興我王


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[興我]

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興我王 コガ
 
稿本光孝天皇實録』二六四〜二六五頁の按文に、
興我王、本朝皇胤紹運録後陽成院御本、實相院本、彰考館本等ニ興雅王ニ作ルハ音通ニ依リテナルベク、吹上本帝王系圖ニ與我王ニ作リ壬生本本朝皇胤紹運録ニ典我王トナスハ誤冩ナルベシ、又村上本紹運録ニ大舍人トアレドモ他書ニ所見ナキハ疑フベシ、
とある。
 
【出自】
 三世王と推定される。
 系譜未詳。
 ※ 是忠親王(光孝天皇の男子)の男子とする系圖は誤り。
 ※ 平朝臣兼盛の祖父と作すのは誤り。
 
【經歴】
貞觀二年(八六〇)十一月十六日、無位より從五位下に敍される。
『日本三代實録』貞觀二年十一月十六日壬辰
[授]无位興我王從五位下。
貞觀七年(八六五)正月二十七日、大監物となる。
『日本三代實録』貞觀七年正月廿七日己酉
[以]從五位下興我王爲大監物。
貞觀十一年(八六九)正月七日、從五位下より從五位上に敍される。時に大監物。
『日本三代實録』貞觀十一年正月七日乙丑
[授]大監物從五位下興我王從五位上。
貞觀十三年(八七一)九月十一日、伊勢例幣の使王を勤仕。時に大監物從五位上。
『日本三代實録』貞觀十三年九月十一日甲申
遣使於伊勢太~宮、奉例幣、兼賽宿禱。告文曰。天皇詔旨、掛畏伊勢度會宇治五十鈴河上下津磐根大宮柱廣敷立、高天千木高知、天皇孫稱辭竟奉天照坐太神廣前美毛申賜。常九月~嘗大幣帛[]、王大監物從五位上興我王、中臣~祇大祐正六位上大中臣朝臣常道差使、忌部~祇權大祐正六位上齋部宿禰高善弱肩、太襁取懸持齋波利令捧持奉出賜。此状聞食、天皇朝廷寶位無動、夜守日守護助賜倍止申賜波久止。辭別。
『類聚國史』巻三「伊勢太~」貞觀十三年九月十一日甲申
元慶五年(八八一)九月十一日、伊勢例幣の使王を勤仕。時に散位從五位上。
『日本三代實録』元慶五年九月十一日丙辰
遣散位從五位上興我王、~祇大副從五位上大中臣朝臣有本等奉幣於伊勢太神宮。發自~祇官。諒闇也。
『類聚國史』巻三「伊勢太~」元慶五年九月十一日丙辰
元慶八年(八八四)二月十九日、光孝天皇即位由奉幣の使王を勤仕。時に散位從五位上。
『日本三代實録』元慶八年二月十九日庚戌
天皇御朝堂院小安殿、遣散位從五位上興我王、向伊勢大~宮奉幣。告以將即位也。
元慶八年(八八四)三月九日、筑前守に任じられる。
『日本三代實録』元慶八年三月九日庚午
[以]散位從五位上興我王爲筑前□【ママ】守。
元慶九年(八八五)二月二十日、山城守に任じられる。
『日本三代實録』仁和元年二月廿日丙午
[以]從五位上行筑前守興我王爲山城守。
仁和二年(八八六)七月十五日、男子五人が平朝臣を賜姓される。時に山城守從五位上。
『日本三代實録』仁和二年七月十五日壬辰
從四位上に進む。
吹上本『帝王系圖』
 山城守從四位上
【興】我王────
 
【子女】
安平[王] のち平朝臣[安平]
篤行[王] のち平朝臣篤行
有本[王] のち平朝臣[有本]
内行[王] のち平朝臣[内行]
潔矩[王] のち平朝臣[潔矩]
 
【文獻等】
稿本光孝天皇實録』二六四〜二六六頁「皇孫興我王」


 
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公開日時: 2021.03.18.

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