平篤行 / 平篤行


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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[篤行A]

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篤行[王] あつゆき
 
 のち平朝臣篤行
 
【字(あざな)】
 「
平津
 
【出自】
 興我王の二男。
 系統未詳。四世王と推定される。
 ※ 光孝天皇の曾孫にして是忠親王の孫とするのは誤り。
 ※ 平朝臣兼盛(もと兼盛王)の父とするのは誤り。
 
【經歴】
*篤行王
八六六年(貞觀八年)以降に誕生したと推定される。
四世王以下は滿二十一歳で自動的に敍位される。仁和二年(八八六)時点で無位と考えられるので、その時點では二十一歳未滿と推定される。
平朝臣篤行
仁和二年(八八六)七月十五日、平朝臣を賜姓される。
『日本三代實録』仁和二年七月十五日壬辰
山城守從五位上興我王男安平、篤行、有本、内行、潔矩【イ姫】等五人賜姓平朝臣。
寛平五年(八九三)、省試に及第して文章生に補される。省試で「春天凄風」と賦した。(字、平津)
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
方略試(秀才試)に及第して秀才となる。方略策で「論待即用〓【ネ柬】祥」と賦した。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
寛平十年(八九八)二月二十三日、大和大掾に任じられる。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
寛平十年(八九八)二月二十四日以降、伊勢權少掾に任じられる。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
寛平十年(八九八)三月、對策(大學寮における最高課程の試驗)に及第し、三月二十九日、判。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
平篤行は文章得業生を經ていないので、勞によって方略宣旨を得て、對策に及第したと考えられる。
昌泰二年(八九九)正月十一日、式部少丞に任じられる。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
延喜元年(九〇一)八月七日、文章得業生の紀淑望(紀長谷雄の長男)が方略試を受けるのに際し、式部少丞平篤行が、その問頭博士となった。
『類聚符宣抄』卷九「方略試、問者」
左大臣宣、宜令式部少丞平篤行、問文章得業生紀淑望方略之策者、
 延喜元年八月七日 勘解由次官兼大外記大藏朝臣善行
延喜二年(九〇二)二月二十三日、式部大丞に任じられる。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
延喜三年(九〇三)正月七日、從五位下に敍され、同日、三河守に任じられる。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
延喜七年(九〇七)正月、三河守の任期が終わり、替りを得て交代する。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
文章博士となる。
延喜八年(九〇八)正月、從五位上に敍される(給國)。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
延喜八年(九〇八)正月十二日、加賀守に任じられる。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
文章博士にして加賀守に任じられた。
大江朝臣匡衡「請兼任越前尾張等國守闕状」(『本朝文粋』卷第六「奏状」中)
正五位下行式部權少輔兼文章博士大江朝臣匡衡誠惶誠恐謹言
  請殊蒙 天恩依檢非違使勞兼任越前尾張等國守闕状
    文章博士任受領例
  橘公材任近江守
  巨勢文雄任越前守
  菅原C公任播磨守
  春澄善繩人伊豫守
  菅原在躬人大和守
  安倍與行【イ興行、興範】任肥後守
  三善C行任備中守
  藤原佐世人陸奧守
  平篤行任加賀守
    ・・・・・
    長コ二年正月十五日   正五位下行式部權少輔兼文章博士大江朝臣匡衡
延喜八年(九〇八)二月二十三日、筑前守に遷される。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
延喜九年(九〇九)九月二十九日、大宰少貳を兼任。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
延喜十年(九一〇)正月、卒去。
『古今和歌集目録』「平篤行一首(物名)」
從五位上興我王二男。母□□。寛平五年、補文章生(春天凄風。字平津)。年月秀才(論待即用〓【ネ柬】祥)。昌泰元年二月廿三日、任大和大掾。同年、任伊勢權少掾。三月、對策及第。廿九日判。二年正月十一日、任式部少丞。延喜二年二月廿三日、轉大丞。三年正月七日敍從五位下、同日任參河守。七年正月、得替。八年正月、敍從五位上(給國)。正月十二日、任加賀守。二月廿三日、遷筑前守。九年九月廿九日、兼少貳。十年正月、卒。
『本朝皇胤紹運録』等に「從四上」とあるのは誤りであると考えられる。
『本朝尊卑分脈圖脱漏』にあるように「從五上」とあるべきものであろう。
 
