平篤行 / 平篤行
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*篤行王 | ||||||||
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八六六年(貞觀八年)以降に誕生したと推定される。
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平朝臣篤行 | ||||||||
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仁和二年(八八六)七月十五日、平朝臣を賜姓される。
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寛平五年(八九三)、省試に及第して文章生に補される。省試で「春天凄風」と賦した。(字、平津)
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方略試(秀才試)に及第して秀才となる。方略策で「論待即用〓【ネ柬】祥」と賦した。
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寛平十年(八九八)二月二十三日、大和大掾に任じられる。
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寛平十年(八九八)二月二十四日以降、伊勢權少掾に任じられる。
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寛平十年(八九八)三月、對策(大學寮における最高課程の試驗)に及第し、三月二十九日、判。
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昌泰二年(八九九)正月十一日、式部少丞に任じられる。
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延喜元年(九〇一)八月七日、文章得業生の紀淑望(紀長谷雄の長男)が方略試を受けるのに際し、式部少丞平篤行が、その問頭博士となった。
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延喜二年(九〇二)二月二十三日、式部大丞に任じられる。
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延喜三年(九〇三)正月七日、從五位下に敍され、同日、三河守に任じられる。
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延喜七年(九〇七)正月、三河守の任期が終わり、替りを得て交代する。
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文章博士となる。 | |||||||
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延喜八年(九〇八)正月、從五位上に敍される(給國)。
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延喜八年(九〇八)正月十二日、加賀守に任じられる。
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延喜八年(九〇八)二月二十三日、筑前守に遷される。
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延喜九年(九〇九)九月二十九日、大宰少貳を兼任。
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延喜十年(九一〇)正月、卒去。
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菅原道眞の門弟であったが、道眞との關係が良好でなかった三善C行から「後進の英髦」と稱され、藤原時平からも才能を讚えられていた程の英才として知られていた。
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後藤昭雄「古今集歌人における詩人的要素」
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桃裕行『上代学制の研究〔修訂版〕』(桃裕行著作集 第1巻)(京都、思文閣出版、一九九四年六月)一三六頁
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『古今和歌集』卷第十「物名」(第四四七歌)
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近江國 栗太郡 大鳥居(おおどりい)に所在する稻荷大明~社(稻荷~社。平成九年(一九九七)、大戸川ダム建設による町の移轉に伴い、現在地、滋賀県大津市大鳥居10-37に遷宮)は、仁和四年(八八八)に平篤行が勸請したとされる。
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『稿本光孝天皇實録』二八九〜二九〇頁「皇曾孫篤行」 |
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後藤昭雄「古今集歌人における詩人的要素」(後藤昭雄『平安朝漢文学論考 補訂版』(勉誠出版、二〇〇五年二月)325〜352頁。初出『鹿児島県立短期大学紀要』二二号、一九七二年)337〜338頁「平篤行」 |
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