される。
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『法令全書』大正十二年九月 告示 宮内省告示第三十二號(官報號外)
武彦王妃佐紀子女王殿下師正王殿下寛子女王殿下九
月一日薨去セラル
大正十二年九月四日 宮内大臣 子爵牧野伸顯
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藤沢市教育文化センター編集『藤沢市教育史 史料編 別巻』(藤沢市教育委員会、二〇〇四年三月)所收『震災誌』「鵠沼海岸自警団の奮闘」、八六一頁下〜八六二頁下
鵠沼海岸自警団は、今から約一箇年前に組織された一自治団体であつて、今度の震災によつて突然に生れた所謂自警団なるものとは全然色彩を異にしてゐる。・・・・・ 本年七月、東久邇宮妃殿下が、当町鵠沼海岸なる吉村別邸に御避暑遊ばさるゝや自警団は、光栄此上もなしとて毎日団員二名づゝをして、これが警護の任に当らしめた。・・・・・
家を捨て妻子を捨てゝ急遽宮家へ
九月一日正午、突如の大震は此の地を襲ふた。其の瞬間電【ママ】の如く団員の頭に閃いたのは宮家の御事である。団長有田金八、副団長中野一郎他に関根吉五郎、菊池清次郎の四団員は、倒れたおのれの家を捨て、泣叫ぶ妻子を其まゝにして急遽宮家へと走つたのである。時既におそく、吉村別邸はもろくも倒潰して、妃殿下を始め奉り、王子方侍女ことごとく下敷とならせられてゐるのであつた。御側付の方々は気をいらつて御救助につとめやうとしたが、あまりに突然の変事なので道具といつても見当らず暫しは如何ともなす術はなかつたのである。駆けつけた自警団員は挺子よ、きりんよと走りまはつた。幸にも妃殿下は、階上の御間に居らせられたので、微傷だも負はせられず御救ひ出し申すことが出来た。先づ一安心と息つく暇もなく実に渾身の力をつくして王子殿下の御救助に努めたのである。もう少しといふ其の刹那、遙に襲ひ来る海鳴の響、妃殿下も危いと御懸念遊ばされた御模様であつたが、もとより死を決した人々である。海鳴物かは、と押し寄せる潮をながめ乍らも梃子持つ手を弛めなかつた。苦心惨憺、漸くにして御出し申したが、何たる御痛はしい御事であらう。此の時既に師正王殿下には壁間に御窒息遊ばされ眠れるが如き御姿で永の御旅に御成の後であつた。母宮殿下の御心中や如何に?たゞ御存命なれとのみ祈つた人々も、あまりの御いたはしい有様を拝して、涙の袖をしぼらぬものはなかつた。
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師正王の遺體は、東久邇宮一家と共に驅逐艦夕凪に乘り、大正十二年(一九二三)九月八日、歸京。
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『倉富勇三郎日記』
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佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書1911)(講談社、二〇〇七年十月) 三三六〜三三七頁
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