【逸事等】
菅原道眞の門弟であったが、道眞との關係が良好でなかった三善C行から「後進の英髦」と稱され、藤原時平からも才能を讚えられていた程の英才として知られていた。
三善朝臣C行「奉左丞相書」(『本朝文粋』卷第七「書状」)
  奉左丞相書
近日京中大小皆云。外帥【菅原道眞】門弟子在諸司者可被左轉、其文章學生皆被放逐云云。由是人人悲哭、跼蹐而立。伏以、此事變轉、未必殿下之本意也。但外帥累代儒家。其門人弟子半於諸司。若皆遷謫、恐失善人。惡逆之主猶處輕科。况至于門人、唯請u受業而巳。豈有知其謀乎。方今紛亂之間、擾攘之會宜立其陰コ塞其怨門。若咎過多、則怨門且多。若寛宥大、則陰コ亦大。伏望、非衛府供奉、關戍兵要之職、家司近親、同謀凶黨之人、則皆無轉動、示以仁厚、又式部丞平篤行、此後進之英髦也、殿下屢稱其才、頗有歳月焉。故雖編外帥之門徒、常感殿下之知己。而今乍聞此語、晝夜悲泣。若失此人、恐墜斯文。重望、賜其氣色、私相寛慰、聊傳恩裕之旨、以繋才士之心。謹啓。
    昌泰四年二月九日                 文章博士三善朝臣C行
 謹謹上 左相府殿下(政所)
後藤昭雄「古今集歌人における詩人的要素」
篤行は道真の菅家廊下に学び、中でも将来を属【囑】望される英才であった。道真の大宰権帥左遷で物情騒然となった時、三善清行は時平に書を献り、累禍の広がることのないよう具申したが、その中で特に篤行の名を挙げている。
    又式部丞平篤行ヽヽヽ、此後進之英髦ヽヽヽヽヽ也。殿下屢称其才、頗有歳月焉。故雖外帥(道真)之門徒、常感殿下之知己。……。若失ヽヽ此人ヽヽ、恐斯文ヽヽ
    (奉左丞相書『本朝文粋』巻七)
桃裕行『上代学制の研究〔修訂版〕』(桃裕行著作集 第1巻)(京都、思文閣出版、一九九四年六月)一三六頁
曾て清公の門人はその請益の処を名付けて「菅家廊下」といったが、道真の時になってその名はいよいよ盛んで、門徒数百朝野に充満し、その名を顕わす者、藤原道明・藤原扶幹・橘澄清・藤原邦基はいずれも納言に登り、橘公統・平篤行・藤原博文等は対策及科し。その他多かったという(『北野天神御伝』・・・・・)。
 
【詠歌】
『古今和歌集』卷第十「物名」(第四四七歌)
  やまし                平あつゆき
ほとゝぎす 峯の雲にや まじりにし ありとは聞けど 見るよしもなき
 
工事中 【大津市大鳥居の稻荷~社】
近江國 栗太郡 大鳥居(おおどりい)に所在する稻荷大明~社(稻荷~社。平成九年(一九九七)、大戸川ダム建設による町の移轉に伴い、現在地、滋賀県大津市大鳥居10-37に遷宮)は、仁和四年(八八八)に平篤行が勸請したとされる。
滋賀県神社庁「神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁」
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=104
大津市 環境部 環境政策課「大津のかんきょう宝箱 稲荷神社(大鳥居)」
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/content.asp?key=0401000000&skey=166
 
【文獻等】
稿本光孝天皇實録』二八九〜二九〇頁「皇曾孫篤行」
後藤昭雄「古今集歌人における詩人的要素」(後藤昭雄『平安朝漢文学論考 補訂版』(勉誠出版、二〇〇五年二月)325〜352頁。初出『鹿児島県立短期大学紀要』二二号、一九七二年)337〜338頁「平篤行」



 
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公開日時: 2021.03.03.

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